スルジャン・スパソイェビッチ『セルビアン・フィルム』感想

A Serbian Film

■「セルビア映画」

セルビアン・フィルム』を褒めるなら、タイトルがよいということに尽きる。
このことを、できるだけ丹念に話したい。

 

なぜこのタイトルにしたのかという問いは、封切り以降世界中で盛んに投じられ、製作者たちの回答も一定の蓄積がある。

かたや、日本あるいは北米では、同時代の『ムカデ男』や『屋敷女』の並びに――もっと雑駁にいえば、パーティで供される「胸糞系」映画として受容されているきらいがある。だが、『セルビアン・フィルム』は、もう少し、監督がタイトルに託した願いを含め、真面目に観られる必要がある。「映画なんて気楽に見るものだ」というのはそのとおりだが、真面目に撮られたものを、真面目に見る礼儀だってあってよい。

 

直訳、「セルビア映画」。

レイプ、殺人、ソドミーペドファイルをえがくこの一作品が、「セルビア映画」という領土まるごとを僭称する。いまも、英語圏の人たちがセルビアにはどういった映画があるのかを学ぼうとし、「serbia movie」などとGoogle検索するなら、トップにこの映画がヒットする。

そんなタイトルを掲げたのだから、監督スルジャン・スパソイェビッチは、祖国セルビアで、特にユーゴスラビア解体後も一定の層を占める愛国・民族主義的な人々から、すさまじく嫌われている。それはかつて、ドキュメンタリータッチで『ザ・テキサス・チェーンソー・マサカー』と称した映画を発表した監督が、テキサスの民から悪魔のごとく嫌われたのと同じように。あるいはそれ以上に。

かつて、『セルビアン・フィルム』が世界46カ国で上映禁止されたうち、しばらくそこにセルビア本国も含まれていた。セルビア人がこの映画を観るようになったのは、他国での圧倒的な流通実績が逆輸入してのことだった。

そんな国内の遺恨もあってか、スパソイェビッチは、長編作品については『セルビアン・フィルム』一本を、短編は『ABCオブ・デス』に寄せたきり、いまだ次回作を作れるに至っていない。プリプロダクションであれば、『Whereout』という長編一本と、『セルビアン・フィルム』が巻き起こした混乱を監督自身がカメラに捉えるドキュメンタリー作品の話が上がっているが、どちらも何らかの障壁によりいまだクランクインできずにいるらしい。

 

■ポルノ

セルビアン・フィルム』は、ポルノ産業を題材としている。

ある伝説的な、しかしリタイヤを近く考えているポルノ俳優であるミロシュのもとへ、ヴクミルと名乗るポルノ映画監督から、「芸術映画」への出演オファーが寄せられる。ヴクミルは、心理学者や幼稚園運営などの経歴を持ち(いわゆる”衆愚”を管理する能力を持ち)、このたび国家から「芸術映画」の製作を委任されているという。

ミロシュは、経済的な不安からオファーを引き受けるが、やがてその「芸術映画」とは、殺人・レイプ・児童虐待を実録させられるスナッフフィルムだと判明する。

 

ポルノとは(男性向けのジャンルで言えば)「勃起させ、射精させる」ことに資するイメージのことを言う。神経科学でよく知られるように、勃起から射精への一連動作においては、男の中で<リラックス→緊張>という本来相反する神経の切り替わりがなされる。

まず、勃起とは、副交感神経(リラックス)が優位な状態下において可能になる。そしてペニスが硬化し、物理刺激への反発力(支持体的な硬度)を持った状態で、強い慰撫が可能になる。この物理刺激によってやがて性的興奮が絶頂に達すると、交感神経(狩りの真っ最中のような警戒心理)へと優位性がスイッチングし、男は闘争状態の様相で射精を迎える。射精のために副交感神経は後方に退けられるため、絶頂と同時にペニスは軟化する。

 

ポルノでも、まず導入(その商品を手に取らせること)においては、副交感神経的な、人に安心感=既視感を憶えさせ、リラックスをもたらすことが構成上重要になる。男があらかじめ女性一般に対して持っている「こうであってほしい」「こういうものが見たい」という性愛像があり、その期待どおりのシナリオやビジュアルを敷くように努める。

 

ゆえにポルノとは、一義的に、均質性である。

見たいと思う予期状態と、実際に見るものとの間に、質的差異(ノイズ)がないことを、製作者は丹念に確認する。これは、ロラン・バルトが写真論『明るい部屋』で書いた、ポルノとエロティックなイメージの区分説明を思い起こされる。

 

 もう一つの単一な写真は、ポルノ写真である(私はエロティックな写真と言っているのではない。エロティックな写真というのは、かき乱され、ひびの入ったポルノ写真であろう)。ポルノ写真以上に均質的なものはない。ポルノ写真は、つねに素朴で、底意もなければ計算もない。ただ一つの宝石を明るく陳列したショーウィンドウのように、ポルノ写真全体は、ただ一つのもの、つまりセックスだけを見せるように構成されている。副次的な、場ちがいな対象が、セックスを半ば隠したり、見るのを遅らせたり、気をそらせたりすることは断じてない。反対推論によって証明しよう――メイプルソープは、パンティの網目を接写することによって、セックスのクローズアップを、ポルノ的なものからエロティックなものへと変えた。その写真は、もはや単一ではない。それは私が布地の肌目に関心をもったからである。


 ―ロラン・バルト『明るい部屋』(みすず書房)P55

 

ポルノ=均質性という事実を確認し、次に進む。

 

セルビアン・フィルム』について、スパソイェビッチや共同脚本アレクサンダル・ラディヴォイェヴィッチは、本作がセルビアの『国営映画』を戯画的にパロディした作品であると公言している。

 

 このタイトルは、『セルビア映画』のイメージに対するシニカルな言及です。『セルビアン・フィルム』は、セルビアの国営映画のメタファーでもあります。(国営映画特有の)内容が予測可能で、退屈で、それゆれ全く意図しない可笑しさがある。その可笑しさが『セルビアン・フィルム』の中で微妙にパロディされているのです。

 

確かに、よく指摘されるように、『セルビアン・フィルム』のビデオゲーム的な(日本で言えば『龍が如く』のような)シークエンス、カメラワークは、ユーモアに欠いた国営映画のパロディに違いない。ただ、そういった画面の表層上にとどまらず、つまり彼ら製作者は、セルビア映画の政治的状況がこんにちポルノ的なのであると言っている。

 

 東欧では、街で泣く裸足の少女とか、当地の戦争犠牲者の話とかがないと、映画の融資は受けられない。しかし、もちろん、深入りしたり、厳しい場面を見せたり、問題を指摘したりしてはいけません。ただ、大変な生活だ、戦争を経験した、食べるものもない、愛も家族もない、というだけでいいんです。そうすれば、500万ドルを受け取ることができます。東欧で映画の資金を得るには、それしかないんだ。だからヴクミルはその象徴なんです。彼はこのシステムを信じていますが、情熱的で、とことん追求し、本当の被害者を見せたいと考えています。

 また、西側諸国は感情を失っているため、偽りの感情を求めています。被害者を見て、「ああ、私たちはまだ人間なんだ、同情できるんだ」と思えば、より人間らしく感じられるというわけです。ヴクミルはミロシュを崇拝し、ヒーローとして慕っているからこそ、ミロスは被害者ではないと本気で信じているのです。自分が正しいことをしている、地域の経済を支えている、と本気で思っているのです。


以上を、言い直すと、こうなるだろう。

中心たる西側諸国は、東欧に対して、サイードが言うオリエンタリズム的な、「こういう周縁国家が見たい」という欲望を投影してくる。それはたとえば、コソボ紛争ユーゴスラビア紛争によって蹂躙されてきたセルビアの人々の、「街で泣く裸足の少女とか、当地の戦争犠牲者の話」である。だからといって、映画の中で、西側諸国も巻き込む形での、真因的な政治上問題点を「深入り」「指摘」してはならず、「ただ、大変な生活だ、戦争を経験した、食べるものもない、愛も家族もない、というだけ」をえがくことが求められる。それを守れば、映画製作費の「500万ドル」が与えられると。

結果、西側諸国の人々がそういった「国営映画」を観て、「『ああ、私たちはまだ人間なんだ、同情できるんだ』と思い、より人間らしく感じ」られる。こうした均質性によって保障される快感供給の構造は、極めてポルノ的なのだとスパソイェビッチたちは指摘する。

 

作中の映画監督ヴクミルは、国の支援下でポルノ映画を撮る。そのポルノが迎える酸鼻極まる顛末をえがくこと、紛れもなくこれこそが「セルビア映画」なのである。そして、こんにち西側諸国が期待するとおりの国営映画を撮ることは、いかに清貧ぶった画面であっても、人々の死と性虐待が底に敷かれた「ポルノ」なのだと批判する。

 

「ヨーロッパの映画基金や映画祭の中には、東ヨーロッパからそういった映画を募集しているところもあります。それは搾取です。あのような映画は本当の搾取です。精神的なポルノです」と言うとおり、スパソイェビッチは、セルビア国家と西側諸国――その二者の映画産業における結託関係に、憎悪に限りなく近い軽蔑心を持っている。

その軽蔑心をもって、タイトルで「セルビア映画」を僭称する。結果、その名が汚損されることが、スパソイェビッチたちの切に願うところである。

 

思えば、スパソイェビッチが『ABCオブ・デス』に寄せた5分間の短編『Removed』もまた、映画産業として西側諸国から搾取される東欧の問題を、強烈な暴力描写でえがいていた。

 

ある医療機関に監禁されている男がいる。彼の肌は全身くまなくメスで剥ぎ取られ、ケロイド状になっている。それでもいくぶん硬化し、整ってきた皮膚は、再び医者にメスで剥がされる。

医者たちがその皮膚を現像液にひたすと、そこから数コマのフィルムが現れる。やがて、フィルムがつなぎ合わさって、映画作品としてリリースされる。

映画の配給者(監禁する組織のオーナー)は、ディオール・オムを思わせる端正なスーツ姿からして、シネフィルかつカンヌ映画市場のオーナーであるフランス人と推察される。

監禁された男は、車いすで映画祭に連れ出されると、観衆から熱狂的に取り囲まれる。柵を外して接触が解禁されると、ドレスを着た高貴な女たちは、彼のケロイド化した皮膚を舐めて性的恍惚の表情を浮かべる。

ある政治的に傷ついている者がいて、中心国家たる西欧の映画界が、その皮膚を<フィルム=ポルノ>として搾取する。なんと『セルビアン・フィルム』から、いっぺんのズレもない題材だろうと思う。

 

■政治の映画

以上を眺めればあきらかなとおり、『セルビアン・フィルム』は、政治のメタファーの映画である。ただ、セルビアにおいて政治とポルノがイコールで結び付けられるにすぎない。スパソイェビッチは口酸っぱくして、『セルビアン・フィルム』は、こんにち受容されているような「ショック」を目指した作品ではないと訴える。

 

 製作を計画したときも、撮影中も、観た者にショックを与えたいという意図も欲求もなかった。この映画で僕らがやりたかったことは、心の奥底に潜む感情を解き放ち、スクリーンに映し出すことだった。
 ―Blu-rayセルビアン・フィルム』ブックレット

 

 衝撃的な映画を作ろう、物議を醸そう、世界記録を更新しよう、などと考えたことはありません。そんなことは全く考えていなかった。ただ、できるだけ正直で直接的な方法で自分たちを表現したかっただけなのです。生まれたときからレイプされ、死後もそれが止まらない、それがエンディングのポイントでした。


セルビアでは、1980年代中盤以降、排外的な民族主義者スロボダン・ミロシェヴィッチセルビア共和国内の実権を握り、その独裁政権下でユーゴスラビアが解体される。やがて、ナショナリストたちの民族対立をきっかけとし、コソボ紛争ユーゴスラビア紛争が引き起こされ、20年近くにわたって想像し難い暴力が東欧の地を穢していく。

 

 セルビア人は、この20年間恐ろしく不利な立場に置かれてきた。スロボタンミロシェビッチセルビアの独裁的民族主義指導者)がユーゴスラビアを解体したせいで、国民はみんな落ち込んでいたし、脅えていた。セルビアという国が機能するのは絶対に不可能だと思っていた。なにが起こってもおかしくない環境だったし、状況はどんどん悪くなるばかりだった。絶え間ない弾圧の中で、自分の運命を自らの掌中に収めるのは不可能な話だった。この映画を通じて、僕らが抱いてきたそんな思いを表明したかったんだ。国民と国家がいかに暴力にさらされてきたか。国民がいかに自国の政府に虐待されたかという文字通りのメタファーなんだ。
(…)
 映画の主人公の職業はポルノ俳優だけど、これは今セルビアで就くことができるあらゆる職種を表している。みんなが、邪悪で歪んだシステムによって搾取されているんだ。結局、みんな同じ運命を辿ることになる。レイプされ、殺されるんだ。
 ―同ブックレット

 

スパソイェビッチがこう語るとおり、いわゆる「ゴア映画」を目指したのではない。セルビアの政治的暴力をメタファー化しようとしたとき――それにただ忠実であろうとしたとき、結果論的にゴア的な画面ができあがってしまったに過ぎない。


監督の意思としては、祖国政治の寓話化である。作品が狙った効果から見るなら、(人々が同列に見る『ムカデ男』『屋敷女』『マーターズ』…etcよりも)たとえば、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』や『ユリシーズの瞳』などに近い。


ただ、政治的寓話であると言っても、セルビア政治史の具体的な出来事が扱われることはない。上述した監督のひと言「レイプされ、殺される」のインパクト、その強烈さの定着だけが志向されている。この直接性が、セルビアの政治的状況を指し示すにもっとも効率的であると考えられた。あるいは、西側諸国が期待する「街で泣く裸足の少女とか、当地の戦争犠牲者」をえがく文化官僚的な画面への軽蔑心も当然あるだろう。

 

作中、ポルノ俳優のミロシュは、ヴクミルによって性的・人格的に搾取されるが、同時に彼もセックスドラッグを投与されたとき、その恍惚の中でレイプと殺人を行う。それは、かつてセルビア兵たちが民族主義政権に鼓舞され、コソボ紛争アルバニア人のジェノサイドに加担した事態によく似ている。

 

上で、ポルノとは、「勃起と射精」に至るためのイメージだと書いた。

男は副交感神経が優勢なリラックス状態のうちに勃起するが、やがて絶頂を迎えると、交感神経へとスイッチングし、かつての安寧な心はどこへやら、首に血管を浮かべ、瞳孔が収縮し、顎を震わせながら射精する。すべての男は、ポルノを見て射精するとき、わざわざ実際に声に出さなくても、心の中では最後怒号している。

セルビアン・フィルム』の終盤、幼児の息子に肛門姦をするよう仕向けられたことに気づいたミロシュが怒り狂い、叫びながら(屈強なハゲの政務官の)眼孔にファックした姿は、ポルノを見る男たちの結末の高度な戯画化に映る。


■映画における暴力

当然のことを確かめると、映画のうちに「暴力」など存在しない。

 

私自身含め、ホラー映画、バイレンス映画、ゴア映画…といった暴力の刺激を約束するジャンル映画を見漁る人間はつねに、むしろ反対に、その鑑賞体験によって、映画における「暴力の不在」を噛みしめる。

映画の中に暴力がえがかれても、あくまでもSFXやセリフでつづられた「テキスト」であり、そこに暴力の「事実」はないからだ。

暴力を恐れる者たちが、むしろ自ら能動的に暴力を見に行くことで、その恐怖を飼いならしたいと思う。だから、映像作品の中にある暴力を探す。見つけた、見よう。しかし、ここにも暴力はなかった。暴力を真似る戯れがあるだけだった――

