3-2)浪江女子発組合について知っていること(2)/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

◎中期:Withコロナでの有観客イベント模索期

ここでの中期とは、Withコロナの状況下でも、やりかたを工夫しながら有観客イベントを再開していった暗中模索の時期を指す。

 

浪江女子発組合は、2020年10月31日 立川ステージガーデンで有観客イベント『浪江発立川へ 秋』を開催した。

ももクロ総体として見ても、コロナ第一波・第二波以降、初めて有観客ライブを再開する嚆矢となった(有観客MSRSの初適用だった)。

 

この日、『つながるウンメイ』と『またキミと。』が初披露される。

この2曲は、浪江女子発組合の活動再開について此岸/彼岸を成しているように思う。

 

『つながるウンメイ』

『つながるウンメイ』は、多くの場で解説されているとおり、浪江町の「春花火」と、常磐線全線再開(富岡―浪江区間の不通解消)をテーマにしている。

 

初期の組合員たちはよく知るように、かつて常磐線の富岡⇔浪江区間は開通しておらず、富岡駅で(JR東日本から委託された浜通り交通の)バスに乗り継ぐ必要があった。これが区間内の除染・インフラ整備をもって、2020年3月に復旧。南方面(東京・いわき)から浪江町への鉄道アクセスが大改善された。

『つながるウンメイ』は、曲の一番では、かつて震災前に常磐線に乗っていた記憶が綴られる。

窓の外流れるいつもの景色

見るともなし見てた陽だまりの席

それはまるで永遠みたいな優しい記憶

くりかえし思い出しながら 心で話しかけてた

改札の前 手を振りあったね 元気でいますか?

 

二番では、全線復旧した常磐線に久しぶりに乗って、浪江駅へ向かう。

何年か振りに買った乗車券

言葉にしなくても伝わってくる

時間も距離もなかったみたいに打ちとけあえて

すべりこむホームの匂いが 「おかえり」って言ってくれるよ

並んだ文字の 日付ひとつさえ 笑顔になれるね

 

そして、向かう先は「なみえ春まつり」の花火大会であり、友だちとの再会をそこで果たす。

あの日途切れてしまった レールの向こう側

また会えた 君と見る春花火

 

2020年の(のちに中止となる)春まつりの開催日は、4月17日だった。

(そしてこれが、ももクロ春の一大事の前夜祭『夜桜を見る会』も兼ねる予定だった)

 

『つながるウンメイ』は、2020年3~4月のかなり具体的な出来事にフォーカスしている。

おそらくは、中止になった定期大会第四回(3月7日)での披露が予定されていたのではないか(そして、この曲を携えながら、『夜桜を見る会』の花火大会に組合員たちを帯同しようとしていた)と推測する。

だとすれば、『つながるウンメイ』は、立川で”ようやく”お披露目された、浪江女子発組合の再始動によって救われた曲だったのだろう。

 

『またキミと。』

『またキミと。』は、中期の特色や特異性である、「浪江女子発組合の再始動」というテーマで曲が書かれている。

あーりんが、『つながる、ウンメイ』と『またキミと。』の音源配信開始に伴い、2020年11月22日のレギュラーラジオ番組『ももクロくらぶxoxo』で、楽曲解説をした。

『またキミと。』はね、ザ・王道のアイドルソングって感じ。ライブの終わりに歌う、ここでまた会おうね〜っていう。ライブに置き換えられるし、いまコロナで浪江でなかなか集まらない中で、またいつか浪江で集まれたらいいね、って曲でもあります。

 

コロナ禍でしばらく会えずにいた組合員との再会を「共にある瞬間 分かち合う瞬間」と喜ぶ。もし(コロナ禍の特性上)またしばらく会えない期間を強いられたとしても、

たとえこの瞬間(いま)が 幕を降ろしても

サヨナラは言わないよ

照れながら ここに誓うんだ

またキミと 笑える日まで

と、再び出会うことの宣誓でサビを締めくくる。

組合員とまた会うことを願うからこそ、『またキミと。』は、アルバム『花咲む』のラストにも抜擢された。

 

ここに、直接的な浪江町の行事モチーフはない。

「また会えた喜び」「また会える日を信じる」という浪江女子発組合の活動継続そのものがテーマになっている。浪江女子発組合はコロナ禍で抑圧されたことから、かえってその抵抗が、グループの活動テーマの一部を形成するようになる。

さらに言えば、浪江女子発組合が「自分たち自身」を問題化する、後期楽曲たちの先駆にもなった。

 

結果的に、立川ステージガーデンの公演は、コロナ禍が比較的小康した「すき間期間」を突いた開催になった。

その翌月以降、2020年11月~2021年2月にかけてコロナの第三波が猛威をふるい、二度目の緊急事態宣言も発令された。

立川ステージガーデンそのものは、クラスター感染を起こすこともなく有観客MSRSの信頼性を示したが、浪江女子発組合はその後しばらく(再び)、何らかの制御をかけたイベントを指向するようになる。

