『チェンソーマン』レゼ編 感想

 

 

 むかし読んだ新書で――たしか『シナリオ人生』か『老人読書日記』のどちらかで、新藤兼人が映画における「食事」の特異性を語っていた。映画は芝居である。俳優や脚本家がグルで取り組む「嘘」の塊である。ましてやその様さえカメラで撮影され編集されているのだからいよいよ映画には「本当」が入り込む余地がないと、そう思われている。俳優が劇中で愛や悲しみを述べようが実際そう思っているわけではない。しかし俳優が映画の中で何かを食べているときは、実際に食べている。喉をくぐった食べ物は、俳優が芝居のつもりで食べていても、胃は虚実の区別を持たず本番の食事と同じように消化し、滋養に変換してしまう。俳優は「嘘」のプロなのだから本来それに徹したいのに、食事をする芝居のときだけは「本当の食事」を不本意ながら成し遂げてしまう。俳優の意識とは無関係に。

 逆に、俳優が俳優の領分をわきまえず"心情"において「本当」に漸近する芝居をしようと努めても、それは無造作に行う食事のリアリティに到底及ばないだろう。だから映画監督は、リアリティを映像に与えたいなら、俳優の巧拙に頼らず食事のシーンを挟めばよい、そのように映画を設計すればよい、と新藤兼人は説く。

 このくだりは「フィクションはフィクションである」という同語反復に対する数少ない有効な反論として、いまも俺の理知的なボキャブラリーに深く刻まれている。

 

 

 

 『チェンソーマン』レゼ編は、これと同型の問題を扱っている。

 ソ連のスパイであるレゼは、「嘘」の訓練を受けている。彼女の抵抗しがたい魅惑的な媚態は、デンジの心臓(チェンソーの悪魔)を奪うための「嘘」に過ぎない。だからレゼは、デンジの殺害を諦めて最後去っていくときに、「もしかして…私がまだキミを本気で好きだと思っているの?」と突き放す。しかし、すかさず反論される。

 

 二人で忍び込んだ夜の学校のプールで「泳ぎ方教えてくれた」ことは、デンジにおいて事実「学ぶ」ことが成立しているために、レゼが「嘘」のつもりでも当人の思惑を超えて「本当」を成している。この世界は(あるいは人間の意識は)言語で構成されている。だから(人間の意識を通じて解釈され・構成されている)世界は本質的には存在しない、と言えるかもしれないが、その「嘘」の営みが意識間に何らかの交換、供与、充足(すなわち広義としての"食事")を成立させてしまったとき、言語の非実在性とは無関係に、その”出来事”は形式的にリアルである(たとえば、ドゥルーズが説く「出来事の形而上学」は、この消去法的に残るリアルさを資源にした諸理論の束である)。

 レゼはデンジに泳ぎ方を、そして「私たちの戦い方」を教える。デンジは泳げるようになり、自らのチェンソーの応用的な戦い方を学得する。レゼは、プールの中でデンジと肌を重ねてじゃれ合い「教える」。その後レゼは、台風(の悪魔の腸が飛び交う)中でデンジと「殺し合う」。レゼはその二つを、本質的には変わらない一つの営みであると同定するように、反復・再演する。

 

 

 

 レゼとは誰だろう、何だろう。と思うに、丹念に読み返すなら当然、レゼは「教える」主体である。

 デンジが一週間連続レゼの勤めるカフェに顔を覗かせたある日、レゼはテーブルに教科書やノートを広げて勉強している。デンジにテストを出す。「金玉」の読み方を問う。談笑のうちに、レゼはこの遊戯を学び舎である夜の学校へ移して行うようデンジを誘う。レゼはデンジに、夜の学校で「1+1=」や「big assとは」といった問題を出しながら、それを噺の枕にやがて本題を、デンジの置かれた状況に疑義を投げかける。未就学のまま働かされ、学校教育を受けていないことは「ダメっていうか、おかしい」と。

 投げかけられた疑義に「頭が熱くなった」と言うデンジをプールに誘い、レゼは泳ぎ方を教える。水面の反射光のうちに、「教えてあげる。デンジ君の知らないこと、できないこと、私が全部教えてあげる」と、自らは「教える」者であるという対人要件を宣言する。

(このときプールで水しぶきと肌が触れ合う交歓の一幕の堪えがたい美しさが、レゼ編総体を成立させる一種の「賭け金」にすら思える。)

 