…といった諦めをいくたび重ねた者は、多くの場合、”フェティッシュ”に走る。暴力表現のSFX、特撮、血糊、どのレーティングのレベルに認定されたか、あるいは作り手の稚拙な技巧にやどる「初期衝動」…等々と戯れるようになる。すなわち「暴力の不在」で持て余した手を「ジャンル」へ差し出す。

 

当然、暴力が「事実」でなく、「テキスト」にすぎないからこそ、暴力映画が撮られる道義も確保されよう。だが、その恩恵を知りつつも、ついぞ暴力は映像に物質的には定着しえないことの虚しさを、作り手も観客も絶えず憶えることだろう。

 

セルビアン・フィルム』に寄せうる共感は、上述のような暴力のフィクション性、その皮相さへの眼差しを持っているところにある。

暴力は「テキスト」には宿らず、事実性ないし「行為」にしか胚胎しない。『セルビアン・フィルム』の中で、生まれたばかりの湯気立つ赤子にペニスを挿入する場面があろうが、これも「テキスト」にすぎない。だが、この「テキスト」を撮ったうえで、「セルビア映画」を名乗り、その国と産業を貶めることは、事実であり「行為」に違いない。

現実に存在する政治的暴力、その起源たる国家に対して、映画のなかで「反暴力」の有効性を担保しようとする。このとき、撮られた映像=テキストは、弾倉に仕込まれた火薬であり、暴力(人に銃を向け、引き金を引く行為)における副事物でしかない。

 

いち観客として、こうした態度には見覚えがある。

ひと巻きの映画が、祖国を勝手に代表しようとする態度。それによって祖国の威信を汚損させようとする態度。『セルビアン・フィルム』の画質から容易に察せるように、その直接的な影響源はギャスパー・ノエだろう。

ギャスパー・ノエは自作の冒頭で、よく「これはフランスの由緒正しい芸術映画です」などと大きなテロップを表示させたうえで、近親相姦やレイプやドラッグの連続絵巻を開始する。

ギャスパー・ノエもまた、それはゴダールからの影響であると公言している。

ゴダールは作品の冒頭で、フランス国旗のトリコロールカラーのゴシックで、「これは映画である」という宣言を叩きつけてから、本編を始める。いかに映画史上かつて採用されなかった可読性の低い手法を駆使しようが、「これは映画である」と宣言してしまえば、それは「映像」一般ではなく、ジャンルとしての「映画」の歴史に組み込まれざるをえなくなる。

ゴダールがジャンルをリプレゼントする態度をノエは真似て、自らの映画でも「これはフランス映画です」という字幕で祖国を僭称する。そして、彼ら作家は、<ジャンル=国家>に対して挑発・攻撃を仕掛ける。

 

スパソイェビッチは、「セルビア映画」と名乗り、世界中にセルビアの政治的状況を伝えようとしたうえで、さて、何を撮ろうかと考える。何をどのように撮ることが、もっとも効率的にセルビアの説明になるだろうかと。

こう思考して映画が撮られるとき、作品の主題は、つづられるテクスト(過激な暴力・性描写の一つひとつ)でなく、リリースの行為性のほうにこそ宿る。言ってしまえば、『セルビアン・フィルム』は事実記述的 constativeでなく、行為遂行的 performativeなのだ。

こうした態度は、ジャンル映画の枠組みからは説明がつかない。ここに、一見してジャンル映画のようで、しかしその隘路をくぐり抜ける『セルビアン・フィルム』のユニークさがある。

 

以上の称賛をもって、あらためて最初の言葉に立ち返る。

セルビアン・フィルム』は、タイトルがよい。

3-2)浪江女子発組合について知っていること(2)/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

◎中期:Withコロナでの有観客イベント模索期

ここでの中期とは、Withコロナの状況下でも、やりかたを工夫しながら有観客イベントを再開していった暗中模索の時期を指す。

 

浪江女子発組合は、2020年10月31日 立川ステージガーデンで有観客イベント『浪江発立川へ 秋』を開催した。

ももクロ総体として見ても、コロナ第一波・第二波以降、初めて有観客ライブを再開する嚆矢となった(有観客MSRSの初適用だった)。

 

この日、『つながるウンメイ』と『またキミと。』が初披露される。

この2曲は、浪江女子発組合の活動再開について此岸/彼岸を成しているように思う。

 

『つながるウンメイ』

『つながるウンメイ』は、多くの場で解説されているとおり、浪江町の「春花火」と、常磐線全線再開(富岡―浪江区間の不通解消)をテーマにしている。

 

初期の組合員たちはよく知るように、かつて常磐線の富岡⇔浪江区間は開通しておらず、富岡駅で(JR東日本から委託された浜通り交通の)バスに乗り継ぐ必要があった。これが区間内の除染・インフラ整備をもって、2020年3月に復旧。南方面(東京・いわき)から浪江町への鉄道アクセスが大改善された。

『つながるウンメイ』は、曲の一番では、かつて震災前に常磐線に乗っていた記憶が綴られる。

窓の外流れるいつもの景色

見るともなし見てた陽だまりの席

それはまるで永遠みたいな優しい記憶

くりかえし思い出しながら 心で話しかけてた

改札の前 手を振りあったね 元気でいますか?

 

二番では、全線復旧した常磐線に久しぶりに乗って、浪江駅へ向かう。

何年か振りに買った乗車券

言葉にしなくても伝わってくる

時間も距離もなかったみたいに打ちとけあえて

すべりこむホームの匂いが 「おかえり」って言ってくれるよ

並んだ文字の 日付ひとつさえ 笑顔になれるね

 

そして、向かう先は「なみえ春まつり」の花火大会であり、友だちとの再会をそこで果たす。

あの日途切れてしまった レールの向こう側

また会えた 君と見る春花火

 

2020年の(のちに中止となる)春まつりの開催日は、4月17日だった。

(そしてこれが、ももクロ春の一大事の前夜祭『夜桜を見る会』も兼ねる予定だった)

 

『つながるウンメイ』は、2020年3~4月のかなり具体的な出来事にフォーカスしている。

おそらくは、中止になった定期大会第四回(3月7日)での披露が予定されていたのではないか(そして、この曲を携えながら、『夜桜を見る会』の花火大会に組合員たちを帯同しようとしていた)と推測する。

だとすれば、『つながるウンメイ』は、立川で”ようやく”お披露目された、浪江女子発組合の再始動によって救われた曲だったのだろう。

 

『またキミと。』

『またキミと。』は、中期の特色や特異性である、「浪江女子発組合の再始動」というテーマで曲が書かれている。

あーりんが、『つながる、ウンメイ』と『またキミと。』の音源配信開始に伴い、2020年11月22日のレギュラーラジオ番組『ももクロくらぶxoxo』で、楽曲解説をした。

『またキミと。』はね、ザ・王道のアイドルソングって感じ。ライブの終わりに歌う、ここでまた会おうね〜っていう。ライブに置き換えられるし、いまコロナで浪江でなかなか集まらない中で、またいつか浪江で集まれたらいいね、って曲でもあります。

 

コロナ禍でしばらく会えずにいた組合員との再会を「共にある瞬間 分かち合う瞬間」と喜ぶ。もし(コロナ禍の特性上)またしばらく会えない期間を強いられたとしても、

たとえこの瞬間(いま)が 幕を降ろしても

サヨナラは言わないよ

照れながら ここに誓うんだ

またキミと 笑える日まで

と、再び出会うことの宣誓でサビを締めくくる。

組合員とまた会うことを願うからこそ、『またキミと。』は、アルバム『花咲む』のラストにも抜擢された。

 

ここに、直接的な浪江町の行事モチーフはない。

「また会えた喜び」「また会える日を信じる」という浪江女子発組合の活動継続そのものがテーマになっている。浪江女子発組合はコロナ禍で抑圧されたことから、かえってその抵抗が、グループの活動テーマの一部を形成するようになる。

さらに言えば、浪江女子発組合が「自分たち自身」を問題化する、後期楽曲たちの先駆にもなった。

 

結果的に、立川ステージガーデンの公演は、コロナ禍が比較的小康した「すき間期間」を突いた開催になった。

その翌月以降、2020年11月~2021年2月にかけてコロナの第三波が猛威をふるい、二度目の緊急事態宣言も発令された。

立川ステージガーデンそのものは、クラスター感染を起こすこともなく有観客MSRSの信頼性を示したが、浪江女子発組合はその後しばらく(再び)、何らかの制御をかけたイベントを指向するようになる。

 

2021/1/24 定期大会 第四回延期。代わりに配信番組を開催。

2021/3/13 定期大会 第四回(JA浪江が1年ぶり浪江町訪問。その地から無観客配信)

2021/4/11 定期大会 第五回(福島県在住者限定で浪江町で有観客イベント)

 

『ほれ、あいべ!』

2021年5月22日 「佐々木彩夏PPPが今後の浪江を語る会」を配信した。

www.youtube.com

ここでのライブコーナーで、あーりんと内藤るなさんによるユニット曲『ほれ、あいべ!」が初披露された。

 

浪江町のイメージアップPRキャラクターうけどんをテーマに、牧歌的な歌詞がつづられているが、個人的には、オチサビの一節

つないでく やさしさは

強い絆になる!

に毎回感動する。簡潔に、この一節だけを語る。

 

2つ前のブログで書いたうけどんの成り立ちを振り返る。

うけどんは、2013年に浪江町役場の復興推進課(現在の企画財政課)で立ち上がった「浪江町絆再生タブレット事業」に起源を持つ。

離れ離れになった避難住民たちに町がタブレット端末を配布し、オリジナルの情報アプリ『なみえ新聞』や、YouTube『なみえチャンネル』を通じて、浪江町の情報を発信する。

散り散りになった人たちの中で浪江町が風化することを防ぐとともに、プラットフォーム上で個々人の絆の紐帯を務める。そんな情報発信にあたって愛嬌ある仮人格を設けるために、町民からデザイン募集して作られたキャラクターがうけどんだった。

だからうけどんは、浪江町の人たちを「つなぐ」ことと、「絆の再生」をすることにキャラクターとして本義・原点を持つ。

「つないでくやさしさは 強い絆になる」という歌詞は、うけどんの本質を浪江女子発組合が理解し、歌っていることを示している。このパートを聴くたび、毎回感動する。

 

◎後期:「あいのりきっぷ」という新指針

2021年11月20日 定期大会 第七回が開催された。

youtu.be

場所は浪江町で、他地域民も問わず広く招いた有観客イベントとしての定期大会である。その本来的な条件下での定期大会は、2020年2月が最後だったため、実に1年9ヶ月ぶりだった。

 

この日、あーりんは12月にLINE CUBE SHIBUYAで行う『浪江女子発組合 組合総会 あいのりきっぷ』の詳細を発表した。『あいのりきっぷ』というタイトルの意味するところを、あーりんはこう語った。

あいのりきっぷっていうサブタイトルをつけさせてもらったんですけど、

これは、大柿さんとも相談させてもらって、

春に、浪江町のみなさんと協力して大きなイベントをさせてもらいたいって話していて、

一人でも多くの人に浪江町に来てもらいたいなって思ったとき、

私たちが武道館を目指したいと言っている理由の一つと同じなんですけど、

東京でたくさんのみなさんと触れ合ったり、たくさんの人たちに知ってもらったり、私たちのことを好きになってもらうことで、春に向けてたくさんの人たちが、「あいのり」していただければな、

っていう思いを込めて、このタイトルをつけました。

 

付言するなら、浪江女子発組合が「あいのりきっぷ」をつけてライブをするとき(渋谷と仙台で実績あり)、以下のような前提も含まれるだろう。

 ・浪江町以外の場所、都市部で有観客ライブを行う

 ・チケットを有料とし、予算があって初めて可能な凝ったプログラムを披露する

 

コロナ禍での移動制限から、浪江女子発組合は「浪江町へ移動せず首都圏のまま何かを行う」ことをずっと要請されてきた。

ならばいっそ、首都圏での活動を活発化させてしまう。都市部のアイドルシーンに適うグループ体制・楽曲の幅へと強化していく。その結果、拡大したファンをいずれ浪江町へ「あいのり」させる。

 

浪江女子発組合は元来、ご当地アイドルであるが、他地域から浪江町に訪れる「交流人口」としてのグループだった。全国のファンに浪江町に来てもらい、知ってもらい、そして復興の素地となる「笑顔」を浪江町にもたらすことを目指してきた。

そのための、動員力を持たないといけない。

 

浪江町は、復興計画の一部「浪江町総合戦略」のKPIの一つに「交流人口」を持つ。

産業振興課の観点として見たときも、浪江女子発組合は「交流人口」拡大の施策であると言える。

だから、浪江女子発組合も町の目的に呼応する。

 

思い返せば、2021年4月11日の定期大会 第五回であーりんは、年内の武道館公演を目指すと宣言した。裏で実はすでに会場予約をしている、といったことの一切ない状態での「ガチ」の宣言だったことは、のちにももクロ番記者 小島和宏が証言している。

 

何ヶ月かを経て、あーりんが武道館公演の年内目標を撤回したとき、作為的なドラマ演出でなく「ガチ」だからこそ、撤回をせざるをえなくなったのだとファンたちは得心した。

少なくとも、この2021年の春、浪江女子発組合を再始動しようと本格的に動き始めたとき、あーりんは「首都圏での動員力」を明確に意識し始めていた。

 

あーりんは、浪江女子発組合のプロデュースをめぐって、このグループの成長に「欲」を持ったことも語っている。

 でも、やっぱ2年やっていく中で、みんなの自分のチームの見せ方と、浪江女子発組合の見せ方。2つパフォーマンスの仕方を持てたら、もちろん武器になると思うし、浪江のみなさんの力になりたいってことと併せて、私達自身のスキルアップもしていきたいって気持ちが強くなっていきました。

ドキュメンタリー『JA浪江の2021年』

 

コロナ禍は、ももクロ春の一大事に延期を、浪江女子発組合に活動停滞期をもたらした。そう考えられているし、事実そのとおりだが、これが期せずして浪江女子発組合の方針に大きな影響を与えていく。

 

つい先日、春の一大事2022 Day2を終えた直後、あーりんにこの3年間を振り返るインタビューが「マンスリーAE」で公開された。

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これもファンクラブコンテンツなので、直接的な引用を割け、要約を書いていく。

 

浪江女子発組合について、もともと春の一大事を盛り上げるための「限定ユニット」と思っている人も多かっただろうとあーりんは言う(もっとも、公式がそう発言したことはないが)。

もし延期なく春の一大事が開催されたら、「役割を終えてフェードアウト」してもおかしくはなかったと言う。

確かに、浪江女子発組合は活動初期のころ、春の一大事 2020までにミニアルバムをリリースすると言っていたし、元・白夜書房の並木愼一郎さんが協力してスタイルブックを出すという話もあった(後者は流れた)。

浪江女子発組合の活動を決算する成果物は、当初、いずれも春の一大事の開催がゴール地点に設定されていた。しかし、春の一大事の予定が宙吊りになったことで、浪江女子発組合の活動が長期化する。

 

ここで2つのニーズが生じたことを、あーりんは語る。

  • 春の一大事が延期されている間もなお、福島とももクロのつながりを持ち続けること。
  • あーりんの中に、アイドルグループとしての楽曲がもっと欲しい、完成度を上げたい、(大先輩×後輩の壁を取りはらい)チームワークを強化したい、といった「欲」が生まれたこと。

この2つが合流(利害一致)し、浪江女子発組合は長期化した。そして、いまや「春の一大事が終わってもなお続く」ことに軸を置くまでに、グループとしての自走性を持つに至っている。

2021年11月20日の定期大会 第七回では、隈研吾による浪江駅前の再開発が2025年に完了すると大柿さんが話したのに対し、あーりんは、そのときまで私たちも活動できているように頑張りたいと答えた。あーりんは、この時点で間違いなく、浪江女子発組合は春の一大事とは独立して、活動継続していく絵を頭にえがいている。