 

2021/1/24 定期大会 第四回延期。代わりに配信番組を開催。

2021/3/13 定期大会 第四回(JA浪江が1年ぶり浪江町訪問。その地から無観客配信)

2021/4/11 定期大会 第五回(福島県在住者限定で浪江町で有観客イベント)

 

『ほれ、あいべ!』

2021年5月22日 「佐々木彩夏PPPが今後の浪江を語る会」を配信した。

www.youtube.com

ここでのライブコーナーで、あーりんと内藤るなさんによるユニット曲『ほれ、あいべ!」が初披露された。

 

浪江町のイメージアップPRキャラクターうけどんをテーマに、牧歌的な歌詞がつづられているが、個人的には、オチサビの一節

つないでく やさしさは

強い絆になる!

に毎回感動する。簡潔に、この一節だけを語る。

 

2つ前のブログで書いたうけどんの成り立ちを振り返る。

うけどんは、2013年に浪江町役場の復興推進課(現在の企画財政課)で立ち上がった「浪江町絆再生タブレット事業」に起源を持つ。

離れ離れになった避難住民たちに町がタブレット端末を配布し、オリジナルの情報アプリ『なみえ新聞』や、YouTube『なみえチャンネル』を通じて、浪江町の情報を発信する。

散り散りになった人たちの中で浪江町が風化することを防ぐとともに、プラットフォーム上で個々人の絆の紐帯を務める。そんな情報発信にあたって愛嬌ある仮人格を設けるために、町民からデザイン募集して作られたキャラクターがうけどんだった。

だからうけどんは、浪江町の人たちを「つなぐ」ことと、「絆の再生」をすることにキャラクターとして本義・原点を持つ。

「つないでくやさしさは 強い絆になる」という歌詞は、うけどんの本質を浪江女子発組合が理解し、歌っていることを示している。このパートを聴くたび、毎回感動する。

 

◎後期:「あいのりきっぷ」という新指針

2021年11月20日 定期大会 第七回が開催された。

youtu.be

場所は浪江町で、他地域民も問わず広く招いた有観客イベントとしての定期大会である。その本来的な条件下での定期大会は、2020年2月が最後だったため、実に1年9ヶ月ぶりだった。

 

この日、あーりんは12月にLINE CUBE SHIBUYAで行う『浪江女子発組合 組合総会 あいのりきっぷ』の詳細を発表した。『あいのりきっぷ』というタイトルの意味するところを、あーりんはこう語った。

あいのりきっぷっていうサブタイトルをつけさせてもらったんですけど、

これは、大柿さんとも相談させてもらって、

春に、浪江町のみなさんと協力して大きなイベントをさせてもらいたいって話していて、

一人でも多くの人に浪江町に来てもらいたいなって思ったとき、

私たちが武道館を目指したいと言っている理由の一つと同じなんですけど、

東京でたくさんのみなさんと触れ合ったり、たくさんの人たちに知ってもらったり、私たちのことを好きになってもらうことで、春に向けてたくさんの人たちが、「あいのり」していただければな、

っていう思いを込めて、このタイトルをつけました。

 

付言するなら、浪江女子発組合が「あいのりきっぷ」をつけてライブをするとき(渋谷と仙台で実績あり)、以下のような前提も含まれるだろう。

 ・浪江町以外の場所、都市部で有観客ライブを行う

 ・チケットを有料とし、予算があって初めて可能な凝ったプログラムを披露する

 

コロナ禍での移動制限から、浪江女子発組合は「浪江町へ移動せず首都圏のまま何かを行う」ことをずっと要請されてきた。

ならばいっそ、首都圏での活動を活発化させてしまう。都市部のアイドルシーンに適うグループ体制・楽曲の幅へと強化していく。その結果、拡大したファンをいずれ浪江町へ「あいのり」させる。

 

浪江女子発組合は元来、ご当地アイドルであるが、他地域から浪江町に訪れる「交流人口」としてのグループだった。全国のファンに浪江町に来てもらい、知ってもらい、そして復興の素地となる「笑顔」を浪江町にもたらすことを目指してきた。

そのための、動員力を持たないといけない。

 

浪江町は、復興計画の一部「浪江町総合戦略」のKPIの一つに「交流人口」を持つ。

産業振興課の観点として見たときも、浪江女子発組合は「交流人口」拡大の施策であると言える。

だから、浪江女子発組合も町の目的に呼応する。

 

思い返せば、2021年4月11日の定期大会 第五回であーりんは、年内の武道館公演を目指すと宣言した。裏で実はすでに会場予約をしている、といったことの一切ない状態での「ガチ」の宣言だったことは、のちにももクロ番記者 小島和宏が証言している。

 

何ヶ月かを経て、あーりんが武道館公演の年内目標を撤回したとき、作為的なドラマ演出でなく「ガチ」だからこそ、撤回をせざるをえなくなったのだとファンたちは得心した。

少なくとも、この2021年の春、浪江女子発組合を再始動しようと本格的に動き始めたとき、あーりんは「首都圏での動員力」を明確に意識し始めていた。

 