 カフェでなぜかノートを広げていたあのときからレゼは一貫し、デンジに対し、誘惑を図るその手法に「教える」ことを採用していた。それは、デンジの心臓(チェンソーの悪魔)を奪うため、公安から引き剥がすために、彼が強いられている「働く」ことの対比物として、「学校」の空間へ誘い出すための方便だったろう。

 だが、レゼがデンジに「教える」ことのうち、ついぞ不可解なのは、のちにデンジと戦闘を開始するとき、「私たちの戦い方を教えてあげる」と言ったことである。

 もうデンジを公安から連れ去ることは叶わず、殺して心臓を奪うことに方針転換した以上、「教える」ことは無駄である。むしろ、レゼ(およびその背後の銃の悪魔)のミッション遂行において、遅延の材料ですらある。つまり、レゼはいつのまに「教える」ことそれ自体を、手段でなく目的へと転倒している。

 デンジは「教」「えて」「もらおーか!!」という言葉で闘争に応じる。だから、これは闘争のようで、その実、二人にとっては、かつてプールで泳ぎ方を「教える―学ぶ」が行われたことの魅惑的な延長、別様態である。

 

 レゼをかわいい誘惑者、あるいは男女の「恋愛」の比喩物として捉えることは、誤りと言わないまでも、おそらく未だ表層的な理解に留まる。レゼの存立要件の、より基層には「教える」ことがある。

 藤本タツキは、かねてからのインタビューや対談の公開テキストの中で、女性は男よりも優位に立った存在であってほしいと、自らの理想のヒロイン像をたびたび語っている。レゼもその一環として、デンジに「教える」対人要件を託されている。

 

 

 

 いったん『チェンソーマン』から遊離し、「教える」概念と向き合わないといけないと思う。

 一定、哲学の知識を備える人間が『チェンソーマン』のレゼ編に触れ、以上のような「教える」ことの問題に直面したなら、俺をはじめ誰しもが半ば強制的に想起させられるのは、柄谷行人『探求Ⅰ』に違いないだろう。藤本タツキ柄谷行人を読んでいるとは思わないが(だから”作者はきっと○○に影響を受けている”といったクソつまらないことは言わないが)、いま手元にある『探求Ⅰ』を開くと、80年代日本の思想界にある種の震撼をもたらしたこの哲学書が、その文脈を離れて、『チェンソーマン』レゼ編の副読本のように読めてしまう。

 

 本書で柄谷行人は述べる。ウィトゲンシュタインは著書『哲学探求』の中で、言語というものを「教える―学ぶ」のモデルから捉え直そうとした。このときの「教える」とは、英語のteachである。teachは、教わる側がいまだ知らない「規則」を学得することを前提とした言葉として使われる。典型的には、外国人における言語教育の過程を指すだろう。いっぽう、たとえば「駅へ行く道を”教えて”ください」と乞うときのような、受け手が答えを聞けばただちに理解される端的な”情報提供”としての「教える」は、teachではなくtellが使われる。

 

 柄谷はteachを特にわかりやすく示す例として、「泳ぎ方」の学習過程を説明する(レゼ編に刺激を受けて本書を開き直したとき、モチーフの一致に驚かされた)。泳げない人を、教育者が泳げるようにするとき、泳ぐよう”言う”ことと、泳ぐよう”教える"ことは、まるで意味が違う。

 

 どんなに泳ぎ方(規則)をいっても(説明しても)、相手は泳げるようにはならないが、泳げるようになればそのような説明など要らないというようなことだ。教えているわれわれ自身が、泳げるからには泳ぎ方を知っているはずなのに、いかにして泳げるのかを相手に語ることができないのである。

柄谷行人『探求Ⅰ』第八章「教えることと語ること」

 

 私たち日本人が外国人に対し、「私”が”行く」と「私”は”行く」の違いや適切な使い分けを教えることが困難であるように(あるいは逆に、それを文法的・論理的に教えられる外国籍の日本語教師が、ネイティブよりも日本語が不得意であることが、事態としてありうるように)、「できる」ことと「知っている」ことは異なる位相にある。

 そしてteachとしての「教える」とは、どこまでも「できる」をもたらす営みのほうを指す。それは往々にして、論理的な説明(言う)よりも、やってみせる(示す)ことで成就される。このようなことを、ウィトゲンシュタインは『論考』において、「語りうること」と「語りえず示されるほかないこと」と区別した。たとえば、同じようなことを考えた柳田国男は、日本語の「学ぶ」とは「まねぶ」(真似ぶ)であり、「習う」は「倣う」であると言った。