 

そして、浪江女子発組合は、「浪江町について歌うこと」と並走し、「自分たち自身のことを歌う」楽曲のコードを涵養し始める。

それは、上であーりんが語った「浪江のみなさんの力になりたいってことと併せて、私達自身のスキルアップもしていきたいって気持ちが強くなっていった」こととも紐づく。

浪江女子発組合が、浪江町の行事モチーフを用いず自己主題化をはかるのは、『またキミと。』で先見されていたが、よりギアがかかったのは、2021年12月11日のLINE CUBE SHIBUYA『2021年JA浪江 組合総会 あいのりきっぷ』公演だったように思う。

 

この渋谷公演では、各メンバーに自選のソロ曲を披露させ、一人ひとりの個性にフォーカスをあてた。ここでのソロ曲は、「自分の活動の原点だったころの曲など」を選ばせたという。

結果的に、メンバーたちは3B juniorとして出自やももクロ単独公演のバックダンサーを務めた想い出の再現に、ステージ上を花咲かせた。

https://popnroll.tv/articles/22012

市川優月が3B juniorの「ベリメリ・クリスマス」を歌い、バックダンサーとして小島はな高井千帆、播磨かなの3人が懐かしさ溢れる3B時代のグッズ「抱きしめたくな~れ!魔法のスティックライト」を使用し、会場にいるファンと配信にて視聴しているファンとコール&レスポンスを取りつつ一体感を生んだ。

 

ももいろクローバーZの「労働讃歌」が流れると、高井千帆を中心に、佐々木彩夏市川優月小島はなとともに気迫のこもったパフォーマンスを披露。途中には2014年に行なわれた<桃神祭>のオマージュで、佐々木彩夏とサングラスを掛け合うシーンも盛り込まれた。

 

続けて小島はなももいろクローバーZの「鋼の意思」をガッツ溢れる歌声で歌唱し、愛来市川優月鈴木萌花内藤るな高井千帆、播磨かなとともに7人で当時3B juniorメンバーとして参加していた<ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会>を再現するフラッグを取り入れたステージングで会場の熱をさらに高めた。

 

この日、初披露された楽曲『それぞれのハタ』は、3B juniorの曲調があきらかに意識されている。

同じく浪江女子発組合の自己紹介ソング『桜梅桃李夢物語』は、浪江町の花――避難指示解除後に浪江町で盛んになった花卉産業や、町の風景に散りばめられた花の種々をモチーフに使用しながらも、本義的には「彼女たち自身」の個性にフォーカスしている。

 

こんにち、浪江女子発組合は、浪江町の風土・行事・文化を媒介するだけでなく、彼女たち自身の魅力、チーム感をはぐくみ、ファンに認知してもらうよう指向している。

たとえば、かつて初期のももクロが「和をモチーフにしたグループ」という自己定義から遊離し、同語反復的な「ももクロらしさ」を問題化し始めたとき、たちまち飛躍的成長を遂げたように。

 

『いつかまた浪江の空を』

上述したような、浪江女子発組合が「自分たち自身」を主題化することにギアを切ったとき、一種「浪江町に寄り添う」ことの自戒、その碇を降ろすように、あーりんはアルバム『花咲む』に「浪江町出身の方のメッセージ」も取り入れたいと考えた。

そして、浪江町出身のシンガーソングライター牛来美佳さんへ、本曲のカバーがオファーされた。

 

https://namienosora.com/#ref05

「いつかまた浪江の空を」をカバーさせていただいてる浪江女子発組合のプレイングプロデューサーを務めさせていただいてます、佐々木彩夏です。

 

私たちは浪江町を中心に活動させていただいておりますが、実際に浪江町出身のメンバーがいるわけではありません。

 

今回アルバムを制作するにあたり、実際に浪江町出身の方のメッセージもこのアルバムに込められたらなぁと思っていたところこの楽曲に出会いました。

 

とても優しく強いこの楽曲を歌うのは緊張しますが私たちなりに表現しました。

 

少しでも多くの方にこの楽曲が届きますように。

 

これからも大切に歌わせていただきます。

 

浪江女子発組合の楽曲では、基本的に避難指示解除後の――復興へ前向きに突き進む浪江町を念頭に置いて、曲中の風景がえがかれる。

いっぽう、『いつかまた浪江の空を』は、牛来美佳さんが震災後、群馬県で避難生活を送っている2013年ごろに作られた(作曲は山本加津彦、作詞は山本・牛来さんの共同)。2015年にレコーディングが行われたときには、当時、避難先の二本松の仮校舎に通っていた浪江町の小学生21人(この子らは浪江女子発組合の妹メンバーたちとほぼ同世代である)のコーラスが取り入れられた。

 

まだ、浪江町の避難指示解除の時期・方法が社会から示されていなかった時期に書かれたこともあり、率直に「帰りたい/帰れない/帰れる日は来るのか」という不安と、なおも格闘する希望とがないまぜになった詞が綴られている。

いつもいつも 歩いていた道

笑い声が聞こえてた 優しい町

あといくつ数えたら

その日は来るのですか

(…)

伝えたくて 諦めたくなくて

想い歌に叫ぶけれど どこに届くの…?

 

浪江女子発組合は、かつて牛来さんから山本加津彦に送られたアルバムや手紙を目に通したうえで、歌ったという。

浪江女子発組合からカバーのオファーがあったことは、コロナ禍で思うように活動ができず「路頭に迷うような気持ち」でいた牛来さんにとって、「とても嬉しく、新たな広がりに希望」を持てる出来事だったと言う。

そして、浪江女子発組合は、「震災のことや想いを伝えるために歌い続けてきた私の歩みなど、「いつかまた浪江の空を」の楽曲に関して十分に理解してくださって」いると。

readyfor.jp

※論旨から外れるけど、この牛来さんの復興支援ライブのクラウドファンディングは、浪江女子発組合へ大事な『いつかまた浪江の空を』をカバーさせてくださったことへ感謝の念を持つ人なら、ぜひ心ばかりの支援をしたらよいと思う。

 

アルバム『花咲む』のリリースインタビューでも、あーりんはこのように語った。

natalie.mu

佐々木 

牛来さんが被災したときに感じた気持ちや、浪江町に住んでいた方の気持ちが歌詞に詰め込まれているので、それをちゃんと伝えられるように私たちも受け継いでいく、という思いで歌っています。私も震災当時のことを印象深く覚えているんですけど、やっぱり東京で感じた気持ちと、当時浪江町に住んでいた方が感じられた気持ちは全然違うし、私たちが想像できないような大変なことがたくさんあったと思うんです。それを、私たちを通してもっと若い世代に伝えていけたらと考えています。10年経って震災と向き合う気持ちを忘れちゃった人もいるかもしれませんが、あのとき感じた気持ちを忘れないようにするのも大切なことだと思うので、そのきっかけになれたらなって。

 

すなわち、あーりん・浪江女子発組合なりに、3.11という複合災害の記憶を、異なる地域・若い世代へと「伝承」するために歌っている(「震災の記憶の伝承」も、浪江町が復興計画の施策の一つに掲げる重要なテーマである)。

『いつかまた浪江の空を』は、2年半の活動を経てきた浪江女子発組合が元来の倫理へ立ち返る、一種の一里塚のような楽曲になっている。

 

『ハレノヒの足跡』

現時点、『ハレノヒの足跡』が浪江女子発組合の最新楽曲だが、個人的にもっとも感動を憶えた曲でもある。

曲冒頭の歌詞でその名称が出るとおり、浪江町の十日市祭りを題材にしている。

 

浪江町の特に今日的な問題意識と、浪江女子発組合のスタンスが、この曲の中で一様に合流している。

 

一番のあーりんパートで

変わらないために 変わりゆくこと

少し怖くなるけど

行き交う人達の温もりは

今も あのまま

と歌う。

今年の3月11日に、浪江女子発組合のInstagramであーりんは、『ハレノヒの足跡』のこの一節を慎ましやかに投稿している。あーりんなりに、この一節が特に、浪江町に寄り添うメッセージであると解しているのだろう。

 
 
 
 
 
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「変化(変わる/変わらない)」というテーマは、しばしば浪江女子発組合の先行曲でも歌われてきた。

『ほれ、あいべ!!』

変わってく景色たち 変わらないこの気持ちで

つないでくやさしさは 強い絆になる!

 

『つながるウンメイ』

変わらないもの、変わりゆくもの、

全部 ちゃんと抱きしめてたいよ

 

浪江町の物質的な景色は、震災以降あるいは避難指示解除以降、どんどんと変わっている。いまも変わり続けている。

物質的には変わるが、それでも「変わらない」ものがヒトの「絆」である。浪江女子発組合は一貫して、この定義で「変わるもの/変わらないもの」を歌い続けている。

 

現町長の吉田数博が昨今よく発信するメッセージがある。

浪江町は変わっていく」ということの覚悟と、それを受け入れるよう人々に願うメッセージである。

 

mainichi.jp

 ――町の風景の変化に、戻らない町民から「置き去りにされている」という声も聞こえてくる。

 帰還率が1割に満たない状況では、新しい人の力が必要だ。魅力ある町と捉えてもらうには、ある程度町の形が変わることはやむを得ない。震災前の学校は解体され、寂しいと思う。各校跡地に記念碑などを集めたポケットパークのような場を作り、歴史に触れられるようにしたい。

 

◎広報なみえ 2022/4号『吉田町長に聞く 新年度を迎えて』

最後に、〝町づくりへの想い〟を聞かせてください。

 今、町の景色はどんどん変わっています。そのことで「故郷が無くなるのではないか」と不安になる人もいるかもしれません。しかし何も手を加えなければ、町は荒れ果て、寂れ、本当に故郷がなくなってしまいます。

 昔から町は常に変化してきました。伝統・歴史を生かしつつ変化させることは、今を生きる者として、先人から受け継いだふるさとを守ることだと思うのです。

 これからも、皆さんがいつでも帰れるよう「ふるさと浪江」を守り、そして子供たちの未来に引き継いでいくために全力で取り組んでまいります。

当然だが、震災前の浪江町に郷土愛を持つ人たちにとって、町の風景が変わっていくことは、複雑な感情を呼び起こす。

あるいは、避難指示解除の予定がいまだ示されていない区域にふるさとを持つ人たちにとってすれば、町の中心部の復興が賑やかであるほど、疎外感を抱くこともありうるだろう。

ある人にとっての「浪江町」が、特定の緯度経度の場所を指すのでなく、郷愁を呼び起こす「あのコミュニティ、あの文化、あの日常」を指すと考えれば、ただ経済的・産業的に活性化することがイコール「復興」とは言えないことなど容易に理解できる。

 

吉田数博は、やや強く、これからの浪江町が「変化」を受け入れていくことを宣言する。それは「子供たちの未来に引き継いでいくため」であると。

 

震災復興を巡っては、阪神淡路大震災時にときの政権が「創造的復興」を謳い、多くの反対意見があった神戸空港の建設など、のちに地域を疲弊させる財政が行われた歴史的反省がある。3.11をめぐっても、自民党は(狙ってか、あるいは単なる歴史的無知からか)同じ「創造的復興」をしばしば唱えている。そこに、自治体や地域からの警戒心が生じてもいる。

しかし、いま浪江町で新たに興っている産業・農漁業について、国の旗振りに盲目的に従った結果ではなく、町自身の意思を緊張感をもって介在させていることは、1つ前のエントリーで自分なりに詳述してきた。

 

大事なことは、たとえ町の変化をめぐって、属性・立場の違いによる「わかりあえなさ」があったとしても、その個々人同士において「交流」はできるということだ。

浪江町はその視点をつねに持っている。

 

上に引用したとおり、吉田数博は「震災前の学校は解体され、寂しいと思う。各校跡地に記念碑などを集めたポケットパークのような場を作り、歴史に触れられるようにしたい。」と語った。

2020,2021年にかけて、浪江町内の小中学校について、現在稼働中のなみえ創成小学校(と、いまも立入制限中の津島地区内の学校)を除いて、すべての閉校が決まった。

行財政の逼迫回避を理由とし、町民の「記憶」が詰まった学校という場所を後世に継げなくなることに対し、町内にいくらかの失意がもたらされた。

www.sankei.com

 

だが、たとえば浪江町は代わりに、学校跡地に4箇所の防災コミュニティセンターを開設した。古くから住民たちに親しまれてきた場所を、新たな交流が息づく拠点にしようとしている。

www.minyu-net.com

 

町はかつての風景から少しずつ変わっていく。それは避けられない。しかし、語り継ぐこと、話すこと、伝承すること、といった「交流」の機会を代わりにビルドインすることをもって、町はケアをはかろうとする。

『ハレノヒの足跡』も、町が変わっていくことに「少し怖くなるけど」と言うが、「行き交う人達の温もりは 今も あのまま」と、人々の絆や交流は変わらないことを信じる。

 

「過去と未来」「距離と時間」をめぐって、それぞれに異なる視座・属性を持った(必ずしも溶融できない)人たちが十日市祭りに集い、交流する。

過去と未来が「ハレの日」でつながる

どれだけの出逢いを重ね合えるだろう

縁を織りなし 辿る足跡

これまでの日々と 愛しい明日よ 晴れ渡れ!

 そこでの「出逢い」によって、「これまでの日々(過去)」と「愛しい明日(未来)」が合流する。「距離と時間」を分かつ他者が出会い、なお他者のまま「縁を織りなす」ことで動き出す時間に対し、「晴れ渡れ」と祝福の言葉を捧げる。「ハレノヒ」とは、そんな場なのである。

 

思えば、前町長の故・馬場有が語っていたところによると、避難指示解除にあたって若い避難住民に話を聞くと、彼らの多くはかつて震災当時は小学生(あるいはそれ以下)だったため、町の記憶がおぼろげだった。ひいては、町への郷土心が年配者のそれと均一ではない。

だが、かつて子どもだった彼ら・彼女らは口を揃えて、町のショッピングセンターや十日市祭りのことは覚えていると言ったという。震災前の町の具体的なディテールがおぼろげであっても、お祭りのあの温かい空気を、子どもたちは、イメージに焼き付けて記憶しているという事実があった。

だから、馬場有は、お祭りや伝統行事を絶やさずに行うことが、町の絆再生で重要な意味を持つと確信した。

 

『ハレノヒの足跡』でも、

大きな手のひらを握って

露店通り眺め歩いた

りんご飴の頬を赤らめ

見るもの全てが光って見えた

と、大人の「大きな手のひらを握って」十日市祭りを歩いた子ども時代の記憶が歌われる。歌詞の人称はつねに、震災当時幼かった――いまの浪江女子発組合のメンバーとちょうど同じ若年層の目線で歌われている。

 

想い出の 色が薄れゆくこと

切なさもあるけれど

向けられた笑顔は鮮やかに

あの日 あのまま

そんな彼女らにとって町の記憶は率直に「薄れゆく」中にあり、その「切なさもあるけど」、しかしお祭りの日、子どもだった自分に向けられた「笑顔は鮮やかにあの日 あのまま」に記憶に残っていると言う。

 

浪江女子発組合は、公式サイトで「女子ならではのスタンスで浪江の今を伝えます」と謳うとおり、実は、つねに楽曲内の視座を、いま十代~二十代前半の「女子」の目線に据え置いている。

 

ひいては、さまざまにありうる「浪江町」を見る属性・立場に関して、自分たちは「女子」(特に若年層であること)の目線からメッセージを発するという選択結果を表明をしている。

 

たとえば、「浪江のこころ通信」であったり、「双葉郡未来会議|ボイスアーカイブ」であったり、被災地の人々の声を可視化する媒体を覗いたとき、多くの若い人たちが、故郷よりも避難先で生きた時間のほうが長いこと。ふるさとを、ふるさととして見る視座を持つことの難しさを話す。