あーりんは、浪江女子発組合のプロデュースをめぐって、このグループの成長に「欲」を持ったことも語っている。

 でも、やっぱ2年やっていく中で、みんなの自分のチームの見せ方と、浪江女子発組合の見せ方。2つパフォーマンスの仕方を持てたら、もちろん武器になると思うし、浪江のみなさんの力になりたいってことと併せて、私達自身のスキルアップもしていきたいって気持ちが強くなっていきました。

ドキュメンタリー『JA浪江の2021年』

 

コロナ禍は、ももクロ春の一大事に延期を、浪江女子発組合に活動停滞期をもたらした。そう考えられているし、事実そのとおりだが、これが期せずして浪江女子発組合の方針に大きな影響を与えていく。

 

つい先日、春の一大事2022 Day2を終えた直後、あーりんにこの3年間を振り返るインタビューが「マンスリーAE」で公開された。

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これもファンクラブコンテンツなので、直接的な引用を割け、要約を書いていく。

 

浪江女子発組合について、もともと春の一大事を盛り上げるための「限定ユニット」と思っている人も多かっただろうとあーりんは言う(もっとも、公式がそう発言したことはないが)。

もし延期なく春の一大事が開催されたら、「役割を終えてフェードアウト」してもおかしくはなかったと言う。

確かに、浪江女子発組合は活動初期のころ、春の一大事 2020までにミニアルバムをリリースすると言っていたし、元・白夜書房の並木愼一郎さんが協力してスタイルブックを出すという話もあった(後者は流れた)。

浪江女子発組合の活動を決算する成果物は、当初、いずれも春の一大事の開催がゴール地点に設定されていた。しかし、春の一大事の予定が宙吊りになったことで、浪江女子発組合の活動が長期化する。

 

ここで2つのニーズが生じたことを、あーりんは語る。

  • 春の一大事が延期されている間もなお、福島とももクロのつながりを持ち続けること。
  • あーりんの中に、アイドルグループとしての楽曲がもっと欲しい、完成度を上げたい、(大先輩×後輩の壁を取りはらい)チームワークを強化したい、といった「欲」が生まれたこと。

この2つが合流(利害一致)し、浪江女子発組合は長期化した。そして、いまや「春の一大事が終わってもなお続く」ことに軸を置くまでに、グループとしての自走性を持つに至っている。

2021年11月20日の定期大会 第七回では、隈研吾による浪江駅前の再開発が2025年に完了すると大柿さんが話したのに対し、あーりんは、そのときまで私たちも活動できているように頑張りたいと答えた。あーりんは、この時点で間違いなく、浪江女子発組合は春の一大事とは独立して、活動継続していく絵を頭にえがいている。

 

そして、浪江女子発組合は、「浪江町について歌うこと」と並走し、「自分たち自身のことを歌う」楽曲のコードを涵養し始める。

それは、上であーりんが語った「浪江のみなさんの力になりたいってことと併せて、私達自身のスキルアップもしていきたいって気持ちが強くなっていった」こととも紐づく。

浪江女子発組合が、浪江町の行事モチーフを用いず自己主題化をはかるのは、『またキミと。』で先見されていたが、よりギアがかかったのは、2021年12月11日のLINE CUBE SHIBUYA『2021年JA浪江 組合総会 あいのりきっぷ』公演だったように思う。

 

この渋谷公演では、各メンバーに自選のソロ曲を披露させ、一人ひとりの個性にフォーカスをあてた。ここでのソロ曲は、「自分の活動の原点だったころの曲など」を選ばせたという。

結果的に、メンバーたちは3B juniorとして出自やももクロ単独公演のバックダンサーを務めた想い出の再現に、ステージ上を花咲かせた。

https://popnroll.tv/articles/22012

市川優月が3B juniorの「ベリメリ・クリスマス」を歌い、バックダンサーとして小島はな高井千帆、播磨かなの3人が懐かしさ溢れる3B時代のグッズ「抱きしめたくな~れ!魔法のスティックライト」を使用し、会場にいるファンと配信にて視聴しているファンとコール&レスポンスを取りつつ一体感を生んだ。

 

ももいろクローバーZの「労働讃歌」が流れると、高井千帆を中心に、佐々木彩夏市川優月小島はなとともに気迫のこもったパフォーマンスを披露。途中には2014年に行なわれた<桃神祭>のオマージュで、佐々木彩夏とサングラスを掛け合うシーンも盛り込まれた。

 

続けて小島はなももいろクローバーZの「鋼の意思」をガッツ溢れる歌声で歌唱し、愛来市川優月鈴木萌花内藤るな高井千帆、播磨かなとともに7人で当時3B juniorメンバーとして参加していた<ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会>を再現するフラッグを取り入れたステージングで会場の熱をさらに高めた。

 

