ももいろクローバーZ 舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』感想(第ニ幕) #DYWD

■ヘヴン成長期
ヘヴンを結成した彼女らは、第二幕でももクロ楽曲によるライブを立て続けに行う。
現実そのままの振り付けで再現されるが、それはライブではなく、あくまでもライブの演技である。

高城:歌う部分はあくまで役の中の私たちがやっていることであって、ももクロの私たちではないです。4人で歌ったり踊ったりする曲ももちろんあるんですけど、他の出演者さんたちもたくさん出てくださるので、皆さんにはライブというよりは物語の一つとして見て楽しんでいただけたらいいなと思っています。

引用元:
https://spice.eplus.jp/articles/206390

このあたりの重層性が、素朴にペンライトを振ったりコールをしてよいのか観客たちが悩む理由になっていて、なんならSNSに上がっているファンたちの感想の3割ぐらいは、ペンライト・コールを巡る鑑賞マナー議論にすらなっているんだけど、まあ、それはいいや。しょうもないから。

ヘヴンは、振られた課題を打ち返すようにライブを重ねるだけで、エスカレーター式にCDデビュー、チャート1位、大型会場でのライブといった輝かしいキャリアアップへと結実していく。
こういう動員の倍々ゲームは、ももクロのキャリアを戯画化した展開だね。

でも、堕天使のミーニャが仕込んだ試練として、3曲ごとの節々でコンスタントにメンバーの脱退に見舞われる。

夢は楽しい。
しかし、<ダンス=夢>は個々人で違う。
だから、脱退・卒業という別れが生じる。
しかし、人間がそれぞれ自由意志を持つというのは本来善いことなはず。
これは肯定されなければならないということを、夢のオーナーであるカナコは重々に理解している。
だからカナコは、辞めていくメンバーに
「それが正解!○○が望んだことなら、それをするのが正解」
「踊ることが楽しい私達は、踊ることが正解!」
と全員を肯定しながら笑顔で送り出す。

そんなライブ→脱退→ライブ→脱退の連続サンドイッチを繰り返すうち、最終的にカナコ、しおり、あやか、れにの4人へとヘヴンは収斂していく。
ヘヴンとして4人で踊っていられる歓びは、事故に遭う直前、前世同等にまで至る。

かつて生まれ変わって不全感に苛まれていた3人が自由、喝采、勇気を手に入れ、そしてカナコはそんな仲間を手に入れたということでもある。
第一幕で示されたオプティミスティックな快楽は、ここまで引き続き延長される。

(もう、口語体は半分諦めるわ。文章に贅肉を足すみたいでけっこうしんどいし)

■魂の疲弊
しかし残酷に、夢は有限であることが示される。

ヘヴンのアイドル活動の集大成になるスーパードームライブの前夜、二人の堕天使が対話する。
坂上は、ここに至るまでカナコの逸脱を許したことについて、カナコにもはや情を抱いているのではないかとミーニャに問いかける。
ミーニャは喝破する。
確かにカナコはかわいげのある存在と言えるかもしれない。
しかし、カナコは転生を拒んだために"魂の成長"の機会を失っている。<時空の鍵>を持たせて泳がせたのは、"魂の成長"のきっかけを与えんとする「偉大なる神への責任感」であると言う。

完全な神が、なぜわざわざ不完全なる人間を世界に配置したのかという問いは、キリスト教神学の古典的なイシューだね。

キリスト教の中では多くの場合、神が人間(に授けられた理性や意志の力)を試していると説明される。
であれば、なぜ魂の転生を司る坂上とミーニャが天使でなく、堕天使であるのか、という疑問も解消される(このへん個人的に気になってた)。
天使とは神の完全性に開かれ、身体性を持たない純粋観念のような存在であるとされる。
いっぽう堕天使とは、"自らのため"に神を求める(最終的には自分が神に置き換わろうとする)という序列の錯誤を犯したために、善悪や真偽といった不完全な対立項的世界へと堕落させられた天使と人間の中間存在である。
ひいては、堕天使とは、神が人間の意志の力を試す体制の一環であるとされる。
エデンの園に現れた蛇も、こうした構想のもと神に泳がされた存在である)