しかし、それを彼ら・彼女らは決して「負い目」に感じたりせず、自分なりのスタンス、自分なりの温度感で、軽やかに故郷と接することが許されてしかるべきだろう。「復興」は、オブセッシブに臨んではならない。

 

浪江女子発組合も、「女子」という視点から、

夢はいつでも 自由なままに

終わらない旅は続く

曲がりくねった日々の向こう側へ

私らしく歩いてく

足取りも軽く

決して一様ではない「曲がりくねった」道のりを「私らしく歩いてく 足取りも軽く」と歌い、この曲を締めくくる。

 

浪江町の――決して上辺をなめる程度ではない問題意識と、浪江女子発組合がどういった態度でそこに取り組むかという意思を、『ハレノヒの足跡』は、果敢に、しかし軽やかに示してくれる。

この曲に、浪江女子発組合が2年半活動し、得られた「成熟」のモニュメントがある。

 

■結び

浪江女子発組合は、コロナ禍によって活動を阻害されたと考えられてきた。しかし、むしろコロナ禍によって活動が恒久化し、深化を遂げた。

あーりんは、春の一大事翌日の『Monday居残りライブ』を終えたあと、福島民報からインタビューを受け、そこで「今後も福島県に寄り添っていく」思いを語った。

 

www.minpo.jp

―今後の福島県との関わりは。

  「個人としては、プロデュースしている浪江女子発組合(浪江女子発組合)の活動にやりがいを感じている。浪江町を中心にライブ活動を展開して、多くの人に福島の魅力を知ってもらいたい。グループとしては頻繁に来ることはできないが、気持ちに寄り添っていく」

 

福島県民にメッセージを。 

 「東日本大震災を経験した皆さんと私たちの気持ちは一緒ではないと思うが、できるだけ近づきたいと思っている。ライブを終えてもっと交流したいという気持ちが大きくなった。いろいろな町を訪れ、祭りの手伝いなどをしてみたい。これからも応援よろしくお願いします」

こうした言辞を見るに、おそらくあーりん自身は現段階、浪江女子発組合に終わりを想定していない(少なくとも、何らかの強制的な外部要因によって終わらざるをえなくなるまで)。

「浪江女子発組合の終わりはいつか」という問いは、被災地の「復興はいつ完了するのか」という問いと似ている。

 

第一に、福島第一原発廃炉や、町内全域の除染が完了し、安心できる形でふるさとが住民へすべて返されることが挙げられる。

そして、町の産業・コミュニティが再構築され、町自身による自治力や持続可能性を、そして揺蕩う「日常」への信頼を持て得たとき、その状態を「復興」と呼びうるだろう。

悲しいことに現時点、この「復興」の時期を予測できる人間は、この国に誰もいない。

ひいては、いまはまだ「終わり」の時期を考えるときではない。

 

ももクロが東北被災地との接してきた前例に立ち返るなら、ももクロは、岩手県女川町と「友だち」の関係を結んだ。言い換えれば、「終わらない関係」を先んじて志向した。

なんてことはない。むかしから、ももクロが取ってきたのと同じ態度が、浪江女子発組合にもある。

 

■最後に(夜桜を見る会のこと)

最後に、このブログの前後でようやく楽しんできた春の一大事および『夜桜を見る会』について、個人的な思い出を書く。

 

自分の中に、春の一大事および浪江女子発組合を巡って、2つの期待と不全感があった。

 

ひとつは、浪江町長の吉田数博が、春の一大事にかかわる場へ姿を見せないこと。馬場有から連なる浪江町の復興意思の首長が、ももクロとの交流に積極的でないように見えたこと。

もしや、広野・楢葉といった「立地町」との間にあるギャップのためだろうか。福島第一原発増設の返礼として協力町に東電が建てたJ-VILLAGEを、いま復興シンボルへとリブランディングすることへの(いまさら誰もつっこまないことへの)違和か――等々、ただの邪推でしかない想像を掻き立てられた。

 

もうひとつは、『なみえ春まつり』が発表されずにいたこと。

 

よく知られるように、2019年12月の定期大会 第1回で、川上マネージャーが「4/17に、春の一大事の前夜祭として、『夜桜を見る会』をやらせていただく」と言い、すぐに産業振興課の大柿さんが「浪江にも毎年行っている春まつりという、夜桜を見ながら花火を楽しむ行事があるので、是非それと合流して」と返した。

 

J-VILLAGEを擁さない浪江町にもモノノフが駆けつける契機は、すでに浪江女子発組合の発足時点から、『なみえ春まつり』『夜桜を見る会』の合同化によって織り込まれていた。

ももクロ単体のイベントではない。ももクロ浪江町が一緒に行い、その二者が「仲良くなる」イベントであることに意義がある。

 

2年の延期を経て、2022年3月中旬、ももクロ側は『夜桜を見る会』の開催を発表した。

日付は春の一大事Day1、4/23の夜。そのころ桜はほぼ散っている。

では、より前の時期に、別途『なみえ春まつり』が開催されるのだろうか、と考え、同じころ毎日のように浪江町の広報をチェックしていたが、ついぞ町から『なみえ春まつり』の告知がされることはなかった。

 

『夜桜を見る会』は『なみえ春まつり』と合同開催なのか、あるいは別ものなのか(春まつりは今年も中止なのか)最後まで分からずにいた。

(純粋な花見目的では、4/9に個人的に浪江町へ行ったが、その時期でまさかの二分咲きだったので運が悪すぎてウケた)

 

いざ『夜桜を見る会』当日、チケットは無惨に落選していたが、すぐ近くのホテル『双葉の杜』に泊まっていたため帰り道の心配もなく、許される位置から花火を見ようと思い、道の駅なみえに駆けつけた。

 

すると、道の駅なみえの前には屋台が立ち並び、家族連れ、年配の方――どう見てもモノノフではない町の人たちも数多く混じって、賑わっている。

正式に名称をかぶせないにせよ、やはり浪江町にとっての位置づけはれっきとした『なみえ春まつり』なのだと確信した。かつては請戸川リバーラインの土手に設営された屋台やテーブルが、いまは電源供給の容易な道の駅前に移されただけで、ここにあきらかに『なみえ春まつり』のスキームがあることを喜んだ。

 

いざ、自分なりの「見える位置」について、イベントが開始したとき、あーりんの隣に吉田町長が立っていることに気づき、「あ」という声が出た。

自分の中で、時間が一瞬止まった。

 

氷解した。なんてことはない。吉田数博は、ここが位置づけ的に『なみえ春まつり』であり、ひいては「町民」のイベントだから、参加してきた。

春の一大事には、ももクロのファンが全国から集まる。浪江町は三町のうちの一である。『春の一大事』がイコール「町民」のイベントかというと、必ずしもそうは言えない。

いっぽう、かつてももクロと浪江女子発組合がステージに立った十日市祭りに、彼女らのためでなく「町民」のために、吉田数博は祝辞に立っていた。

「町民」純度が高くないと、(あらゆる地域の自治体でも特に激務で知られる)浪江町長の務めにおいて優先度が下げられる――ただ単純にそういった判断がされただけだろうと思い至った。

かつてあった胸のうちの不全感は、たちまち溶けて消えた。

 

ももクロのOvertureが流れ始める。

そう太くない請戸川一本を挟んで、土手の反対向こう側から花火が打ち上がる。

ももクロの音楽とともに、2年半ずっと見たいと願ってきた浪江の春花火が、打ち上がる。

メンバーも感動していた通り、この距離で、首を後ろ90度に倒して見上げながら、自分に”降り注いでくる”ような花火を見るのは初めてだった。

※写真はうけどんのTwitterから拝借。

 

花火を見る、というよりも、花火の光に視界の端から端までジャックされる感覚だった(これはあの場所に立ち会ったすべての人間が理解することだろう。同時に、あの場所に立たなかった人間に感覚の質を伝えることの難しい歓びでもあった)。

 

自分が、浪江女子発組合とともに(あるいはしばしば勝手に一人で)浪江町に遊びに通い、町の歴史や産業、新たな「日常」を知ろうとしてきたことは、すべて「これ」の美しさを理解するためだったのだと感じられた。

 

ニッポン笑顔百景』『またキミと。』『オレンジノート』『笑一笑』とももクロや浪江女子発組合の楽曲が流れる間、ずっと声を殺しながら、花火の想像を絶する美しさに、マスクの中で「ああああああああああああああああああああああああああああああああ」と泣いていた。

 

花火がすべて打ち上がり、メンバーがあいさつを述べたあと、あーりんが吉田数博に「町長は花火どうでしたか?」と問う。

吉田数博は簡潔に「久しぶりに楽しめました」と、これは町自身にとっても(コロナ禍での2年間の中止を経て)待ちわびた春花火であることを喜んだ。

 

そして、あーりんが吉田数博に、ニッコリと「これからもよろしくお願いします」と言った。

何の変哲もない、ただの一礼節のやりとりだろうが、自分の中でこれまで接続できずに寂しく思っていたものがつながった衝撃に、膝を曲げて泣いた。

 

あーりんは、浪江町の首長に「これからも」と言った。

 

■大柿さん、吉田数博とのお別れ

つい先日、2つの報せを受け取った。

 

一つは、浪江町役場の大柿さんが異動され、浪江女子発組合の担当を外れられたこと。

地方公務員である以上、3~5年程度での異動は宿命であるし、すでにそれほどの期間を、ももクロと浪江女子発組合にあててくださってきた。

 

もう一つは、吉田数博が2022年8月での任期満了をもって、次の町長選には出馬せず、退任する意向を表明したこと。

www.minyu-net.com

 

ももクロ春の一大事と浪江女子発組合に関して、誘致から実現までを担った町役場内の「座組」が終わることを、率直に寂しく思う。

おそらく、この感情は、小学生が2年間務めてくれた担任の先生と別れるときに思う寂しさに近い。深刻な「春の一大事ロス」である。

 

この文章の中で、便宜上、いままでの浪江女子発組合の変遷を、初期・中期・後期に分けて書いてみた。

しかし、これからの浪江女子発組合の活動をもっと巨視的に見たとき、結成からいままでが――大柿さんが一緒に作りあげてくれたこの2年半が、まるごと「初期」になるのだろうと思う。

 

大柿さんをはじめ、あらためて、浪江女子発組合にたずさわってくださった(くださっている)すべての浪江町の人たちにお礼が言いたい。

 

本当にありがとうございました。

これからも浪江女子発組合と一緒に、交流人口の一人として、そのときどきの「浪江町のいま」を楽しんでいきます。

 

そして、あーりん。あなたはいつだって私の誇りです。

3-1)浪江女子発組合について知っていること(1)/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

この文章では、前回までに書いた浪江町についての知見と、浪江女子発組合のいわゆる「オタク」としての知見を紐づけながら、彼女らについて知っていることを書いていきたい。

 

■浪江女子発組合結成の経緯

浪江女子発組合の結成をめぐって、あまりはっきりとしたディテールは、公式に示されていない。断片的な証言から、可能な限り読み解くと、こうなる。

 

まず、2018年12月下旬、浪江町役場(名義は吉田数博町長だが、主導は産業振興課 商工労働係 副主査 大柿光史さん)から、ももクロ春の一大事の誘致レターが送付された。

 

初動となる誘致レター以降の経緯を、あーりんが比較的ストレートに語っている。

浪江女子発組合・佐々木彩夏【ドキュメンタリー番組 『思い出す大切な場所 〜福島県・浪江町〜』】後編(4:40から)

結成のときの話は、

春の一大事で、浪江町広野町楢葉町のみなさんからお声がけいただいて、

役場のみなさんとか自治体のみなさんと話をしていく中で、

大柿さんから直々にお願いのお手紙をいただいたときに、

「こういう話があるんだけどどうかな?」って私も相談されて、

楽しそうだからやろ~っていう話になって、

そっからちょいちょい、どういう名前にするか?とか、

どういう衣装にするか?とか、どういうコンセプトにするか?とかって

打ち合わせには何回か出させてもらったりしました。

 

以上を文字どおり読み解けば、まず、春の一大事の誘致は、楢葉・広野を含む三町ともにももクロのもとへ寄せられていた。

加えて、さらに浪江町では「大柿さんから直々にお願いのお手紙」が送付されてきた。

あーりんが「浪江町の役場の方から『一緒にお仕事させてもらえませんか』というお話をいただいた」と言うとおり、大柿さんからのレターには、春の一大事とは別軸の協働関係を結ぶことの提案があった。

 

なるほど、J-VILLAGEという双葉郡内でまたとない会場を使い、三町合同大会を行うとき、地理的に浪江町は富岡・大熊・双葉を挟んで、北へ30km離れた位置になる。春の一大事を開催しても、観光経済の恩恵を十分に与ることができない。浪江町には、春の一大事の「開催地」以外の何かが要請される。

 

こうした大柿さんからの提案は、スターダスト内では、あーりんへとパスされていった。

 

ももクロは、2019年3月11日、浪江町へ表敬訪問をした。

この日を境に、のちに浪江女子発組合発足へつながる企画の打ち合わせが始まったことを、Facebookで「一般社団法人まちづくりなみえ」さんが証言している。

スターダストプロモーション様と浪江町3.11ももクロさんが浪江町を訪れてから、色々とお話し合いと企画を立ててきました。デビュー曲「なみえのわ」に浪江町の今と佐々木さんの思いが詰まっています。当法人も組合員として応援していきます。

 

あーりんも、この基礎計画の段階から、会議の席にしばしば加わった。

会議の中身をこれ以上推測することはできないが、やがて2019年11月に十日市祭りでお披露目されるご当地アイドル「浪江女子発組合」へと結実する。

この独自のご当地アイドルという企画に、ももクロの中であーりんが選ばれ、あーりんが「楽しそうだからやろ~」と応じたことは、すでに感動に値する。

 

■浪江女子発組合、その特長

復興支援=地方活性化および、グループのプレイングプロデューサーは、あーりんにとっても初めて取り組むことだった。

いわば、浪江女子発組合を見ることは、あーりんのフロンティア(現在形)に触知するという歓びを伴う。

アルバム『花咲む』に付属するドキュメンタリー作品『浪江女子発組合の2021年』でも、あーりんは、今後メンバー(後輩)たちにどのような姿を見せたいかと問われたとき、こう答えた。

でも、かっこいい先輩とか、みんなのお手本に、っていうのは、もうそんなに思ってない。(…)

浪江はチームメイトだよ、ってところで、近く感じてほしいし、

私が苦戦しているダサい姿…?全然本当に、あいつどこだっけ?ってなって、ここですって他のメンバーが教えてくれることもよくあるから、

そういうかっこ悪い姿とかも、見せたいわけじゃないんだけど、見せちゃっても仕方ないかなって思います。

 

◎「福祉」主体としてのあーりん

私のボキャブラリーでは、ほかに適切な言葉が見つからないため、やや仰々しい言い方をするが、あーりんは「福祉」の精神を持っている。

 

ここでの福祉とは、介護や社会保障といった狭義の社会制度のことを指すのではない。日本国憲法には「幸福追求権」の保障が存在する。万人は、自らの幸福をより多く得るための行動を取ってもよい。

しかし、障害や加齢など、何らかの事由によって自らの幸福追求権を十全に行使できずにいる人たちがいる。その人たちの幸福追求行動を支援することが、憲法を根拠とし、国を運営する政府へと要請される。これが「福祉」の基礎である。

 

あーりんは、よく知られるように、ママや、幼いころに通ったダンススクール生の影響から、片言以上の手話を習得している。そして、折に触れて人々へ「手話の美しさ」を語る。

はじめてのソロコンサート『AYAKA NATION 2016』で、振り付けに取り入れた手話を披露したとき、後日ブログで、このように動機づけを振り返った。

https://ameblo.jp/sasaki-sd/entry-12202811797.html

音楽は全ての人に平等に与えられるものだよね。って思った時に

耳の不自由な方にはメロディーは難しくても歌詞は届けられる!って思ったんだ。

だから

今回のソロコンでやってみたいなって思ったの!