この日、初披露された楽曲『それぞれのハタ』は、3B juniorの曲調があきらかに意識されている。

同じく浪江女子発組合の自己紹介ソング『桜梅桃李夢物語』は、浪江町の花――避難指示解除後に浪江町で盛んになった花卉産業や、町の風景に散りばめられた花の種々をモチーフに使用しながらも、本義的には「彼女たち自身」の個性にフォーカスしている。

 

こんにち、浪江女子発組合は、浪江町の風土・行事・文化を媒介するだけでなく、彼女たち自身の魅力、チーム感をはぐくみ、ファンに認知してもらうよう指向している。

たとえば、かつて初期のももクロが「和をモチーフにしたグループ」という自己定義から遊離し、同語反復的な「ももクロらしさ」を問題化し始めたとき、たちまち飛躍的成長を遂げたように。

 

『いつかまた浪江の空を』

上述したような、浪江女子発組合が「自分たち自身」を主題化することにギアを切ったとき、一種「浪江町に寄り添う」ことの自戒、その碇を降ろすように、あーりんはアルバム『花咲む』に「浪江町出身の方のメッセージ」も取り入れたいと考えた。

そして、浪江町出身のシンガーソングライター牛来美佳さんへ、本曲のカバーがオファーされた。

 

https://namienosora.com/#ref05

「いつかまた浪江の空を」をカバーさせていただいてる浪江女子発組合のプレイングプロデューサーを務めさせていただいてます、佐々木彩夏です。

 

私たちは浪江町を中心に活動させていただいておりますが、実際に浪江町出身のメンバーがいるわけではありません。

 

今回アルバムを制作するにあたり、実際に浪江町出身の方のメッセージもこのアルバムに込められたらなぁと思っていたところこの楽曲に出会いました。

 

とても優しく強いこの楽曲を歌うのは緊張しますが私たちなりに表現しました。

 

少しでも多くの方にこの楽曲が届きますように。

 

これからも大切に歌わせていただきます。

 

浪江女子発組合の楽曲では、基本的に避難指示解除後の――復興へ前向きに突き進む浪江町を念頭に置いて、曲中の風景がえがかれる。

いっぽう、『いつかまた浪江の空を』は、牛来美佳さんが震災後、群馬県で避難生活を送っている2013年ごろに作られた(作曲は山本加津彦、作詞は山本・牛来さんの共同)。2015年にレコーディングが行われたときには、当時、避難先の二本松の仮校舎に通っていた浪江町の小学生21人(この子らは浪江女子発組合の妹メンバーたちとほぼ同世代である)のコーラスが取り入れられた。

 

まだ、浪江町の避難指示解除の時期・方法が社会から示されていなかった時期に書かれたこともあり、率直に「帰りたい/帰れない/帰れる日は来るのか」という不安と、なおも格闘する希望とがないまぜになった詞が綴られている。

いつもいつも 歩いていた道

笑い声が聞こえてた 優しい町

あといくつ数えたら

その日は来るのですか

(…)

伝えたくて 諦めたくなくて

想い歌に叫ぶけれど どこに届くの…?

 

浪江女子発組合は、かつて牛来さんから山本加津彦に送られたアルバムや手紙を目に通したうえで、歌ったという。

浪江女子発組合からカバーのオファーがあったことは、コロナ禍で思うように活動ができず「路頭に迷うような気持ち」でいた牛来さんにとって、「とても嬉しく、新たな広がりに希望」を持てる出来事だったと言う。

そして、浪江女子発組合は、「震災のことや想いを伝えるために歌い続けてきた私の歩みなど、「いつかまた浪江の空を」の楽曲に関して十分に理解してくださって」いると。

readyfor.jp

※論旨から外れるけど、この牛来さんの復興支援ライブのクラウドファンディングは、浪江女子発組合へ大事な『いつかまた浪江の空を』をカバーさせてくださったことへ感謝の念を持つ人なら、ぜひ心ばかりの支援をしたらよいと思う。

 

アルバム『花咲む』のリリースインタビューでも、あーりんはこのように語った。

natalie.mu

佐々木 

牛来さんが被災したときに感じた気持ちや、浪江町に住んでいた方の気持ちが歌詞に詰め込まれているので、それをちゃんと伝えられるように私たちも受け継いでいく、という思いで歌っています。私も震災当時のことを印象深く覚えているんですけど、やっぱり東京で感じた気持ちと、当時浪江町に住んでいた方が感じられた気持ちは全然違うし、私たちが想像できないような大変なことがたくさんあったと思うんです。それを、私たちを通してもっと若い世代に伝えていけたらと考えています。10年経って震災と向き合う気持ちを忘れちゃった人もいるかもしれませんが、あのとき感じた気持ちを忘れないようにするのも大切なことだと思うので、そのきっかけになれたらなって。

 

すなわち、あーりん・浪江女子発組合なりに、3.11という複合災害の記憶を、異なる地域・若い世代へと「伝承」するために歌っている(「震災の記憶の伝承」も、浪江町が復興計画の施策の一つに掲げる重要なテーマである)。