すると、坂上とミーニャに任されている転生の事務処理業務はあくまでも"方法"であり、それによって達成しようとしている要件は、人間に"魂の成長"をもたらすことである。

二人は、カナコの魂の疲弊に気づく。
転生を拒み、身体という媒体を持たないまま活動するカナコの余力は限界に近づいていて、もうすぐこの夢の世界は終わると。
夢は夢自体のみで存立する純粋観念ではなく、外部資源(魂の身体性)に依存するものだと、ここで気付かされる。

また、夢ないし並行世界論は、歴史が複数化するという問題を孕んでいる。
ありえた世界の束から、恣意的な一つを選んで生きているかのように、すなわち、いまいるこの場所は本質的な一つonenessではないと感じられる空虚かつ再帰的な存在感覚だ。

この問題を、演じ手としてのれにちゃんは正確に理解している。

「(高田れにという役について)何故この子はこんなに不安をかかえているんだろうって…。高田れにちゃんの中にはいろんな自分がいるんじゃないかなって。そのいろんな自分のどれが本当の自分であるべきか、わからない状態?だからこそ不安だし自分自身と葛藤してるのかなって」

引用元:
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』パンフレット P22

ビューティフル・ドリーマー
並行世界の問題を考えるなら、やっぱりこの作品には触れておきたい。

『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の重要な先行的作品として、押井守出世作でおなじみ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』がある。
本広克行はもともと押井守オタクとして有名で、インタビューでも『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は『ビューティフル・ドリーマー』を参照して作ったことを公に語っている。

僕は押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)という作品が大好きなんです。最初は現実だと思っているんだけど、途中でこれはおかしい、こんなにうまくいくのはおかしいとみんなが言い始める。脚本の鈴木聡さんにあの映画を見てもらいました。

引用元:
https://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1008498/091401454/?ST=trnmobile_f

『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は、『ビューティフル・ドリーマー』を見たことがある人間からすると、本当に「あー、ビューティフルドリーマーだ」と思わずにいられない。
(そういう声は、俺以外にも『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の感想を漁るとよく目にする)

ビューティフル・ドリーマー』の舞台は、友引高校の学園祭前夜。
誰もが翌日の学園祭の準備に慌ただしくしている。
風紀委員会と各クラスが争い、クラス同士も資源確保で対立し、みんなが喧騒に明け暮れながら、同時に命を燃やすような楽しさを憶えている。

そんな中、一人だけ、温泉マーク(という名前の教師)が気づく。
この「学園祭の前日」が、無限に繰り返されているのではないか、ということに。
つまり日がまたがるたび、みんなの記憶がリセットされ、同じ日をループする。

何日も経たないと生じ得ない建物や資材の疲労に気づく。
試しに友引町から抜け出そうと試みても、迷路のように路地が複雑化されているし、それでも町の境目に近づくと、行き止まりにぶちあたる。
友引高校のみんなは、<この時間・この場所>から抜け出せない。
そのことにほかのキャラクターたちも気づくが、ループから抜け出す方法を見つけられずにいる。

この反復世界は、夢邪鬼という妖怪が、ラムの夢――ダーリンや友引高校のみんなと変哲のない幸せな毎日が送りたい――を具体化した世界だと後にわかる。
それが判明したとき、この反復世界を抜け出すべきか、あるいは、幸せなのだからこのままでもよいのではないか、というモダンな問いが生まれる。

人間は、歴史の反復から逃げ出せない。
いま起きている新しい出来事のすべてが、過去すでに起きたことの反復であるように感じられるのは極めて現代人的な感覚だ。

歴史なき反復とは一種の幸福の究極形でもある(すでに完成された幸福のあり方が実現しているなら、人間はただひたすらそれを繰り返せばよい)。
しかし、諸星あたるが導き出すのは、歴史の飽和に人間は耐えられないという結論だった。
彼は、この円環から抜け出すことを選び、その権限をもったラムと夢邪鬼に指示をする。