 

 「語りえず示されるほかないこと」は、規則であり、メタ言語である。つまりメタ言語は言語そのものではないから、それを言語で表現することは困難を伴う。

 泳げない人間を泳げるようにするときの「教える」過程においては、論理的な伝達よりも、学習者に対して言外的に、真似や反復をさせること、その行為を「ともに行う・行わせる」ことのほうが重要になる。

 

 

 

 レゼがデンジに、プールでじゃれ合いながら「泳ぎ方」を教えたこと。台風の中で殺し合いながら「私たちの戦い方」を教えたことは、まさに、teachとしての「教える」を優れて体現していると言えるだろう。

 

 レゼの媚態の一つひとつは、耐えがたくかわいい。だから、デンジは誘惑のほぼすべてに負けている。レゼは優れた誘惑者である。

 

 柄谷行人『探求Ⅰ』は、キルケゴール『誘惑者の日記』を引用し、誘惑者とは、単に誘惑をするだけでなく、その前に恋愛の「規則」を教える必要があることを説明している。

 

 やがて彼女が、愛するとはいかなることか、いいかえれば僕を愛するとはいかなることか、を学び知るところまで、僕は事をもっていったあかつきには、婚約は不完全な形式として壊れ、彼女は僕のものとなるのだ。だが、他の人々は、そこまで進展したときに婚約し、そして退屈な結婚に永遠の善良な期待をかけるものだ。

セーレン・キルケゴール『誘惑者の日記』

 

 ややまわりくどい書き方だが(あとキルケゴールが結婚制度への軽蔑心を述べている部分もさておき)、キルケゴールはこう言っている。誘惑者からの教育過程により、私が「愛するとはいかなることか(中略)を学び知る」ことが実現した「あかつき」には、私は誘惑者の「ものとなる」。つまり誘惑は、誘惑が成立するために、まず恋愛(愛するとは)の「規則」を相手に「教える」teachの前段過程を必須とする。

 

 レゼの誘惑は、デンジの心臓を奪うための手段だった。しかし、そのために前もって必要となる「教える―学ぶ」関係の愉悦にこそレゼは拘泥した。

 

 柄谷行人はこのようにも言う。

 

 「教える―学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。(…)われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それは逆に「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。

柄谷行人『探求Ⅰ』 第一章「他者とはなにか」

 「教える」者は、一見して優位性を持つが、逆説的に、対象への従属性もアンビヴァレンツに備える。レゼもまた、その双極の遠心力に晒されている。あるゲームの規則を「教える」とき、相手には「聞く」hearだけで臨まれてはならない。そのゲームを、まずは”ともに行う”ことの合意を取り付けなければいけない。これが成立しなければ、「教える」側の思惑も、「誘惑」の成立も、いかようにも脆く崩れ去る。

 

 「教える」者の逆説的な弱さ。それはレゼの理解において、一等重要に思う。

 

 

 

 上で、レゼがこれから殺そうとするデンジに「私たちの戦い方を教えてあげる」と言ったことの不可解さを書いた。レゼの不可解な行動は、もう一つある。それは、デンジを「初めて会ったときに殺さなかった」ことである。

 戦闘の終盤、往生際が悪いと咎められたデンジは、「初めて会った時にさっさと殺しとくんだったな」と言う。そのとき、レゼは一コマの沈黙を挟む。レゼは回答を控え、「もう逃げ道はないよ」と戦闘再開に切り直す。つまりレゼは「なぜ初めて会った時に殺さなかったのか」の回答ができなかった。これはレゼ本人にとっても不可解なことだった。レゼ自身、最期マキマに殺されて息絶えるとき、同じく「なんで…初めて出会った時に殺さなかったんだろう」という心のつぶやきを発する。

 このとき連なる言葉は、「デンジ君、ホントはね。私も学校にいった事なかったの」である。これも一見不可解である。レゼが学校に行ったことがないのは、デンジを最初に殺せなかった理由にはならない。まるで違う文脈の言葉が二つ連なったように見える。しかし、それは”一見”のことに過ぎない。実際は、それこそが最初に殺せなかった理由なのだと考える必要がある。