器官的な困難を持つために音楽を「平等」に享受できない人たちへ、なおも同じメッセージを届けたいと思うとき、あーりんは手話を振り付けに取り入れる。

この考え方は、まさに原義としての「福祉」だと、愛するあーりんの口からその精神が発されたことに深く感動したのを、いまも憶えている。

 

かつて、前浪江町長の(故)馬場有が政府・東電に賠償責任をいくたび追及するとき、つねに、その根拠(理論付け)に3つの憲法を掲げた。生存権、財産権、そして幸福追求権である。

(一例まで:https://www.town.namie.fukushima.jp/site/namie-chocho/22246.html

 

浪江町の人々は、震災・原発の複合災害によって幸福追求権を十分に行使できずにいる。その回復(復興)を行う責任が、事故の主体たる政府と東電に求められる――というのが、馬場有が特に注力した賠償・責任追及のロジックだった。

 

もう一度言うが、こうした浪江町の「復興」支援について、ももクロの中であーりんが適役とされ、あーりん自身が前向きになったことが、すでにあーりん推しの自分にとっては感動に値する。

 

◎「スタプラの姉」としてのあーりん

あーりんは、ももクロのあーりんであると同時に、同じ事務所のアイドル事業部「スターダストプラネット」の後輩たちに対し、あらゆる機会提供を行う――いわゆる「姉」的側面を持っている。

 

かつて、3B Juniorと呼ばれる後輩アイドルの卵たちに、ソロコンサートでバックダンサー以上の役割を与え、横浜アリーナ両国国技館などの大舞台に立つ機会を与えてきた。

 

そんなあーりんが、浪江女子発組合で後輩たちと協働する考えを、きれいに示したインタビューがある。

ももクロのファンクラブ(ANGEL EYES。以降AEと略)のデジタル会報誌「マンスリーAE」の2020年2月号にて、3月11日に追加更新された内容である。

https://fc.momoclo.net/pc/monthly/archive/ae202002/interview.html

(このリンクは、AE会員のみが見られるコンテンツだが、重要な内容のため、要約で参照していく)

 

ももクロは、東日本大震災のとき、すでに活発にアイドル活動をしていた。そして、紅白出演やドームコンサートなど、幸いなことに十代の若いうちからマッスとしての社会と向き合う機会が与えられてきた。

それにより、ももクロメンバーである私たちは、震災や復興について考える視座が、若いうちから与えられたとあーりんは言う。

 

そんなあーりんは、いま新進アイドルとして駆け出している後輩たちに「チャンスをあげたい」「いろいろな経験をさせてあげたい」と言う。

彼女ら駆け出しのアイドルは、高校卒業や20歳といった節目で、いわゆる「卒業」がありうる。ももクロが、たまたま早いうちに得られた震災や復興について考える視座や機会を、当時の自分たちと同じ年ごろの後輩たちにも継承したい。そうやって、通常的なアイドル活動ではなかなか得られない思考の機会を与えることが、浪江女子発組合の子たちを成長させてくれるのではないか、とあーりんは言う。

 

浪江町の文化・問題意識を正しく体現している

あーりんは、折に触れて、浪江女子発組合の中に「浪江町出身の子がいるわけじゃないけど」と言い、歌詞や衣装、活動形態をめぐって「町役場の人とも相談させてもらいながら」決めていることを対外に言明する。

 

ご当地アイドルだが、首都圏から浪江町へ訪れる「交流人口」としてのグループであるためだ。浪江町の被災・復興をめぐるナイーブな「当事者性」問題に、あーりんなりに慎重に接している。

 

浪江女子発組合は、浪江町役場の産業振興課(を主とし、財政企画課あるいは一般社団法人まちづくりなみえ)をコンセプトマネジメントに迎えることで、「浪江町のアイドル」のレジティマシー(社会的正当性)を確保している。

これは極めて正しい。

 

前回のブログで書いたとおり、町役場の産業振興課は、復興計画の中枢に立つ組織である。

産業振興課は、町のどういった行事・文化・産業が「浪江町のいま」にとって重要性を持つか。そして、その各モチーフにはどういった歴史・課題が随伴するのか――を当然に把握している。

 

浪江町の当事者の視座は、町役場が「歌詞チェック」で参画する浪江女子発組合の楽曲からも数多く読み取れる。のちのち楽曲の感想を詳述してく。

 

■浪江女子発組合の変遷

浪江女子発組合は、2019年末ごろの結成からほどなくしてコロナ禍が始まり、特に第一波~第二波(2020年の春~秋)のとき、活動停滞を余儀なくされた。

便宜上、彼女らの活動に変遷区分を設けるなら、コロナ禍での停滞期を途中に挟みながら、初期・(停滞期)・中期・後期といった分け方が可能だろう。各時期に、あーりんのプロデュース指針にも変遷が見て取れる。

 

◎初期:浪江町のことを正しく理解・媒介しようとする時期

ここでの初期とは、2019年11月24日の結成初披露から、定期大会を三回重ねるまでの、いうなれば「ビフォー・コロナ」の時期を言う。

 

あーりんは、このころについて「結成したときは、浪江のみなさんの力になれればいいな、っていうところだけ」だったと回顧している(ドキュメンタリー『浪江女子発組合の2021年』)。

 

つまり、力になりたい浪江町という具体的な対象があり、一義的に、浪江町を自分らのファンへ知ってもらうための半ば透明な媒介項として、浪江女子発組合というグループ活動を行う。

 

確かに、2019年12月8日の定期大会第一回は、産業振興課から蒲原文崇さん、大柿さん。行政区区長会会長 佐藤秀三さん、まちづくり団体「なみとも」の小林奈保子さんをゲストに迎え入れ、浪江町の「いま」を教わるシンポジウムを開催した。

第二回は、ニッポン放送プロデューサー(バレイベでグッズ企画・制作でよく知られる)桐畑行良さんを招き、東北被災地に接してきたメディアの”先輩”から、震災・復興との向き合い方を聞いた。

いわば、この時期は、複合災害・復興に関する「基礎学習」をしている。

この最初の2回があったからこそ、定期大会 第三回からは、町の動向を聞くのは大柿さん単体に絞り、よりライブやレクリエーション系の企画(ファンを壇上に上げての餅つき大会等)へと時間を割くようになっていった。

 

この初期の「浪江町のことを正しく理解する」という活動スタンスは、初期楽曲にも同様に反復されている。

『なみえのわ』『あるけあるけ』『ミライイロの花』といった曲たちは、(単純にミドル系のアイドルソングとして優れているが)浪江町の風土・行事――そこに紐づくイシューを正しく「媒介」する楽曲になっている。

 

『なみえのわ』

浪江女子発組合結成の瞬間から存在する代表曲で、かつ長らく一公演につき複数回歌われ続けてきただけあり、大事な問題が”すべて詰まった”概観性を持っている。

(たとえば、ももクロにとって、メジャーデビュー曲『行くぜ!怪盗少女』にある「笑顔と歌声で世界を照らし出せ」という宣言が、いまも堅牢なグループの指針として強度を持ち続けているように、『なみえのわ』も、浪江女子発組合がつねに立ち返るべき大事な主題が込められている)

 

これさえあれば浪江女子発組合のライブが成立する強度を有している、と言ってもよい。『なみえのわ』の感想には、いっとうの文字数を割く。

 

たなびく白い雲 ただよう白い鳥

空と海の青さに気づく

鮮やかに並んだ原色の強さが

ここに希望 呼んでいる

冒頭のこの歌詞について言えば、浪江町は太平洋気候からなる温暖で澄んだ青い空があり、請戸方面の海と、津島方面の山、その中間に市街地や田畑がある。一つの町の中にすべての気候・風土がつらなる様を、「鮮やかに並んだ原色の強さ」と歌う。

「白い鳥」はもちろん、「町の鳥」であるカモメである(Overtureでも冒頭カモメの鳴き声が入っている)。

青い空に、雲とカメモという「2つの白」が差し込まれてコントラストが成すのが、多くの浪江出身の人たちが思い描く「ふるさと」の風景の一幕である。冒頭で、こうしたイマジナルな浪江町を示す。

 

地平線の向こう側で キラキラと光り出した

始まる日を信じる気持ち 変わらないから

地平線の向こう側は、東の請戸方面から指す太陽である。

紐づけるにはやや無理があるかもしれないが、前町長の馬場有は震災直後、想像を絶する激務に明け暮れる町役場職員たちを励ますのに、たびたび言ったというのが「明けない夜はない。必ず太陽は出てくる。それを信じて仕事をしていこう」だったと言う。

浪江町(役場職員)にとって、日が明けるのを「信じる気持ち」とは、いまの行動がいつか実を結ぶことへの信頼を指している。

 

むろん、請戸から出る太陽は、次の曲『あるけあるけ』にも歌われる。

 

そして途中「心に咲く春の花火 今も胸に響いてる」という歌詞は、『つながるウンメイ』で歌われる、『なみえ春まつり』の花火大会を指す。

 

続く「桜色の大好きな場所 守りたいから」は、当然、請戸川リバーラインの桜並木のことを指すだろう。「守りたいから」とあるが、事実、請戸川リバーラインの桜は震災後、浪江町全域に立入制限がかかっていたころも、枯れたり腐ったりしてしまわないよう定期的に有志の町民が立ち入りし、メンテナンスを続けてきた。

movie-a.nhk.or.jp

 

桜が並ぶ「守りたい場所」は、事実としても「守られてきた場所」であり、そこで毎年桜咲く季節に春花火を見ることは、町民同士が全町避難指示をされていたころも忘れずに「守ってきた場所」を確かめ合う情緒的意味合いを持っている。

 

このように『なみえのわ』は、浪江町が大事に思う「風景」をつぎつぎと列記的に挙げてくれる。

そして、サビで、これらのモチーフ(太陽と、原風景である青い空)が合流し、

太陽がある限り 明日へ歩いて行ける

空も (海も) 君が (いつも) 迷わぬように澄み渡る

と歌う。

 

「なみえのわ」とは何を指すか。

あえてタイトルで「わ」が平仮名で書かれるのは、サビのときごとに「話」「輪」「○」と、当てる漢字を変えるためである。

 

ひとつめの「話」は、きっと浪江町が持つ「伝承」という復興課題を指すだろう。

 

「震災の記憶の伝承」および、震災以前にあった浪江の景色・文化・伝統を「伝承」することについては、復興計画(第一次~第三次)*1や復興まちづくり計画*2でも、施策として明記されている。

*復興計画 第三次:第2章 未来を担う人づくり=> 施策3 震災の記憶の伝承 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/13894.pdf

*復興まちづくり計画:2.避難指⽰解除以降のまちづくり⽅針=>(4)伝統⽂化の保護・継承体制と施設の整備 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/life/6662_19243_misc.pdf

 

なぜ伝承が必要なのかを問えば、当然、多角的な意義があるだろうが、あえて一つ挙げるなら、(ここでも)分断への抵抗がある。

浪江町は震災・原発の複合災害を受け、いま刻一刻と新しい姿に生まれ変わろうとしている。そのネガ的側面を言えば、震災前の住民たちにとって「戻ったところで、かつての風景・コミュニティは存在しない」というハードプロブレムを引き起こす(これは本当に難しい問題)。

そうしたとき、「浪江町とはどんな町だったのか」「あの災害で何が起きたのか」といった記憶を継承しようとすることは、すべての町民を「置き去りにしない」ようにする重要な態度となる。

 

次に、

吹き抜けてく風に 思い出を託した

恋い焦がれた街に飛んで行け

や、

例え何百キロと離れても

忘れることはない (あの景色を)

といった歌詞にあるとおり、『なみえのわ』は、県内や全国へ散り散りになった避難生活者と、地理を遠くしながら変わらずつながりあうことを、念頭に置いて書かれている。

 

町役場が「どこに住んでいても浪江町民」という基本指針を掲げていることは、前々回のブログで詳述した。この基本方針を策定するにあたり、町議会で何度となく確かめられた一種の喩えは「九州に住んでいても浪江町がケアをする」ということの覚悟だったという。「何百キロ」という距離は、浪江町の人々をつなげあうことを諦める理由にはならない。

 

かくして、

そうさ、ひとりじゃない 仲間がいる

ナミエの輪 つなげよう

と、属地主義を超えて、全国にいる「浪江町を思う人たち」同士のつながりを、浪江町の存立条件に据える。その「ナミエの輪」を広げようと歌う。

 

あらためて言うと、『なみえのわ』は素晴らしい。

十日市祭りでの浪江女子発組合の初披露当日に、立役者の「一般社団法人まちづくりなみえ」が書いたように、この曲には「浪江町の今と佐々木さんの思いが詰まって」いる。

 

『あるけあるけ』

『あるけあるけ』は、定期大会 第一回で初披露された。そのとき、あーりんは、この曲の一番と二番で、人称の視座が変わることを解説した。

www.youtube.com

 

一番は、浪江の人たちがあるけあるけ大会に抱いている気持ちを、ヒアリングして書いたと言う。

二番は、浪江町外に避難している人たち、あるいはいまこうしてあるけあるけ大会のことを知った人たち(つまり広義としての”町外で浪江町のことを思う人たち”)の気持ちが書かれていると言う。

 

確かに一番では、

新しい日の出を

待つ心が震える

白い息踊る町に

集まる顔が嬉しい

幸せへ延びる道を あるけあるけ

悲しみ休めて 前に(前に)進めよ

とあるとおり、浪江町で「あるけあるけ大会」に参加している、いま浪江町にいる人の目線が歌われている。市街地から請戸浜まで約5kmの道のりを歩くことを、「悲しみ休めて 前に歩けよ」と、広い意味での前進の決意へと言い換えている。

 

そして、

笑顔で今

ここにいるから

繋げるよ この場所で

明日への誓い

と歌う。請戸浜ひいては浪江町を「ここ」「この場所で」と此岸的に言い、この町を明日へと「繋げる」決意が清澄な様子で歌われる。

 

いっぽう二番は、意識して聴くと、避難住民の目線へと切り替わっていることが分かる。

冬枯れの並木を

過ぎ行く人眺めて

帰りたい気持ち隠す

懐かしい声浮かんだ

帰りたいけど帰れないという思いを内心に募らせながら、ふるさとをしるし付ける「懐かしい声」が思い浮かんだと歌う。

 

まだ寒い夜明け前

空を見て願いを捧げる

思い出ほら

胸にあるから

繋がるよ あの場所に

強くなる誓い

浪江町を「あの場所」と言うため、場所を異としていることが分かる。

遠くして浪江町を思うとき、ひと続きである「空を見て」思い募らせるというのは、『なみえのわ』でも用いられた詩題だった。その人は胸にある「思い出」を紐帯にし、「あの場所」――浪江町との「繋がり」を誓う。

 

最後のサビでは、

喜びの朝が来て

それぞれの祈りに注いだ

と、二者の視線がないまぜになり、異なる「それぞれの祈り」に、共通の「喜びの朝」が来たと言う。

答えはそう 分かっているから

繋がるさ いずれまた

(…)

どんな日が待つのだろう

君とまた話したいな

いま場所を異とする避難町民の答え(選択)は、「分かっているから」と汲み取る。

「つながるさ いずれまた」「君とまた話したいな」と言い、どういった形であれ、住む場所がどこであれ、「話す」機会に臨めることには変わりはない。

二枚貝のような構造で「浪江町/町外」の視座を往還しながら、やはりここにも、浪江町が掲げる「どこにいても浪江町民」の成熟した視座が伺える。

 