作中、面堂が重要な指摘をする。
友引町はまったく同じ<ここ・いま>が反復されるのに、コンビニの食料、学校や諸星家の電気ガス水道、新聞配達は尽きることなく供給されている。
街の外とつながっていないと供給されないはずの、ふだん生きるうえでグレーアウトされているインフラだけが何ら変更されていない。
この外部供給の矛盾を面堂が指摘したことが、のちのちこれは夢であるという気付きへとつながっていく。

世界史的に、この事実が露見されるのが80年代以降、湾岸戦争から現在に続くまでの世界だと言えるんじゃないか。
終わりなき日常(できれば使いたくない言葉だけど)も、歴史の終焉(フランシス・フクヤマ)も、観念論の帰結の一種である。
内閉的な自己言及・自己生産によって、際限なく経済(幸福圏)を維持拡張できるという信仰、それの有限性・物質性を晒したのが、アメリカと資源国家との摩擦である湾岸戦争や9.11、あるいは日本の緩慢な日常に対する3.11であった。<夢=非歴史的な反復>の内閉的幸福を支えているのは、身体に養分を与える外部である。
夢の世界は無限ではない。
だから、人間は歴史の環に戻らなければいけない。
ないし、人間は歴史の飽和に耐えられるほど、頑強な存在ではない、というのが諸星あたるが行き着いた『ビューティフル・ドリーマー』の結論だと思う。

■残余する現実
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』にようやく話を戻せば、カナコの魂は、疲労を蓄積する一種の身体性を持っていた。
ミーニャはカナコに、この夢に近く終わりが来ること、それは舞台中央のモノリスに映った月が消え、新月になるまでだと告げる。

ちょうどそのころ、カナコ以外の3人はスーパードームのライブを前後して、話し合う。
ヘヴンの活動はあまりに都合よく進みすぎている、としおりが指摘する。

ライブの直前、存在論的疑問が緊張の音を立てた瞬間、スーパードームの音声が止まり、アンフィシアター全体の客席に照明が灯される。
フィクションである壇上空間に、容赦なく客席の現実が流入し、夢の皮膜が突き破られる。
(という演出がなされる)

我に返った3人から、疑問が噴出する。
しおりの結婚式はどうなったのか?
あやかが次の月曜に控えている演劇部の練習は?
れにが受け持つことになった302号室の田中さんの看護は?

本来生きるべき現実は別の自分たちに任され、いまの自分たちはヘブンが存在する並行世界を生きているのかもしれない。
しかし、転生先である世界がいくつあろうが、そのどれかに振り分けられる魂が一つであれば、魂はユニークな存在なはずだ。
にもかかわらず、自分たち(魂)はここにいる。
並行世界のうちの一人という説明は、整合性に欠けている。
であれば、自分たちの住む世界が変わったわけでなく、カナコの夢の中にいるのではないか?と、れにが正鵠を射る。

いまこうして夢を生きていても、据え置かれた現実世界のコンフリクトは、まったくそのまま保存されている。
また、夢とは歴史を複数化する戯れでしかないことに3人は気づく。<カナコ=ラム>の夢の世界に、彼女らが求める親しい人物たちが引き込まれ、円環的に閉じ込められること。
その空間の非歴史性にさまざまな問題が見いだされることが、『ビューティフル・ドリーマー』と『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の共通点だった。

事の次第を察した3人のもとに、ミーニャと坂上が現れ、れにの明察にお墨付きを与える。
そして私たちと手を組み、カナコに成仏をするよう一緒に説得してくれ。お前たちもあの平凡な現実に戻るべきであると説く。

かつて4人は死に分かたれたため、夢の世界に退避し、非歴史的な幸福圏を作り上げた。
その充足感において、夢は可能である。
しかし、夢を審判するのは夢自身でなく、その外部である。
この展開において、「夢は現実に勝てない」という楔が打ち込まれる。