 レゼはソ連政府に子どものころから監禁され秘密裏に訓練されたスパイであり、「学校」に通ったこと、すなわち教育過程を知らない。同じ未就学の生い立ちを持つデンジに、「嘘」の前提下で、いくつかの学知、恋愛の規則、泳ぎ方を教える中で、「教える―学ぶ」関係の回復的な愉悦を感取した。レゼは無意識的に、デンジをさっさと殺すべきだという当然の課題を保留し、「教える―学ぶ」関係を延長し続けた。その末端的・究極的な延長が、殺す機会のさなかに「私たちの戦い方」を教え始めることだった。

 「教える―学ぶ」関係に愉悦を憶えることは、「嘘」の行動原理に則るレゼにおいて、なおも逆説的に「リアル」な事実だった。これは同時に、学校に通ったことがない自分が「教える」ことへの後ろめたさを随伴させていた。その捻じれが、「なんで…初めて出会った時に殺さなかったんだろう」への自問自答に、「デンジ君、ホントはね。私も学校にいった事なかったの」という回答をもたらした。その生い立ちのために「教える―学ぶ」関係をなかなか断ち切ることができず、デンジ殺害は、最適な機を逸した。

 レゼが学校に通ったことがなかろうが、デンジはあらかじめ海岸で、「泳ぎ方を教えてくれた」ことの成立は「リアル」であると応じている。レゼとデンジは、供与と愉悦その”出来事”において、「リアル」なものを共有していた。

 最後、レゼが逃亡のために新幹線に乗るのをやめて、デンジが待つカフェに引き返したのは、「嘘」と「本当」を問うことができない特殊な論理空間があること、それをデンジとの関係のうちに触知したためであり、敷衍的に、デンジとの逃亡生活に「リアル」を見出したためだった。

 

 

 

 レゼ編は、その作劇展開を上空から見下ろしたとき、シンメトリーの構造を持つ。

 

 はじめにパワーがいなくなり、最後に帰ってくること。

 レゼとデンジが大雨の降るプールで戯れたのち、やがて台風のさなかで殺し合うこと(そして二人が肌を触れ合いながらプールと海それぞれに沈むこと)。

 レゼが喫茶店に出勤する道のりと、逃亡のためデンジが待つ喫茶店へ会いに行く道のり。

 そして、これらのシンメトリーの反復を阻害し、ストーリーを断絶的に終了させるものが、最後のマキマによるレゼ殺害である(これは同時に「デンジからレゼへ花を贈る」ことのシンメトリー阻止でもある)。

 

 もう一つのシンメトリーを成すもの、それはレゼとのデートの前に行われる、マキマとのデートである。

 マキマがデンジを誘った映画館を丸一日ハシゴするデートは、映画好きの藤本タツキの趣味をそのまま適用させたような、ある種、作者・読者にとってよく見慣れた既知の営みのナルシスティックな代理再現である。自己反復的な情報摂取をしているという点では、マキマとのデートは「言う―聞く(tell - hear)」関係に近い。レゼとの様々なデートが「教える―学ぶ(teach - learn)」関係であることと対照的にである。この相補性をマキマとレゼが備えるために、デンジは両方を好きになるジレンマを成立せしめた。

 

 話を丸めれば、マキマはナルシスティックであり、対して、レゼはどこまでもデンジに対してインタラクティブであった。このレゼが否応なく”開かれ”を有してしまう美しさと、随伴的に持つ弱さを描出することが、レゼ編と呼ばれるシンメトリーの物語の要件に違いないと思える。

 

 レゼとデンジが水しぶきと肌を、あるいは爆薬とチェンソーを触れ交わす交歓関係の中で、なぜか同時に、論理的記述では伝達しえない「悦ばしき知識」の供与を成すという営みを行ってしまう。それがデンジとレゼの「デート」だった。二人は周囲の市街地一帯を崩壊させながら、多くの人々の命を巻き込む闘争を繰り広げるが、それは本質的にはプールでじゃれ合う"イチャつき"の延長だった。重要なことだが、レゼは本人がそう言ったとおり、デンジに恋愛感情を持っていない。彼女の頬の赤らめは「嘘」である。

 

 レゼは誘惑者である。そのために、レゼは誘惑者である以前に「教える」者であった。その順序を遵守することが、レゼの誘惑の力能(かわいさ)を成立せしめた。

 俺を含む観客が、プールあるいは沈みゆく海で、レゼとデンジが触れ合う姿のみずみずしさに感受したものは、すべての言動上の「嘘」が、愉悦・充足としての「本当」に転換されてしまう磁場、すなわち「教える―学ぶ」関係が持つエロスの力に違いない。