『いつかまた浪江の空を』は、2年半の活動を経てきた浪江女子発組合が元来の倫理へ立ち返る、一種の一里塚のような楽曲になっている。

 

『ハレノヒの足跡』

現時点、『ハレノヒの足跡』が浪江女子発組合の最新楽曲だが、個人的にもっとも感動を憶えた曲でもある。

曲冒頭の歌詞でその名称が出るとおり、浪江町の十日市祭りを題材にしている。

 

浪江町の特に今日的な問題意識と、浪江女子発組合のスタンスが、この曲の中で一様に合流している。

 

一番のあーりんパートで

変わらないために 変わりゆくこと

少し怖くなるけど

行き交う人達の温もりは

今も あのまま

と歌う。

今年の3月11日に、浪江女子発組合のInstagramであーりんは、『ハレノヒの足跡』のこの一節を慎ましやかに投稿している。あーりんなりに、この一節が特に、浪江町に寄り添うメッセージであると解しているのだろう。

 
 
 
 
 
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「変化(変わる/変わらない)」というテーマは、しばしば浪江女子発組合の先行曲でも歌われてきた。

『ほれ、あいべ!!』

変わってく景色たち 変わらないこの気持ちで

つないでくやさしさは 強い絆になる!

 

『つながるウンメイ』

変わらないもの、変わりゆくもの、

全部 ちゃんと抱きしめてたいよ

 

浪江町の物質的な景色は、震災以降あるいは避難指示解除以降、どんどんと変わっている。いまも変わり続けている。

物質的には変わるが、それでも「変わらない」ものがヒトの「絆」である。浪江女子発組合は一貫して、この定義で「変わるもの/変わらないもの」を歌い続けている。

 

現町長の吉田数博が昨今よく発信するメッセージがある。

浪江町は変わっていく」ということの覚悟と、それを受け入れるよう人々に願うメッセージである。

 

mainichi.jp

 ――町の風景の変化に、戻らない町民から「置き去りにされている」という声も聞こえてくる。

 帰還率が1割に満たない状況では、新しい人の力が必要だ。魅力ある町と捉えてもらうには、ある程度町の形が変わることはやむを得ない。震災前の学校は解体され、寂しいと思う。各校跡地に記念碑などを集めたポケットパークのような場を作り、歴史に触れられるようにしたい。

 

◎広報なみえ 2022/4号『吉田町長に聞く 新年度を迎えて』

最後に、〝町づくりへの想い〟を聞かせてください。

 今、町の景色はどんどん変わっています。そのことで「故郷が無くなるのではないか」と不安になる人もいるかもしれません。しかし何も手を加えなければ、町は荒れ果て、寂れ、本当に故郷がなくなってしまいます。

 昔から町は常に変化してきました。伝統・歴史を生かしつつ変化させることは、今を生きる者として、先人から受け継いだふるさとを守ることだと思うのです。

 これからも、皆さんがいつでも帰れるよう「ふるさと浪江」を守り、そして子供たちの未来に引き継いでいくために全力で取り組んでまいります。

当然だが、震災前の浪江町に郷土愛を持つ人たちにとって、町の風景が変わっていくことは、複雑な感情を呼び起こす。

あるいは、避難指示解除の予定がいまだ示されていない区域にふるさとを持つ人たちにとってすれば、町の中心部の復興が賑やかであるほど、疎外感を抱くこともありうるだろう。

ある人にとっての「浪江町」が、特定の緯度経度の場所を指すのでなく、郷愁を呼び起こす「あのコミュニティ、あの文化、あの日常」を指すと考えれば、ただ経済的・産業的に活性化することがイコール「復興」とは言えないことなど容易に理解できる。

 

吉田数博は、やや強く、これからの浪江町が「変化」を受け入れていくことを宣言する。それは「子供たちの未来に引き継いでいくため」であると。

 

震災復興を巡っては、阪神淡路大震災時にときの政権が「創造的復興」を謳い、多くの反対意見があった神戸空港の建設など、のちに地域を疲弊させる財政が行われた歴史的反省がある。3.11をめぐっても、自民党は(狙ってか、あるいは単なる歴史的無知からか)同じ「創造的復興」をしばしば唱えている。そこに、自治体や地域からの警戒心が生じてもいる。

しかし、いま浪江町で新たに興っている産業・農漁業について、国の旗振りに盲目的に従った結果ではなく、町自身の意思を緊張感をもって介在させていることは、1つ前のエントリーで自分なりに詳述してきた。

 

大事なことは、たとえ町の変化をめぐって、属性・立場の違いによる「わかりあえなさ」があったとしても、その個々人同士において「交流」はできるということだ。

浪江町はその視点をつねに持っている。

 

上に引用したとおり、吉田数博は「震災前の学校は解体され、寂しいと思う。各校跡地に記念碑などを集めたポケットパークのような場を作り、歴史に触れられるようにしたい。」と語った。