もはや、夢と現実どちらを是とするかといった二者択一の問題系にとどまるなら、これ以上変わりある答えは出てこない。

とすれば、彼女らが一点突破的に持ちうる解決策とは、「夢と現実」その二項対立のフレーム自体を乗り越えることになる。
これが『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の終盤、クライマックスの問題になってくる。

■「夢×現実」の止揚
カナコはミーニャに、もう少しの夢を続けたいと猶予を嘆願する。
ほかの3人もカナコを信じ、もうしばらく夢を続けたいと願う。

ミーニャは「バカの仲間もバカってことね」と言い、これを拒絶する。
ここで、ももクロ楽曲の中でも光と影の闘争的な色合いを強く持つ『黒い週末』がかかり、堕天使と4人の闘いが始まる。

夢の存続をめぐる決定権は、この舞台の中心を占める者たちに託されると言わんばかりに、ミーニャと坂上が従える堕天使の集団が『黒い週末』を歌い、4人を端へ追いやる。

牽制をそれとして理解する様子もない4人は、わきの階段で堕天使たちの歌と踊り(マジで上手い)を楽しそうに眺める。
あーりんは途中どう見てもペンライトを振る動きをしている。

しかし、いたずら心から4人は舞台に返り、あーりんとミーニャが、カナコとミーニャが互いのパートを奪い合い、『黒い週末』を、ミュージカルの醍醐味であるグループ闘争の歌曲へと仕立て上げていく。

これまで和解の契機となる音楽はつねに『Do You Want to Dance?』だったが、例外的に『黒い週末』がその機能を果たす。
ラスサビ(ラスト・サビの略)で、"その曲のオーナーであるももクロ"と"歌唱とダンスのプロであるミュージカル俳優"たちがダンスを共にし、互いの強度を一体化させる恍惚には脳を溶かされる。
見終えた後、識字能力がガクンと下がる。

歌が終わると堕天使たちは疲れ果て、舞台の中心を4人に明け渡す。<時空の鍵>をもうしばらく貸してほしいと言うカナコに対し、ミーニャは渋い顔をしながらも、一度試練を与えた以上、結末の付け方まで彼女らに一任することを選ぶ。

4人は<時空の鍵>をかざし、前世でいつもダンスの練習をしていた体育館裏に移動した。
あれほど夢見たダンスコンクールよりも、こっちのほうがずっと宝物のような場所であるとカナコは言う。

ダンスの当初の認識は、欲望としての夢だった。
キラキラとして、ワクワクするもので、具体的には、自由、喝采、勇気、仲間だった。

しかし4人で夢の時間を過ごしてきた中で得られた認識は、結婚、演劇、病院といった現実世界での抵抗の身振り手振りもまたダンスであるということだった。
現世もまた夢同様にかけがえないことを知る。
カナコは、3人が現実へ帰った後に行なう"ダンス"を「楽しみ」に思うと言い、「ダンスじゃなくても、ダンスなんだね」と受け入れる。
ダンスを夢というトポスに限定させる必然性や権能はない。

夢が終われば、夢の記憶は消えると堕天使たちにかねがね説明されている。
また街中で会ったとしても、私たちは互いを忘れているのかな?とあやかが尋ねる。
忘れないよ、忘れるわけないじゃん、だから、さよならは言わない!とカナコはおちゃらながら答える。
この夢を終えることを決めた彼女らは、別れることを選んだのではない。
"忘れないこと"への賭けをした。

体育館裏の吹きすさぶ風の音の中、アカペラで『Do You Want to Dance?』を口ずさみ、4人最後のダンスを行う。
モノリスに映る月の下、ダンスを行うのは、「Well do you wanna dance under the moonlight?」という原曲の歌詞を想い起こす。
しかし、その月は『Do You Want to Dance?』を踊り終えると同時に消えていく。
舞台は暗転し、彼女らは地下に消える。