『ミライイロの花』

曲中の「時代を翔けた神輿担いで 息を合わせ 荒波に立ち向かえ」という歌詞にあるとおり、これは海辺で神輿をかつぐ(ほかにもいろいろ行うが)安波祭りを主題にした曲である。

ひいては、その祭りを伝統行事に持つ請戸地区をモチーフとしている。

 

すると、イントロ時のカチカチと鳴る秒針音と、時計の針を模したメンバーの待機ジェスチャーは、おそらく震災遺構 請戸小学校の[15:37]のまま止まった時計をモチーフにしているだろう。

 

いまや請戸小学校が震災遺構として公開され、多くの人の目に触れているエピソードだが、津波到来で学校の電気を制御する複合盤が逆側へ押し出し、剥がされた。このとき時刻が15:37だった。

 

震災から34日後、人々が請戸地区へ被災地入りしたとき、津波到来時間のままだったこの時計が、原発被災地に繰り返し使われる表現――「あの日から時間が止まった」ことのモニュメントになっていった。

だから『ミライイロの花』は、いまや浪江町の再生によって請戸の「時計」が再び動き始めていることを、秒針音とともに歌う。

動き出せ その先へ 揺らぐ針刻んで

時間(とき)を 越えて 咲き誇る ミライイロの花

 

請戸地区には、2022年3月「先人の丘」が作られた。

news.yahoo.co.jp

ここを訪れたとき、大字請戸名義の「請戸史碑」の碑文に感銘を受けた。いまの請戸地区のありようを肯定し、『ミライイロの花』が歌っているように、次へ進もうとする決意が書かれている。

 

請戸地区の多くのエリアは、津波に関する「災害危険区域」に指定されたため、建築基準法第39条にもとづき、震災後の現在、産業施設なら許されるが、住宅を建てることができない。

自治体によるこの区域指定は、祈念公園の建設を合わせて計画化し、住民から土地を買い上げることで、個々世帯の資産回復をはかるという狙いもあった(今井照『原発事故 自治体からの証言』P203)。それでも、人が住む機能が失われることは、コミュニティ再生の困難を随伴する。

 

請戸を漁業拠点として見たとき、碑文にあるとおり、2018年に請戸漁港で7年ぶりに出初式が、2020年には競りが再開した。2022年3月には、常磐物を代表するヒラメの価格が震災以降初めて全国平均を上回った(ブランド力が着実に回復しつつある)ニュースも駆け巡っている。

海岸から距離を置き、かつて請戸小の子どもたちの命を救った大平山の西側には、町営の住宅団地が生まれた。www.town.namie.fukushima.jp

ついこのあいだの4月上旬のこと、(浪江女子発組合の企画・運営にも協働する)「一般社団法人まちづくりなみえ」が協力のもと、請戸住宅団地に自治会が発足されたことも記憶に新しい。www.minpo.jp

地域ニュースのような話を列記したが、請戸地区も再生の一歩一歩を踏みしめている。そうした請戸の歩みを、『ミライイロの花』は、「駆け抜けた未来(さき) ミライイロでしょう」と、希望の精彩をもって、サビの振り付けで上方を指さす。

 

◎停滞期

浪江女子発組合の歩みに、話を戻す。

2020年春~秋にかけて、コロナ第一波~第二波で、特に日本社会全体が強く外出・接触制限を行ったころ、浪江女子発組合も活動の停滞を余儀なくされた。

 

2020年3月7日に予定されていた定期大会 第三回は中止され、代わりに浪江女子発組合のメンバーと大柿さんとで、町内めぐりの模様を配信した。このとき以降、次に浪江女子発組合が浪江町へ行くのは、1年以上先になる。

 

コロナ禍は率直に言って、浪江女子発組合の活動形態と相性が悪かった。

  • グループとファンいずれも、他地域から浪江町への移動を伴うこと。
  • 自治体とともに行う施策のため、事務所主体のイベント以上に、予防・安全のハードルを高く設ける必要があること。

浪江町へ行く・来ることをめぐって、双方が歓待しあえなければ、浪江女子発組合の活動に意味はない。その原則を守るからこそ、浪江女子発組合の活動は縮小した。

 

もっとも、何もしなかった、時間が止まった、と言うなら大いに語弊がある。

無観客かつ地域間移動をせずとも行えることであれば、浪江女子発組合は2~3ヶ月に一度、精力的にパフォーマンスを披露している。以下がそれである。

 

2020/3/9 『高城れにの大感さ祭(だいかんさしゃい)』

2020/4/5 『チャレンジ!推し売りプラネット!~アイドルも家にいろ!~』

2020/6/20 『ONLINE YATSUI FESTIVAL! 2020』

2020/10/4 『TOKYO IDOL FESTIVAL オンライン 2020』

 

(超絶個人的な思い出だが、2020/4/5『推し売りプラネット』では、浪江女子発組合メンバー全員のサイン入りうけどん人形が競売に出され、終盤、私とある人の一騎打ち状態になり、最後に13万円の入札をしたがゼロコンマ数秒の出遅れにより川上さんに拾われず、12万円のまま競合相手に落札されたとき、悔しさのあまり一日ずっと横になり、夕飯も食べなかったことを憶えている)

 

浪江女子発組合再始動の決意は、ちょうど停滞期の真ん中ごろ、2020/8/20『第1回浪江女子発組合会議』であーりんが宣言した。

あーりんは「浪江女子発組合は、浪江町でみんなで集まって!っていうのを大事にしていたんだけど、こんな状況でもみんなに楽しいことを届けられるように」と言い、東北在住者限定ライブやドライブスルーライブ等、「いかにして有観客ライブを再開できるか」のリブート案を挙げていった。

 

あーりんは、この特に厳格な活動制限がされていたコロナ第一波・第二波のとき、ももクロ以上に浪江女子発組合のことを不安に考えていたと、のちに振り返っている。

 正直な話、この期間中、ももクロのことよりも浪江のことを真剣に考えてきた部分があるのね。ももクロはさ、今日もこうやって夏のコンサートに向けて、みんなが動いてくれているし、どんな形になるかわからないけど、なんにも動かないことはないと思うのよ。

 ただ、浪江女子発組合に関しては、私もどうしていいのかわからない。だってね、浪江女子発組合の良さをコロナですべて封じられてしまったわけですよ。

小島和宏ももクロの弁当と平和』P141

 

引用したインタビューが2020年春のことであるから、あーりんが悩みと検討の末に走り出したのが、『ももクロ夏のバカ騒ぎ2020 配信先からこんにちは』をやり遂げて早々、2020年8月のことだった。

このころから、徐々に浪江女子発組合は再始動へと動き出す。

 

(つづく)

2-2)偉大なる浪江町(2)/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

■産業振興(課)

いまの浪江町の産業の話を書く。

これは、浪江町役場 産業振興課の取り組みの話でもある。 

産業振興課は、浪江女子発組合および『ももクロ春の一大事』を管掌している。

産業振興課というパートナーがどういったことに取り組んでいるかは、ももクロ浪江町の「絆」を確認することにもつながるだろう。

 

浪江町では、「暗中八策」および「復興計画第一次~第三次」に至るまで一貫し、町を新たに支える「産業」の重要性を唱えてきた。

直近の「復興計画 第三次」で見れば、復興基本方針の第一投目に「Ⅰ.夢と希望のある産業と仕事づくり」を掲げている。この「夢と希望のある産業」という言葉には、「新たな産業の誘致」施策が含意されている。

「ムラ」の語源は、特定の緯度経度のエリアを指すものでなく、生産共同体のヒト集合を指す言葉だった。新産業の活性化は、浪江町にとって財政的にもコミュニティ形成としても、吉田数博がかかげる「持続可能なまちづくり」における重要性を持つ。

 

◎工業

現在、産業振興課の責任者(課長)を務める清水中さんは、晩年の馬場有から「産業振興はお前がやれよ」と託され、2018年に秘書係長から現職へ異動した(この方が、大柿さんの上司である)。

 

浪江町は現在、「棚塩」「北」「南」「藤橋」4つのエリアに産業団地を持っている(持とうとしている)が、清水中さんは直接的には、特に中核的な棚塩産業団地を管掌されている。

その上流、イノベーションコースト構想の話をしないといけない。

 

イノベーションコースト構想

イノベーションコースト構想とは、端的に言ってしまえば、「福島第一原発の周辺に、その廃炉実現に向けて、先進的工業技術を集結させる」構想である。

 

福島第一原発廃炉には、三菱重工東芝、日立GE…といった世界水準のメーカーが技術を寄せ合い、その事業予算には通算2兆円が組まれている。廃炉といえば、責任・安全性・負の遺産…といったネガティブな言葉が連想されるが、動いている経済規模だけ見れば、地域一帯の”一大産業”と言える。

だから、廃炉のために、必要な科学技術をその周辺に集める。原発事故の収束という、世界中の先進的な技術を結集させなければ立ち向かえない難題を、いっそ地域産業の基本スキームに組み込んでしまうという発想である。

 

先行モデルとしては、米国ワシントン州東南部のハンフォード地域がある。

広島・長崎の原子爆弾製造から冷戦期の核兵器研究まで、プルトニウム燃料の精製が行われ続けた「ハンフォード・サイト」を持ち、戦後のずさんな管理から、アメリカで最悪の放射能汚染を起こした一帯と言われている。

ハンフォードは何兆円もの予算を積んだ除染事業を余儀なくされるが、土地の人々は、それを通じて得られた技術をさまざまな産業振興に拡大した。すると、(あまりにもジャンプの幅が大きくて笑うが)町で高品質なぶどうが採れるようになり、それで作ったワインが全米1位になった。

技術応用は、教育分野にもおよんだ。「ハンフォード・サイト」から40km離れたところに研究者・技術者が住むエリアが作られると、地域の子どもたちの学力レベルが上がり、やがて全米住みたい街ランキング上位に入り、いまやアメリカ有数の繁栄都市になっている(全米6番目の人口増加率:2013年、全米312都市で最高の雇用上昇率:2010年)。

 

さて、浪江町は現在新たな雇用創出のため、町内に4箇所の産業団地を設けている。

www.town.namie.fukushima.jp

そのうちもっとも広い面積を持ち、かつ中核をなすのが棚塩産業団地であり、浪江町はここをイノベーションコースト構想の用地として提供している。

 

棚塩産業団地には現在、以下3つの新しい産業拠点が稼働している。

 

「福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)」

棚塩産業団地でも特に有名な、通称「水素センター」。

太陽光発電から得られた電気を使い、水素を製造する。それを搬出可能なエネルギーとして、使用・販売する。

浪江町は「ゼロカーボンシティ」「水素タウン」構想を掲げ、石油燃料に頼らずに、町の産業・生活にエネルギー供給することを目指している。実際に、町内の公用車を水素カーにしたり、「いこいの村なみえ」の大浴場を、水素で沸かす「水素の湯」にしたり等、さまざまな導入が日々進められている。

こうした浪江町を「再生可能エネルギーで作られる地域モデル」として、世界へ発信・輸出可能なパッケージにしようとしている。

 

「福島ロボットテストフィールド」


廃炉には大前提、高度なロボット技術が求められる。福島第一原発の炉心の中がどうなっているのかいまだUnKnownであるという問題にも、いずれロボット技術が答えを出すだろう。

通称「ロボテスフィールド」は、無人航空機、災害対策ロボット、自動運転ロボット等について、水・陸・空すべての操縦、研究・実証まで行える一大研究拠点となっている。

 

「福島高度集成材製造センター(FLAM)」

原木から集成材製造まで一括化して行う、新たな林業拠点だ。

浪江町は震災前、もともと西側の山間における林業地場産業としていた。それをFLAMが新技術でリブートし、福島県全体の林業をリードする存在になろうとしている。

かつ、ここFLAMで作られた木材を、隈研吾による2025年までの浪江駅前再開発事業に活用(地産地消)していく予定も持っている。

 

◎国主導であっても、町自身の意思・公益を守ること

イノベーションコースト構想」は、国が主導している。

 

これをあえて批判的目線から見れば、原発から新工業へと切り替わっただけで、産業デザインを中央に握られる「原子力ムラ」構図を維持しているのでは、という疑義がありうる。というか、その手の”反省的”疑義は福島県の一部では根強い。

 

順序を振り返るなら、廃炉のために、イノベーションコースト構想がある。廃炉の責任主体は、政府と東電である。すると、イノベーションコースト構想の責任も、政府と東電が負うという順序関係になっている。廃炉に必要とされる経済資源・先端技術の規模から、中央官庁とゼネコン的な巨大資本が動かざる得ない。というか、それ以外のあり方はない。

 

そんなところが、国主導の産業デザインに参画する理由であろうが、それでも、浪江町はポジティブな、自律的な意思を介在させている。

 

2014年4月。まだ避難指示解除前であり、イノベーションコースト構想も立ち上がって間もないころ、その参画について馬場有が答えたインタビューがある。

https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/2507.pdf

――まちづくり方針のひとつに北側の廃炉拠点としての整備が掲げられていますが、これをやはり原発頼みと受け取られないようにするためには、どうしたらよいでしょう?

 

 福島第一原発廃炉作業を安全なものにするために、また汚染された地域を元に戻すために、日本と世界の技術を集結しないといけない。危険な原発の撤去に向けて、浪江はそのための場所を提供することができる、後片付けではなく新たな産業の創出というように、ポジティブに考えていく必要があるでしょう。

 (廃炉については)国が前面に出るという話ですから、そうした技術を持つ企業や研究所を浪江に配置するような働きかけも行っていきます。

 福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想もそうです。メルトダウンした燃料を取り出す方法もまだ決まっていないのですから、これからロボット技術開発などに関連して多くの研究施設や企業の誘致が可能なはずです。浪江は福島第一原発から5~6キロと近く、そこに低線量地域もある。そうした「地の利」を生かして誘致につなげていきたいと思います。

一つは、馬場有ひいては浪江町も、福島第一原発廃炉が完遂されることに対し、地域の安全・復興のため、当然是認の構えを持っていること。

そして、「(廃炉については)国が前面に出る」と、国の責任所在をあきらかにしつつ、「後片付けではなく新たな産業の創出というように、ポジティブに考えていく」こと、「地の利」を生かした誘致を行うことを表明している。つまり、イノベーションコースト構想の参画にあたっては、浪江町自身の意思とも齟齬がないことが丹念に確認されている。

 

重要なことを振り返ると、かつて3.11によって原発誘致が白紙化し、東北電力から譲渡された小高・浪江原発の用地には、いまや「福島水素エネルギー研究フィールド」が建っている。

この土地を、原子力に代わるエネルギー事業に活用しようとし、水素センターを誘致したのは、当の馬場有だった。そこには確実に、かつて熱心に原発誘致してきた出自への反省が込められている。

 

そういえば先日、請戸川リバーラインで花見をするため「いこいの村なみえ」に泊まったとき、チェックアウトでちょうど入れ替わりになったため直接目にはできなかったが、「水素まつり」が開かれ、浪江女子発組合の播磨かなさんもSUGIZOトークをしたという。

浪江女子発組合も、グルメや観光といった浪江町のソフト面だけでなく、水素や工業等のハード的側面にもしばしば接するようになるなら、活動の軸が一層重層性を持つだろう。

 

■商業・農業

次は、商業・農業に触れる。

 

◎イオン浪江店


浪江町が避難指示解除をしたとき、先行的に商業機能を復活させていたのは、ローソン浪江町役場前店と「まち・なみ・まるしぇ」ぐらいだった。

浪江町内の本格的な商業機能のテコ入れになったのは、2019年7月にオープンしたイオン浪江店だと思う。

 