2020,2021年にかけて、浪江町内の小中学校について、現在稼働中のなみえ創成小学校(と、いまも立入制限中の津島地区内の学校)を除いて、すべての閉校が決まった。

行財政の逼迫回避を理由とし、町民の「記憶」が詰まった学校という場所を後世に継げなくなることに対し、町内にいくらかの失意がもたらされた。

www.sankei.com

 

だが、たとえば浪江町は代わりに、学校跡地に4箇所の防災コミュニティセンターを開設した。古くから住民たちに親しまれてきた場所を、新たな交流が息づく拠点にしようとしている。

www.minyu-net.com

 

町はかつての風景から少しずつ変わっていく。それは避けられない。しかし、語り継ぐこと、話すこと、伝承すること、といった「交流」の機会を代わりにビルドインすることをもって、町はケアをはかろうとする。

『ハレノヒの足跡』も、町が変わっていくことに「少し怖くなるけど」と言うが、「行き交う人達の温もりは 今も あのまま」と、人々の絆や交流は変わらないことを信じる。

 

「過去と未来」「距離と時間」をめぐって、それぞれに異なる視座・属性を持った(必ずしも溶融できない)人たちが十日市祭りに集い、交流する。

過去と未来が「ハレの日」でつながる

どれだけの出逢いを重ね合えるだろう

縁を織りなし 辿る足跡

これまでの日々と 愛しい明日よ 晴れ渡れ!

 そこでの「出逢い」によって、「これまでの日々(過去)」と「愛しい明日(未来)」が合流する。「距離と時間」を分かつ他者が出会い、なお他者のまま「縁を織りなす」ことで動き出す時間に対し、「晴れ渡れ」と祝福の言葉を捧げる。「ハレノヒ」とは、そんな場なのである。

 

思えば、前町長の故・馬場有が語っていたところによると、避難指示解除にあたって若い避難住民に話を聞くと、彼らの多くはかつて震災当時は小学生(あるいはそれ以下)だったため、町の記憶がおぼろげだった。ひいては、町への郷土心が年配者のそれと均一ではない。

だが、かつて子どもだった彼ら・彼女らは口を揃えて、町のショッピングセンターや十日市祭りのことは覚えていると言ったという。震災前の町の具体的なディテールがおぼろげであっても、お祭りのあの温かい空気を、子どもたちは、イメージに焼き付けて記憶しているという事実があった。

だから、馬場有は、お祭りや伝統行事を絶やさずに行うことが、町の絆再生で重要な意味を持つと確信した。

 

『ハレノヒの足跡』でも、

大きな手のひらを握って

露店通り眺め歩いた

りんご飴の頬を赤らめ

見るもの全てが光って見えた

と、大人の「大きな手のひらを握って」十日市祭りを歩いた子ども時代の記憶が歌われる。歌詞の人称はつねに、震災当時幼かった――いまの浪江女子発組合のメンバーとちょうど同じ若年層の目線で歌われている。

 

想い出の 色が薄れゆくこと

切なさもあるけれど

向けられた笑顔は鮮やかに

あの日 あのまま

そんな彼女らにとって町の記憶は率直に「薄れゆく」中にあり、その「切なさもあるけど」、しかしお祭りの日、子どもだった自分に向けられた「笑顔は鮮やかにあの日 あのまま」に記憶に残っていると言う。

 

浪江女子発組合は、公式サイトで「女子ならではのスタンスで浪江の今を伝えます」と謳うとおり、実は、つねに楽曲内の視座を、いま十代~二十代前半の「女子」の目線に据え置いている。

 

ひいては、さまざまにありうる「浪江町」を見る属性・立場に関して、自分たちは「女子」(特に若年層であること)の目線からメッセージを発するという選択結果を表明をしている。

 

たとえば、「浪江のこころ通信」であったり、「双葉郡未来会議|ボイスアーカイブ」であったり、被災地の人々の声を可視化する媒体を覗いたとき、多くの若い人たちが、故郷よりも避難先で生きた時間のほうが長いこと。ふるさとを、ふるさととして見る視座を持つことの難しさを話す。

しかし、それを彼ら・彼女らは決して「負い目」に感じたりせず、自分なりのスタンス、自分なりの温度感で、軽やかに故郷と接することが許されてしかるべきだろう。「復興」は、オブセッシブに臨んではならない。

 

浪江女子発組合も、「女子」という視点から、

夢はいつでも 自由なままに

終わらない旅は続く

曲がりくねった日々の向こう側へ

私らしく歩いてく

足取りも軽く

決して一様ではない「曲がりくねった」道のりを「私らしく歩いてく 足取りも軽く」と歌い、この曲を締めくくる。

 

浪江町の――決して上辺をなめる程度ではない問題意識と、浪江女子発組合がどういった態度でそこに取り組むかという意思を、『ハレノヒの足跡』は、果敢に、しかし軽やかに示してくれる。