坂上とミーニャが現れ『世界の秘密』を歌い、生まれ変わりによって分かたれる彼女らの因果を憂う。
再び4人が現れ、この舞台に当て書きされた新曲『天使のでたらめ』が歌われる。
(これはもう月が消え、カナコの魂が限界を迎えているはずの状態での延長的な戯れである)

Aという夢と、このBという未来があって、神さまがいるならAとBをイコールにしてほしい。
生まれ変わっても忘れない。
嫌になるほど見つめてよ。
という歌詞が歌われる。
「夢と現実」の二項対立を超克し、一つの世界観に収斂されることを祈る曲だ。

この曲は一種の対話劇だったと思う。
一つ目は、堕天使たちが『世界の秘密』で「転生で忘れる」ことが歌うのに対し、『天使のでたらめ』は決して忘れないことを宣言する。
二つ目は、カナコが顔貌や癖の一つひとつを忘れないと言い、「だから来世でもよろしくね」と歌うのに対し、3人は「嫌になるぐらい見つめてね。忘れないでね」と再会の約束に応じる。

カナコは「魂の成長」の契機を与えられた。
それは天界が描くシナリオのとおり、最終的には生まれ変わりと忘却に着地するよう約束された戯れのはずだった。
『天国のでたらめ』は曲名のとおり、そんな天界の規定に抵抗する宣誓歌である。
ないし、この舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』とは、何者でもない愚かな人間が、天界にとって計算不可能なモーメント、すなわち奇跡を生み出す過程の物語だった。

■先行物としての『Re:Story』
少し舞台のストーリーから外れる。

『天国のでたらめ』が「Aという夢とこのBという未来」を「イコール」にするよう求めるという構成に対し、たちまち想起させられるのは、つい8月に配信リリースされたばかりのももクロの楽曲『Re:Story』だった。

これは『Re:Story』が発表された直後、ジャケットイラストにウケて呟いた内容なんだけど、青々しい夏の静けさの中で、少年たちと宇宙人というまったく異なる歴史の並走が描かれている。
楽曲配信よりも若干遅れて発表された『Re:Story』のMVでは、この少年たちと、UFOから墜落した宇宙人の少女が薄暗い森のなかで出会う。



宇宙人の少女は、紫色の服を着たレニスという少年に霊力を施し、ファンキーなダンスを踊らせる。
少年たちはいたく感動し、宇宙人の少女のもとに駆け寄る。
ここでもダンスは、異なる文化(星)の者同士が無根拠に一体化しうる契機として扱われている。

『Re:Story』とは、再帰的な歴史のことを指すだろう。

ももクロのファンにとって、どうしても視線を反らし難い問題を言えば、2018年は緑担当の有安杏果が卒業した年であり、ファンもメンバーも、その精神的格闘に明け暮れた印象が強い。
4人になった新生ももクロは、スクラップアンドビルドを余儀なくされた。

いかなる困難にさらされても「逆境こそがチャンスだぜ」と捉えるのが、ももクロのクラシックナンバー『ピンキージョーンズ』の教えであり、有安卒業の2018年1月以降、いくどとなく、メンバーやファンの口からこの言葉が唱えられてきた。

このとき歴史は、「本来ありえた理念的な正史(5人のももクロ)」と「軌道修正する現実態の歴史(4人のももクロ)」に分岐する。
歴史が複数化する。
人はその比較に絶えず足をつかまれる。
ファンは、ももクロのライブやフォーク村(というももクロが歌唱力・表現力の成長を月次報告するような楽しい番組があるんだよ)など、さまざまな場で「ここに杏果がいたら」と想像させられる。
『Re:Story』とは、逆境へ立ち向かうときに必然的に伴う歴史の分裂であり、精神に課される肉離れの鋭痛である。

しかしこの歌の最後は、リ・ストーリー(再・物語)からザ・ストーリー(この物語)という単数形への言い換えで結ばれる。
ももクロの複数化しかけた歴史(あえて選ぶほかになかった歴史)を、再び単一の歴史(これしかありえない歴史)へと収斂させようという宣言に映る。
ピンキージョーンズ』のイズムにパッチを当てる、新生ももクロに捧げられた曲のように8月当時の俺は感受した。