オープンの2ヶ月前、浪江町イオンリテール社は、「災害時における支援協力に関する協定」を締結した。開店にあたって、吉田数博はイオン出店の意義をこう語る。

https://www.aeon.info/company/message/magazine/pdf/vol68.pdf

「それまで町の人たちは近隣の町のスーパーに車で30分かけて行っていました。自分の町で買物ができるのは便利なだけでなく、ここが普通の町なんだと感じさせてくれる大事なこと。生活環境を整えることができほっとしています」と吉田町長は言う。

元々、イオングループは、震災発生後の数年間、岩手県の商業復興に協力(的な出店を)してきた。

それが福島県双葉郡にも拡大したのが、2016年3月の広野町にオープンしたショッピングセンター「ひろのてらす」内の「イオン広野店」である(『春の一大事2022』で、J-VILLAGEから国道沿いで最寄りのスーパーだ)。

 

町は国から企業立地補助金を取り付け、イオンはその資金援助のもと、復興ファースト型の営業を行う。本来ならイオン中枢部が堅くコントロールする商品選びを脱臼させ、町民からのリクエストのあった商品を、店長の即時判断で仕入れることができる。町の要望(=復興)を最優先にする。

https://www.aeon.info/company/message/magazine/pdf/vol68.pdf

開店準備から携わってきた二本木俊介店長は「町のどんな要請にもお応えしていこうという会社の方針もあり、お客さまから要望があった商品はすぐに揃える体制ができています」と語る。

いわば、「イオンは復興に強い」という岩手県広野町での成功モデルが、浪江にも展開されたという流れだった。イオン浪江店は、店内に広いフードコートを持ち、町民の人たちにとって”縁側”のようなコミュニティ機能を併せ持っている。

 

中には、イオンが出店することで、震災前の個人商店が戻ってきづらくなるという声もあるが、地元特化型の個人商店は多くの場合、高齢者が店主を務め、後継ぎを得られずにいる。そうした個人店が、次第に、イオンのような集約的商業店舗に役目を取って代えられるのは、本質的には少子高齢化リーマンショック不況に根ざす地方病である。

イオンが復興優先のポリシーで営業していることは、全国で見られる単純な町の景色のノーマライゼーションよりも、はるかに倫理的な結果と言ってよいだろう。

 

ここからは個別の新しい名産品に、触れていく。

 

エゴマ

浪江町役場職員だった石井絹江さんが、産業振興課時代に町おこしで推進したエゴマを、自分自身が営農者となり、浪江町の名産物にした。浪江町加倉地区に「石井農園」を設立。エゴマやカボチャの栽培から加工までをワンストップで行う。単なる作物としてでなく、高品質な食用油、ドレッシングやクッキーなど「美味しい食べ方」の提案込みで全国に出荷している。

 

トルコギキョウ

浪江町では避難指示解除後、新たな名産物にトルコギキョウが加わっている。その経緯は、広報なみえ2020/8号「浪江のこころ通信」に詳しい。

浪江町花卉(かき)研究会代表の川村博さんが、避難指示解除準備区域の再編に伴い、2013年4月に浪江町に戻って農業を再開するが、野菜から高い線量が確認されたため、震災後3年目から花作りを開始する。

農業組織の編成を町役場から進められ、2017年に浪江町花卉研究会を発足。研究開発の末、東京五輪では、メダリストに贈られるビクトリーブーケに浪江町トルコギキョウが採用されるまでなった。

 

◎タマネギ「浜の輝」

震災後、福島県双葉郡の営農再開を推進するため、タマネギを推奨作物とし、栽培のノウハウや機械的な支援を行った。浪江町にも「浪江町タマネギ生産組合」が設立。そこから生まれたオリジナル品種「浜の輝」が現在、町の名産品になっている。甘みが強く、生で食べる・料理に使う、どちらでも美味しい。道の駅なみえで「浜の輝」詰め放題イベントが開催されていたのが記憶に新しい。

 

◎ブランド化・六次産業化

いったん3つ挙げたが、いずれもブランド化、あるいは「六次産業化」を志向している。

 

それらの軸を語る前に、もともとあった福島県の農産業の特長を説明する必要がある。

 

福島県は、北海道・岩手に次いで国内3位の広大な面積を持つ。

太平洋沿いの浜通りは暖かく、冬になってもほとんど雪は降らない。しかし西へ進み、郡山・福島市のある中通りを越え、会津地方まで行くと雪深い「ザ・東北」気候になる。関東民からすれば北へ移動するに相当する気候変化が、福島県では東西移動で観測される。

 

このように福島県は「広い土地」に「すべての気候」があるため、通年型で農作物を首都圏に供給する地域となっている。

たとえば新潟・秋田の米、青森のりんご、山梨のぶどうといった「ブランド」系農産物は、その土地が偏った気候であるために、一極的に地域の命運を握る特産品をブランド化する必要がある。それとは逆の志向性を持つ「オールラウンダー福島」は、全国(特に首都圏)の町のスーパーや外食産業へ、安定した物量の「非ブランド系農産物」を供給するという特長を有していた。

 

福島県の農作物は、3.11の風評被害で大打撃を受ける。

あくまでも「風評被害」であると言うのは、人々が抱く「ケガレ」的なイメージとは無関係に、国・県や事業者自身により、安全性の科学的評価は比較的速やかに行われていたためだ。

たとえば福島県産の米であれば、2012年3月ごろには放射線量の緊急調査が完了し、数値的な安全性が公表されている。その結果、2011年度に作られた米であっても、1割引き程度の価格で70%の販売契約を取り結んでいる。このとき主な買付先となったのは、一般消費者でなく、卸売業者、量販店、外食などのBtoBだった。

企業は一般消費者に比べて、科学的な安全性が示されてさえいれば(社会への説明責任が担保されれば)、取引の間口を開きやすい。こうして、福島県の農作物は「安さ重視の業者」から販路が回復していく(だから、福島県産の野菜は忌避すると言う人のほとんどは、実際は外食等で福島県産品を日常的に口にしている。そして、そんな彼らはいまも健康に過ごしている)。

結果、ここで発生したのは「価格落ち」である。BtoBはいかに原価を抑えるかの価格勝負(の傾向がある)ため、一度敷かれた価格ラインはなかなか上がらない。

 

そこで重要になるのが、ブランド化と六次産業化である。

食味に尖った個性を出す、収穫の量よりも品質に注力し、「ブランド化」をはかる。

あるいは生産者自身が知っている「この作物の美味しい食べ方」を提案し、最初から加工をして、固有の商品名もつけたうえで市場に売り出す。これを「六次産業化」と言う(一次=生産、二次=加工、三次=販路・ブランディング。以上すべての数字を足すと、合計で六次になる)。

 

すなわち、福島県産品の価格回復(=復興)は、

  1. 「安全」をアピールし、BtoBに安価で買われる時代から、
  2. 「魅力・おいしさ」を発信し、一般消費者からも品質相当の価格で買ってもらう

この1→2シフトをすることが必要となる。これが、いまさら私が説明するのもおこがましい、福島県産品の(あるいは全国の新農業全般にも通じる)定番課題である。

 

避難指示解除後の浪江町で生まれている新たな名産品――上に書いたエゴマ、トルゴギキョウ、「浜の輝」にも、「ブランド化・六次産業化」の意思が容易に見て取れる。

そして、浪江町でそんな新しい名産品(ブランド化・六次産業化)の成果を、オンタイムで発信する強力な拠点となっているのが、我らが「道の駅なみえ」である。

 

◎道の駅なみえ

道の駅なみえが(なりわい館を除いて)オープンした直後、2020年8月2日のZoom配信『交流・情報発信拠点 福島県「道の駅なみえ」現地中継イベント』を視聴した。

菅野孝明さん(一般社団法人まちづくりなみえ事務局長)は、道の駅なみえについて、当初はそんなものよりも医療や町のインフラのほうが先決だと、町内から一部強い反対を受けていたことを語っていた。

 

だから道の駅なみえは、町民を一種説得してのオープンであったわけだが、こんにち誰の目から見ても、この商業施設の成果はめざましい。

 

自分も浪江町へ行くたび必ず足を運ぶが、つねに人で賑わい、土日祝の昼どきはフードコート満席も珍しくない。裏手のラッキー公園に足を運べば、大勢の子どもたちが遊具を奪い合い、わいわいがやがや遊んでいる。

私はインスタグラムでハッシュタグ「#浪江町」を2年ほどフォローし続けているが、道の駅なみえのオープン以降、その投稿数は確実に、飛躍的に、上がっている。道の駅なみえの”ばえる”食べ物あるいは、ラッキー公園の写真がSNS投稿数につながっている。

2022度なみえ創成小中学校の生徒数が39名であることを考えると、道の駅なみえのファミリーの賑わいは、確実に、地元だけでなく、ほかの地域から多くの家族連れが遊びに来ていることを示している。

 

具体的な数字を見てみよう。

 

道の駅なみえは、2020年8月にオープンした。

2020年度「福島県観光客入込状況」を見ると、浪江町の前年2019年観光客数は「十日市祭り 27,500人」のみだった(ゲスト出演したももクロと浪江女子発組合もこの数字に貢献している)。2020年は、十日市祭りがコロナ禍で中止を余儀なくされたが、代わりに新たに参戦した道の駅なみえで、6倍の「165,274人」を記録している。

 

町の居住人口で圧勝している「道の駅ならは」の観光客数は、同年175,115人だが、これは1年掛けての数字である。年の途中8月にオープンした道の駅なみえがそれを若干下回る程度であるから、近隣地域においても突出した成績であることが伺える。

 

さて、浪江町は復興計画の一部「浪江町総合戦略(第2期)(令和2年3月)」において、「交流・関係人口の創出」KPIに「観光客入込数」を採用している。この目標値は2024年までに年間62,000人である。

 

すると2020年時点で、道の駅なみえ単体(165,274人)で、目標値(62,000人)の倍以上達成している…ということになる。

 

県と町とで集計主体が違うため、単純比較にはなっていないかもしれない。それでも、県と町の数え方で大きく乖離があってよいことでもないし、道の駅なみえの成果度合いを伺い知るには十分だろう。

 

「オープンしたては、見てみたさに一見さんで賑わうものだ。その人たちを長期的につなぎ止められるかが重要なのだ」と思う人もいるかもしれない。

しかし、たとえば以下の記事タイトル、『復興・浪江の中心に無印あり 道の駅に出店し来場者20%増に』等の報道を見れば、むしろオープン当初より翌年以降のほうが売上・来場者数は上がっているのは確かだ。

https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00514/00005/

 

このように、道の駅なみえに多数のリピーターがついているであろう理由は、実際に足を運べば、すぐ分かる。

「まちのパン屋さん ほのか」や「SakeKuraゆい」が供するソフトクリームは、イタリアの最高品質のアイスクリームマシンを導入し、道の駅の水準を超えた口溶け・甘さだし、「フードテラスかなで」の常磐モノを使った魚介メニューは、築地のそれに劣らない。

何より、地元の名産品、意欲的な町民さんたちが開発した新商品など、浪江町の人々が「誇り」に思うものが商品に並んでいる。

グランドオープンした「なみえの技・なりわい館」にある鈴木酒造さんの酒蔵コーナーでは、(私のような下戸の)酒と縁のない人たちや子どもに対しても、酒粕を材料に用いたスイーツやディナープレートが供される。それら外食の場において、多くの食器に伝統工芸品の大堀相馬焼が使われている。

道の駅なみえの中に段差はほとんど見られず、すべての出入り口が大きな開口で作られている。バリアフリーの徹底は、老若男女を問わず歓迎する。

道の駅なみえは、単純に美味しくて便利であり、それにプラスし、町民に愛されるための献身的な仕掛けに満ち溢れている。

 

二つ前の『ももクロ春の一大事』に関する文章で、平田オリザが言う「文化の自己決定能力」について書いた。それは、「自分たちの愛するものは何か、自分たちの誇りに思う文化や自然は何か、そして、そこにどんな付加価値をつければ、よそからも人が来てくれるかを自分たちで判断する能力」のことである。

道の駅なみえも、浪江町のすぐれた「文化の自己決定能力」を体現する施設である。

 

■うけどん(企画財政課)

産業振興課以外に、ももクロや浪江女子発組合が接点を持つ、もう一つの町役場の部署を挙げるなら、浪江町のイメージアップ公式キャラクター「うけどん」ちゃんを管掌する企画財政課だろう。

かつて浪江町役場が本庁機能を町内に戻したとき、組織改編を行い現在の課名になったが、それ以前の名称は「復興推進課」である。

 

うけどん誕生時の浪江町役場の告知に、原初の姿を見ることができる。

https://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/2/8791.html

 浪江町民の皆さんに配布するタブレット端末のキャラクターを10月に募集したところ、21名の方々から合計43点もの作品をお寄せいただきました。応募いただいた皆さん、誠にありがとうございました。

 応募作品の中から、厳正なる審査の結果、浪江町田尻(現在郡山市)の田河恵さんの作品「うけどん」が最優秀賞に決定しましたのでお知らせします。

※現在私たちが見るうけどんちゃんの頭にはイクラが乗っているが、このデザイン原案を見ると、当初は縮れた毛でありパーマ頭だったように見える。しかし、いま原案者の方の意図に触れる術はない…。

 

「うけどん」ちゃんは、もともとは、2013年に復興推進課長になった(元副町長)宮口勝美が手掛けた「浪江町絆再生タブレット事業」のために、町民から募集して考案されたキャラクターだった。

 

「絆」という言葉は、浪江町において特別な意味を持つ。

馬場有が書いた「暗中八策」の時点から明記されたキータームであると同時に、後の「復興計画第一~第三次」でも、基本方針の一つ『Ⅴ.絆の維持と持続可能なまちづくり』を担っている。

「絆」とは、一つ前の記事で書いたとおり、避難によって離れ離れになった町民に対し、浪江町属地主義を超えて人々のつながりを維持しようとする支援であると同時に、個人ごとの決断・属性上の違いにより本来起こりうる「分断」に対する抵抗である。

 

浪江町は、避難先の町民たちにタブレット端末を配布し、オリジナルの情報アプリ『なみえ新聞』や、YouTube『なみえチャンネル』で、町の情報を日々発信している。そのタブレット上で、「みんなをつなげる」ための紐帯となるキャラクターが「うけどん」ちゃんだった。

つまり、「うけどん」ちゃんのコンセプトかつ要件は、「絆の再生」である。

 

※余談。この「浪江町絆再生タブレット事業」の予算負担を巡って国と町の調整が難航していたとき、一般社団法人コード・フォー・ジャパンとして参画した中西智美さんの尽力により、施策リリースまで無事つながったと宮口勝美は言う(*1)。この中西智美さんは、「浪江町絆再生タブレット事業」と同年2014年に、平田オリザからの指名により、ふたば未来学園の立ち上げにも参画している(*2)。うけどんと平田オリザ(幕が上がる)が共通の人物でつながるとは、関係者でも何でもない分際で言うが、世界は狭い。似た問題意識を持った人たちは、どこかで間接的につながり合う。

*1:https://amp.amebaownd.com/posts/17934132

*2:https://www.hatchlab075.com/pages/4788502/about

 

浪江町のこれからのこと

『春の一大事2022 楢葉・広野・浪江 三町合同大会』を終えたあとも続く、浪江町の今後のことを触れるなら、たとえば、2022年6月、浪江駅西側に介護支援や町民の交流施設、児童の屋内外遊び場が集まった「ふれあいセンターなみえ」が開所する。

駅の東側に比べて静かな西側が、今年からは徐々に商業的賑わいを取り戻していくと、2022年「あるけあるけ大会」で、吉田数博町長から話されていたことを憶えている。

 

また、浪江駅前の再開発事業は2025年の完了予定だが、着手は今年度から始まるというから、相変わらず、風景の変化を折々感じさせる町であり続けると思う。

 