この曲に、浪江女子発組合が2年半活動し、得られた「成熟」のモニュメントがある。

 

■結び

浪江女子発組合は、コロナ禍によって活動を阻害されたと考えられてきた。しかし、むしろコロナ禍によって活動が恒久化し、深化を遂げた。

あーりんは、春の一大事翌日の『Monday居残りライブ』を終えたあと、福島民報からインタビューを受け、そこで「今後も福島県に寄り添っていく」思いを語った。

 

www.minpo.jp

―今後の福島県との関わりは。

  「個人としては、プロデュースしている浪江女子発組合(浪江女子発組合)の活動にやりがいを感じている。浪江町を中心にライブ活動を展開して、多くの人に福島の魅力を知ってもらいたい。グループとしては頻繁に来ることはできないが、気持ちに寄り添っていく」

 

福島県民にメッセージを。 

 「東日本大震災を経験した皆さんと私たちの気持ちは一緒ではないと思うが、できるだけ近づきたいと思っている。ライブを終えてもっと交流したいという気持ちが大きくなった。いろいろな町を訪れ、祭りの手伝いなどをしてみたい。これからも応援よろしくお願いします」

こうした言辞を見るに、おそらくあーりん自身は現段階、浪江女子発組合に終わりを想定していない(少なくとも、何らかの強制的な外部要因によって終わらざるをえなくなるまで)。

「浪江女子発組合の終わりはいつか」という問いは、被災地の「復興はいつ完了するのか」という問いと似ている。

 

第一に、福島第一原発廃炉や、町内全域の除染が完了し、安心できる形でふるさとが住民へすべて返されることが挙げられる。

そして、町の産業・コミュニティが再構築され、町自身による自治力や持続可能性を、そして揺蕩う「日常」への信頼を持て得たとき、その状態を「復興」と呼びうるだろう。

悲しいことに現時点、この「復興」の時期を予測できる人間は、この国に誰もいない。

ひいては、いまはまだ「終わり」の時期を考えるときではない。

 

ももクロが東北被災地との接してきた前例に立ち返るなら、ももクロは、岩手県女川町と「友だち」の関係を結んだ。言い換えれば、「終わらない関係」を先んじて志向した。

なんてことはない。むかしから、ももクロが取ってきたのと同じ態度が、浪江女子発組合にもある。

 

■最後に(夜桜を見る会のこと)

最後に、このブログの前後でようやく楽しんできた春の一大事および『夜桜を見る会』について、個人的な思い出を書く。

 

自分の中に、春の一大事および浪江女子発組合を巡って、2つの期待と不全感があった。

 

ひとつは、浪江町長の吉田数博が、春の一大事にかかわる場へ姿を見せないこと。馬場有から連なる浪江町の復興意思の首長が、ももクロとの交流に積極的でないように見えたこと。

もしや、広野・楢葉といった「立地町」との間にあるギャップのためだろうか。福島第一原発増設の返礼として協力町に東電が建てたJ-VILLAGEを、いま復興シンボルへとリブランディングすることへの(いまさら誰もつっこまないことへの)違和か――等々、ただの邪推でしかない想像を掻き立てられた。

 

もうひとつは、『なみえ春まつり』が発表されずにいたこと。

 

よく知られるように、2019年12月の定期大会 第1回で、川上マネージャーが「4/17に、春の一大事の前夜祭として、『夜桜を見る会』をやらせていただく」と言い、すぐに産業振興課の大柿さんが「浪江にも毎年行っている春まつりという、夜桜を見ながら花火を楽しむ行事があるので、是非それと合流して」と返した。

 

J-VILLAGEを擁さない浪江町にもモノノフが駆けつける契機は、すでに浪江女子発組合の発足時点から、『なみえ春まつり』『夜桜を見る会』の合同化によって織り込まれていた。

ももクロ単体のイベントではない。ももクロ浪江町が一緒に行い、その二者が「仲良くなる」イベントであることに意義がある。

 

2年の延期を経て、2022年3月中旬、ももクロ側は『夜桜を見る会』の開催を発表した。

日付は春の一大事Day1、4/23の夜。そのころ桜はほぼ散っている。

では、より前の時期に、別途『なみえ春まつり』が開催されるのだろうか、と考え、同じころ毎日のように浪江町の広報をチェックしていたが、ついぞ町から『なみえ春まつり』の告知がされることはなかった。

 

『夜桜を見る会』は『なみえ春まつり』と合同開催なのか、あるいは別ものなのか(春まつりは今年も中止なのか)最後まで分からずにいた。

(純粋な花見目的では、4/9に個人的に浪江町へ行ったが、その時期でまさかの二分咲きだったので運が悪すぎてウケた)

 

いざ『夜桜を見る会』当日、チケットは無惨に落選していたが、すぐ近くのホテル『双葉の杜』に泊まっていたため帰り道の心配もなく、許される位置から花火を見ようと思い、道の駅なみえに駆けつけた。

 