夢(ありえた並行世界)と現実(これ以外ありえない歴史)を揚棄・収斂させるという問題は、『Re:Story』から『天国のでたらめ』において通貫している。
『Re:Story』がつい2ヶ月前に発表された楽曲と考えれば、舞台制作と音楽制作が互いを参照し合った可能性は低いだろうけど、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』と『Re:Story』はどちらも、ももクロの今日的な痛みを優しく慰撫してくれる。

■夢
『天国のでたらめ』の途中、一人だけ先に消えたカナコは、その曲が終わると舞台脇から白い衣装をまとった天使になって現れる。
ついにカナコが昇天するときが来た。

カナコは「ここはどこだっけ」「名前なんだっけ」と、前世や夢の出来事、名前、時系列を順に忘れていく様を歌う。
他の3人は、自らの手足、衣装、立っているその場を見て戸惑う様子を見せ始める。
カナコの成仏に伴い、彼女らもこの夢の記憶が薄らぎ始めているのだ。

人々が毎朝経験しているとおり、夢はどれほど強烈な印象を残す内容であっても、エピソード記憶としてはたちまち揮発する。
しかし、夢は厳密には忘れない。
フロイトが言うように、人間が防衛機制として記憶を絶えず忘却していったとしても、反復強迫は残余する。
忘却された記憶は、あくまでも「抑圧されたもの」でしかない。
夢の世界を、エピソード記憶としては忘れたとしても、そもそも夢によって表現されるのは、現実の出来事が<暗号化=象徴化>された「形式」だった。
出来事でなく形式であるがゆえに、記憶すること(現実に引き継ぐこと)ができない。
しかし出来事の外郭である形式において、夢はいつまでも反復しうるものとして無意識の中に保存されている。

形式が残余するから、それに即した出来事に見舞われたとき、人は懐かしさ、いわゆるデジャヴを憶える。
逆説だが、忘れるとは一種の記憶術であり、夢はその整理である。
記憶を出来事(図)から形式(地)へと変換・圧縮し、半永久的な耐久処理をかける。

エラスムスも「痴愚」の構成物の一つに、「忘却(レテ)」を挙げていた。
それは硬直した老人を若返らせる、いわば転生の術であると。

考えてみれば、カナコの働きかけによって再会した4人は、だからといって交通事故に遭う前の、富士が丘高校のころの記憶が甦ったわけではない。
ダンスを通じて強烈に感じられた「懐かしさ」が、この4人は本源的に出会うべき4人であるという言い知れぬ確信を彼女らにもたらしただけだった。
ないし、4人が再帰的に夢を実現するうえでは、その確信さえあればよかった。
記憶は死や覚醒をもって揮発するが、この4人がまた集うという形式は確保されている。

4人が賭けたのは、そうした意味での「忘れない」ことへの信頼、強度である。
それはあの再会のとき、ダンスによってすでに触知している事実だった。

ワイヤーに吊られて昇天していくカナコを、もうカナコと分からないかもしれない3人が静かに見上げている。

そこに坂下とミーニャ、大勢のアンサンブルの俳優たちが集まり、ももクロの楽曲『HAPPY Re:BIRTHDAY』を歌い、カナコの転生を祝福する。
(ここはまさに天界の楽団という趣で、『黒い週末』に続いてミュージカルの恍惚を極めてくれる)

歌い終えると、しんしんと雪が降り始める。
ももクロの4thアルバム『白金の夜明け』のイントロ曲『個のA、始まりのZ -prologue-』が流れ出す。
これは『HAPPY Re:BIRTHDAY』のメロディをオルゴールで再現し、3rdアルバムのラストから4thアルバムの始まりへと接続する郷愁的な調子の楽曲である。