すると、道の駅なみえの前には屋台が立ち並び、家族連れ、年配の方――どう見てもモノノフではない町の人たちも数多く混じって、賑わっている。

正式に名称をかぶせないにせよ、やはり浪江町にとっての位置づけはれっきとした『なみえ春まつり』なのだと確信した。かつては請戸川リバーラインの土手に設営された屋台やテーブルが、いまは電源供給の容易な道の駅前に移されただけで、ここにあきらかに『なみえ春まつり』のスキームがあることを喜んだ。

 

いざ、自分なりの「見える位置」について、イベントが開始したとき、あーりんの隣に吉田町長が立っていることに気づき、「あ」という声が出た。

自分の中で、時間が一瞬止まった。

 

氷解した。なんてことはない。吉田数博は、ここが位置づけ的に『なみえ春まつり』であり、ひいては「町民」のイベントだから、参加してきた。

春の一大事には、ももクロのファンが全国から集まる。浪江町は三町のうちの一である。『春の一大事』がイコール「町民」のイベントかというと、必ずしもそうは言えない。

いっぽう、かつてももクロと浪江女子発組合がステージに立った十日市祭りに、彼女らのためでなく「町民」のために、吉田数博は祝辞に立っていた。

「町民」純度が高くないと、(あらゆる地域の自治体でも特に激務で知られる)浪江町長の務めにおいて優先度が下げられる――ただ単純にそういった判断がされただけだろうと思い至った。

かつてあった胸のうちの不全感は、たちまち溶けて消えた。

 

ももクロのOvertureが流れ始める。

そう太くない請戸川一本を挟んで、土手の反対向こう側から花火が打ち上がる。

ももクロの音楽とともに、2年半ずっと見たいと願ってきた浪江の春花火が、打ち上がる。

メンバーも感動していた通り、この距離で、首を後ろ90度に倒して見上げながら、自分に”降り注いでくる”ような花火を見るのは初めてだった。

※写真はうけどんのTwitterから拝借。

 

花火を見る、というよりも、花火の光に視界の端から端までジャックされる感覚だった(これはあの場所に立ち会ったすべての人間が理解することだろう。同時に、あの場所に立たなかった人間に感覚の質を伝えることの難しい歓びでもあった)。

 

自分が、浪江女子発組合とともに(あるいはしばしば勝手に一人で)浪江町に遊びに通い、町の歴史や産業、新たな「日常」を知ろうとしてきたことは、すべて「これ」の美しさを理解するためだったのだと感じられた。

 

ニッポン笑顔百景』『またキミと。』『オレンジノート』『笑一笑』とももクロや浪江女子発組合の楽曲が流れる間、ずっと声を殺しながら、花火の想像を絶する美しさに、マスクの中で「ああああああああああああああああああああああああああああああああ」と泣いていた。

 

花火がすべて打ち上がり、メンバーがあいさつを述べたあと、あーりんが吉田数博に「町長は花火どうでしたか?」と問う。

吉田数博は簡潔に「久しぶりに楽しめました」と、これは町自身にとっても(コロナ禍での2年間の中止を経て)待ちわびた春花火であることを喜んだ。

 

そして、あーりんが吉田数博に、ニッコリと「これからもよろしくお願いします」と言った。

何の変哲もない、ただの一礼節のやりとりだろうが、自分の中でこれまで接続できずに寂しく思っていたものがつながった衝撃に、膝を曲げて泣いた。

 

あーりんは、浪江町の首長に「これからも」と言った。

 

■大柿さん、吉田数博とのお別れ

つい先日、2つの報せを受け取った。

 

一つは、浪江町役場の大柿さんが異動され、浪江女子発組合の担当を外れられたこと。

地方公務員である以上、3~5年程度での異動は宿命であるし、すでにそれほどの期間を、ももクロと浪江女子発組合にあててくださってきた。

 

もう一つは、吉田数博が2022年8月での任期満了をもって、次の町長選には出馬せず、退任する意向を表明したこと。

www.minyu-net.com

 

ももクロ春の一大事と浪江女子発組合に関して、誘致から実現までを担った町役場内の「座組」が終わることを、率直に寂しく思う。

おそらく、この感情は、小学生が2年間務めてくれた担任の先生と別れるときに思う寂しさに近い。深刻な「春の一大事ロス」である。

 

この文章の中で、便宜上、いままでの浪江女子発組合の変遷を、初期・中期・後期に分けて書いてみた。

しかし、これからの浪江女子発組合の活動をもっと巨視的に見たとき、結成からいままでが――大柿さんが一緒に作りあげてくれたこの2年半が、まるごと「初期」になるのだろうと思う。

 

大柿さんをはじめ、あらためて、浪江女子発組合にたずさわってくださった(くださっている)すべての浪江町の人たちにお礼が言いたい。

 

本当にありがとうございました。

これからも浪江女子発組合と一緒に、交流人口の一人として、そのときどきの「浪江町のいま」を楽しんでいきます。

 

そして、あーりん。あなたはいつだって私の誇りです。