舞台は、夢から現実(来世)に切り替わる。
大勢のアンサンブルが行き交う様子は、かつて4人が事故を起こした渋谷区の交差点のようにも見える。

現実へと返ってきたしおり、あやか、れにの3人が雪が降る街に現れる。
互いを知らない者同士として、スマホを眺めながらバラバラに歩いてくる。

少し遅れて、来世へ転生したカナコ(であった女性)が現れる。
3人とカナコがすれ違う。
カナコは歩みを止め、懐かしい何かを感じる。

カナコは立ち止まるが、決して、しおり、あやか、れにという3人の名前やエピソードを覚えている(あるいは思い出す)わけではない。
形式として、この3人はかけがえのない存在であるという指向性intentionのみが強烈に喚起されていることが、ざわついたカナコの表情から察せられる。
カナコは3人のもとへ走り出し、「すみません」と声をかける。

逆光に向かって駆け寄るその姿で、舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は終わる。

このとき『個のA、始まりのZ』はインストゥルメンタルとして流れるが、ファンは否応なく、この曲に本来あてられた歌詞を頭の中で再生させられる。
それは夢からの目覚めであり、視界がぼやけた朝焼けの世界の歌詞である。

 眠って 起きたら また始めよう
 夢の中で まだZzz
 あんまり のんびりしていられない
 早くいきたい でもZzz
 たくさん計画があるんだ
 待ちきれないよ
 あずかったままの愛を かえそう

カナコが3人を追いかけ、声をかけるとき、この曲に本来流れる歌詞はこうである。

 懐かしい場所に立とう きみのもとへ
 出逢おう あたらしい自分を みせよう

この言葉とカナコの駆け寄る後ろ姿が、心の中でオーバーラップされるとき、何度鑑賞しても涙が溢れてくる。

夢を終え、また凡庸な現実に帰った彼女らは、記憶(出来事、名前、時間、場所)の一つ一つはリセットされた。
なのに、同じはずの現実がその調子を変える。
何故なら、夢はいつまでも形式において残余するからだ。
それが夢の強さであり、夢は決して無力ではない。
これこそが世界を駆動する源泉である。

「この4人」は現実においても、いつまでも続く。
その祝福に満ちて、舞台は締めくくられる。

〜〜〜
と、だいたい以上が、舞浜アンフィシアターに5日連続通いながら、俺が感じたこと・思ったことをとっちらかした無惨な結果なんだけれども。
メンバーがさまざまなインタビューで語るとおり、この舞台は、観た人に、本当に大事なことの気づきを与えようとする生の讃歌だと思う。

あと、「生と死」「現実と夢」という二枚貝的なモチーフを絶えず往還する『AMARANTHUS』『白金の夜明け』が土台となっていることは、いかなるライトなファンでも容易に気づける。
だとすれば、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は、『AMARANTHUS』『白金の夜明け』のフレームから、『Re:Story』『天国のでたらめ』といった現在形のももクロへと接続される舞台作品であると感じられたな。

それら二曲が新生ももクロに捧げられた祈りの曲であるように、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』という舞台も、ももクロの4人が4人でいることへのアファーマティブな祝福に満ちている。

思えば、毎日劇場を出るたび、急いでiPhoneを開いて感想をEvernoteに書きなぐったり、家に帰ってからさらにExcelで時系列を図表化したりするのが、楽しくて楽しくて仕方なかった。
自らの作品理解に追加・修正がかかる限り、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の肌理に触れ続けられているように感じられた。
その快楽は7回の鑑賞の中で、いまだ途切れていない。

俺にはまだ4回分のチケットがあるし、明日2018/10/5(金)の夜公演から『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の快楽が再開される。

そういう自分にとっての"後半戦"の前に、あーりんが言う「思ったことや感じたこと」に区切りをつけられたのは良かったかもしれない。

あーりん、そんなきっかけを与えてくれてありがとう。
また明日、あなたを、ももいろクローバーZを、舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を見に行きます。


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参考図書:
エラスムス痴愚神礼讃
柄谷行人『歴史と反復』
野田努『ブラック・マシン・ミュージック』
岡崎乾二郎(編著)『芸術の設計』
八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』