2017年以降、避難指示解除がされている浪江町のエリアは、一貫して請戸・棚塩(海沿い)~幾世橋・権現堂(市街地)~苅宿(里山)までとなり、町面積の8割を占める山間の以西エリアは帰還困難区域であり続けていた。

 

これが来年2023年に、まだまだ面積的には限られているが、「復興拠点」エリアに指定される室原・末森(苅宿の隣あたり)および、津島地区の一部に除染が行われ、避難指示解除エリアが拡大される。

※環境省HP:特定復興再生拠点 [浪江町]

 

先日、浪江町役場の津島支所は11年ぶりに業務を再開した。

 
 
 
 
 
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ここを支援拠点とし、準備宿泊する住民の対応にあたるほか、隣には町営住宅10世帯分を整備する予定だという。買い物のための移動販売車や、デマンドタクシー導入など、津島で生活を再開しようという町民のケアを具体化させつつある。

山林は放射性物質を「とらえて離さない」性質を持っているため、浪江町の全面除染の実現はまだまだ先だろうが、それでも昨年9月ようやく国が、復興拠点外(帰還困難区域)の除染を2024年度めどに開始するという方針をあきらかにした。 

 

いまなお、浪江町でアクチュアルであり続ける政治問題は多い。

上に書いた全面除染(が果たされるまで馬場有のころから待機されている帰町宣言)もそうだし、トリチウム処理水の海洋放出計画も来年2023年に控えている。

これらの問題について、ここまでの各トピックと同じ(あるいはそれ以上の)粒度で政治的意見を述べることはできるが、いまは控える。「春の一大事2022の賑やかし」という初心から、さすがにそれは逸脱が過ぎる。

 

それでも、浪江町が時代ごと・フェーズごとの政治問題と直面するとき、他地域の人間たちも「知っていること」は――そしてそれを「福島の問題」でなく「日本の問題」として理解する必要性は絶対にあるだろう。

 

ももクロ『ニッポン万歳!』にあるとおり、浪江町にも「どうか諦めず 希望をその胸に」と切に思う。

 

(つづく)

 

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次は、あーりんおよび浪江女子発組合について書くつもりだけど、おそらく『春の一大事2022』および、その翌日の居残りMondayライブまで見終えたあとに書く気がする(理由は単純に、もうイベント当日までそんなに時間がないから)。

 

あと、ここまで、さまざまな資料や、浪江町が発した広報物など、先人の知見を受け取りながら拙い文章を書いてきたが、自分調べ・自分着想のふりをした”パクリ”にならないよう、現時点で参考文献を書いておく。

 

【参考文献】

浪江町浪江町 震災記録誌 2011.3.11▶2016.3.31』

浪江町浪江町 震災・復興記録誌 2011.3.11▶2021.3.31』

浪江町『浪江のこころ通信』(H23.7~H25.12)(H26.1~H29.3)

浪江町 その他広報物多数

今井照『自治体再建――原発避難と「移動する村」』

今井照『原発事故 自治体からの証言』

今井照『地方自治体講義』

開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』

開沼博『はじめての福島学

開沼博福島第一原発廃炉図鑑』

開沼博『日本の盲点』

細野豪志・著/開沼博・編『東電福島原発事故 自己調査報告 深層証言&福島復興提言:2011+10』

小松理虔『新復興論』

平田オリザ『新しい広場をつくる』

平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』

平田オリザ『幕が上がる』

三浦英之『白い土地 ルポ福島「帰還困難区域」とその周辺』

三浦英之『帰れない村 福島県浪江町DASH村」の10年』

除本理史/渡辺淑彦(編著)『原発災害はなぜ不均等な復興をもたらすのか』

丹波史紀/清水晶紀(編著)『ふくしま原子力災害からの複線型復興』

山川充夫/瀬戸真之(編著)『福島復興学―被災地再生と被災者生活再建に向けて』

恩田勝亘『原発に子孫の命は売れない―原発ができなかったフクシマ浪江町

西村慎太郎『「大字誌浪江町権現堂」のススメ』

堀有伸『荒野の精神医学──福島原発事故と日本的ナルシシズム

斎藤環原発依存の精神構造―日本人はなぜ原子力が「好き」なのか』

安在邦夫 (編著)『それでも花は咲く (福島(浪江町)と熊本(合志市)をつなぐ心)』

みうらひろこ『詩集:渚の午後 ふくしま浜通りから』

みうらひろこ『詩集:ふらここの涙 九年目のふくしま浜通り

NHK製作『証言記録 東日本大震災 第12回 福島県浪江町』(DVDソフト)

2-1)偉大なる浪江町(1)/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

浪江町の概要

浪江町は、福島県浜通り(太平洋沿い)にある町――というのは、あまりにもいまさらすぎるとして、まずは、近世~近代の成り立ちを簡単になめる。

 

江戸時代、現在の浪江町中心市街地に位置する権現堂地区は「高野宿」と呼ばれ、宿場町を形成していた。安政 6 年(1859年)大火災が発生し、高野宿はほぼ全焼する。

この大火をきっかけに街並みは抜本的に作り変えられ、宿場町でなくなったことで、新たに「浪江」という名称が定着する。これが、いわゆる名称としての「浪江」の起源にあたる。そこから第二次世界大戦後まで、「浪江」とは、いまの権現堂地区あたりを指す。

 

これが戦後の町村合併促進法により、請戸村、幾世橋村、大堀村、苅野村、津島村らと合併し、いまの町域に至った。(このころ、生産共同体の自然村と合致しない町村併合が行われたため、昭和33年に町域見直しがかかり、南側の大字中野、中浜、両竹の一部は、双葉町編入されている)

 

結果、複数の町村が併合した経緯もあり、東西の中間がくびれた特徴的な町域を形成することとなった。


さらに言うと、大字(併合前の町村、行政区)単位に歴史的・文化的特長を持つため、「浪江町」というくくりに加えて、行政区に帰属意識を持つ町民の方々も多い。

その広さから、山(津島側)と平地(苅宿以東)と海(棚塩~請戸)があり、多様な風土を持つ。特に平地は典型的な太平洋気候で、冬もほとんど雪は降らず、暖かい。この過ごしやすい気候――山から海へ吹く風、青い空、色鮮やかな花々に、浪江町への郷愁の思いを抱く人は多い。

南側に原発立地町、北側に仙台や南相馬市があり、その2つの玄関口を務めるため、双葉郡の中でもベッドタウン的な特長を持つ。人口は周辺地域の中でも多く、東日本大震災時点21,434人いた。それでも、震災前から日本全国の地方に見られた傾向どおり、人口はゆるやかな流出傾向にあった。ちょうど、商工会青年部がご当地グルメなみえ焼きそば」の全国PRに取り組むなど、地方活性化の波に乗り始めていたとき、東日本大震災が発生する。

 

■震災以後

3.11当時のディテールは、これを知らなければのちのちの話の理解の妨げになるようなことに焦点を絞って書く。

 

◎震災直後

2011年3月11日、東日本大震災が発生。浪江町震度6強に見舞われるが、特に深刻な被害は、海沿いの請戸、棚塩、両竹エリアに押し寄せた津波だった。

3月11日の夜、夜間消防隊が上記の海沿いエリアに向かい、津波被災者を確認する。深夜の救出作業は危険を伴うため、翌朝の救出作業が計画され、その日の晩は諏訪神社に取り残された町民の救出等が行われた。

 

翌3月12日、福島第一原発津波により交流電源を喪失。イチエフの建屋は水素爆発を起こし、放射性物質が外部へ拡散する。現町長の吉田数博は、こう振り返る。

ここ(浪江町)では通常、冬から春にかけて、風はすべて山から海へと吹き抜けるのです。でもなぜか、あの日だけは風が海から山へ、津島の方へと駆け上がっていった。

(三浦英之『帰れない村―福島県浪江町DASH村」の10年』P210)

すべては結果と事実でしかないが、もし、この日の風向きがいつもどおり山から海へ吹き、放射性物質の雲(プルーム)が海へ降りて広大な太平洋に希釈されていたら――そう考えると、自然の皮相を感じてならない。

 

この間、町役場には政府や東電から連絡が来ず、町役場はテレビの情報をもとに町民へ避難指示を出した。政府が言う「福島第一原発からの半径10km」を超え、北西20km先の津島地区への避難を決行する(市民・町民への避難指示は、地方自治体が直接の権限を持つ)。

 

通常なら市街地から津島まで自動車片道30分の距離を、渋滞で3時間かけて人々は移動した。人口1,800人の津島に、最低でも8,000人が集まり、山間のその地区にまるで「銀座のように」人々が溢れたという。

この津島避難について、浪江町は東電・政府に深い遺恨を持つ。あらかじめ有事連絡協定が結ばれていたが、町役場に事故発生の連絡はなかった。また、政府は当初避難範囲を原発から半径10kmと発出していたが、実際の放射性物質の拡散は、同心円状ではなく、風向きによる志向性を持つ。3月12日の風向きから、原発の北である浪江町市街地よりも、北西の津島地区のほうが放射線量が高くなることは、東電の緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム『SPEEDI(スピーディ)』が示していた。その出力結果が浪江町へ伝達されなかった。結果、

  1. 津島へ避難した人々をかえって高線量下に移動させた
  2. 津波被害者の救助機会を逸した

これらの悔恨の念を、馬場有町長をはじめとした浪江町の人々にもたらした。

(1については、浪江町はその後、独自に町民の健康観察をスキーム化しているが、津島避難による急性・中長期的な健康被害は確認されていない)

 

原発事故による強制避難指示を受け、津波被害者たちの救出活動は、撤退を余儀なくされた。津波被災地への立ち入りが行われたのは、被災から34日後である。

被災直後から浪江町役場は、救出活動を検討するため、現地の線量を東電に問い合わせていたが、一向に回答を得られなかった。そうした中、本来立ち入りが禁じられている浪江町に入ったあるカメラマンが、海岸沿いエリアの瓦礫から遺体の写真を撮り、役場に届け出た。そして「県警にも通報する」と。救出活動の対象である人が現在「遺体」であること、その場所まであきらかであれば、町の消防隊ではなく、県警が動かざるをえなくなる。この出来事がきっかけで、請戸を中心とした浪江町の”遺体捜索”が決定した。実行に伴い、原発からまっすぐ北の請戸地区の線量はそれほど高くないことも判明した。これらの動きがなければ、何ヶ月というレベルで捜索は一層遅れていただろうと、当時の請戸南行政区長は断言する(NHK製作『証言記録 東日本大震災 第12回 福島県浪江町』)。

 

◎暗中八策

2011年5月10日、町長の馬場有は、被災地の窮状を訴えるため、町の消防車を使い東京へと移動し、首相官邸を訪問した。奇しくもこの訪問をきっかけとし、浪江町の「復興」モデルの祖型が生まれることになる。

 馬場の証言によると、総理大臣である菅直人への陳情は極めて「残念」なものだった。執務室の隣の長いテーブルのある応接室に通され、菅に面会こそできたものの、会話はまったくと言っていいほど噛み合わなかった。菅はよほど疲れていたのだろう。馬場が何を尋ねても「はあ、はあ」と返事をするだけで、目が泳いでしまっている。馬場は「自分が話したことは何一つ伝わっていないのだろうな」と失意を抱えて官邸を後にした。

 ところが、時間を浪費しただけのように思えた東京出張がその後、馬場の意識を根底から変えた。馬場は私の口述筆記に当時の心境を「中央の現実を知って逆に力が湧いてきたのです」と証言している。

(三浦英之『白い土地』P137)

 

ときの首相菅直人は、たとえば東電の社長や、あるいは馬場有自身がそうであるように、日本が近代以降例を持たない未曾有の災害に対し、そのときたまたま首長であっただけで、解決のための答えを持っているわけではなかった。

菅直人の力ない様子に、町自身が自立的に動かなければいけない――町独自に動けばよいのだ、という割り切りを馬場有は持った。

 

馬場有は、帰った先の二本松市内の保養施設の便箋に、これから浪江町が復興のために行うべき課題を、8つの大項目に手書きし、総務課にコピーさせ、役場職員全員へ配布した。

その文書は、かつて坂本龍馬が日本近代化の骨子をしるした「船中八策」にあやかり、「暗中八策」と題されていた。

 直後、それまで重苦しい雰囲気に包まれていた浪江町の町役場に微かな変化の兆しが現れ始めた。文書を受け取った町職員たちが片足をグッと一歩前に踏み出したように感じられたのだ。不思議なものだな、と馬場はその変化を見て喜んだ。公務員は普段自主性がないと批判されがちだが、いちど方針が示されるとおのおのが自分の役割を正確に理解し、計画を着実に前に推し進めようとする。それはこの国の行政組織が持つ優秀さであり、何度戦災や震災を経験してもそのたびに立ち上がってきた粘り強さの証明でもあるように思えた。

 国に頼れないのであれば、自分たちの手でやるしかない。

三浦英之『白い土地』P138

この「暗中八策」以後、浪江町は、本来なら国の責任下に求めるべき施策を、それを待たずして独自に次々と実施するようになる。

 

放射線の測定:

町役場機能を二本松市に移した直後の2011年6月には、早々に町内の放射線量の測定に着手。町内のどこが線量が高く、どこなら安全に活動できるか。その地図を町で自主的に作成した。

・町民の健康管理:

馬場有が専門家から、内部被ばくを把握するにはホールボディカウンターが必要だと指摘されると、その場で購入を即決。(ちなみに、このホールボディカウンターを擁する車両は、浪江女子発組合の定期大会のとき、いつもサンシャインなみえのすぐそばにあったし、十日市祭りでも会場の隅で、町内外問わず訪れた人々の測定を無料で受け付けていた)

 

「暗中八策」の原文は、以下である。

浪江町『震災・復興記録誌――未来へつなぐ浪江の記憶』P45)

これを文字起こしするとこうである。(不可読部は”*”)

浪江町復興 暗中八策(パートⅠ)

町が現在置かれている状況は、原発事故が収束しない緊急対応期・避難期であり、明確に復興・復旧ビジョンを示すことが困難な情勢であるが、将来の町の再生・創建のための礎を構築するため、暗やみの中での施策を次の通り計画する。

①生活支援の充実をはかる

・災害への補償・賠償の確保…「原子力補償相談窓口の創設」

・弁護士等の強化

②経済生産活動の支援強化

農林水産業、商工業の従来の仕事を何らかの形で継続できるよう支援を行い、事業継続をはかる。

・町独自の就労の場を創建する。

③新たなコミュニティの創造

・県内外に避難した町民の方々の「絆」を再生するため、広*・公*のネットワークの強化。

 避難所への情報伝達強化。避難所の自治組織の強化。

④教育・子育て支援の充実をはかる

・どこでも教育が受けられる浪江町立小中学校を避難先に設*する(分校として)

・健康を第一義として「放射能」の線量に得意とする教育理*にする。

・学力格差が生じないよう町として特設の支援を行う。

・心のケアを徹底する。

⑤医療・高齢者福祉の支援

・被災地からの震災において、全国の自治体へ国からの支援強化をはかる。

・デイサービスが受けられる施設**をはかる。

⑥環境モニタリングの実施

・町独自での大気・土壌・海洋水質等を調査し、今後の住宅・商業の再生のため基本づくりをする。

⑦社会的インフラの復旧のための調査実施

・道路、上水道、公共施設等の損壊状況の調査。

・農業の基幹施設等の調査。

・量業の基幹施設等の調査。

⑧行財政運営の指針

・歳入の確保強化(*******、*********)

・不要不急の出費を、ムラ・ムダを削減。

・最小限の行政サービスに特化させる。

確かにこの文書に、いまに至る浪江町の復興設計の骨子がある。

暗中八策が町役場内の内規だとすれば、より綿密に練り上げられた正式な計画書が、『復興計画 第一次~第三次』であり、そこに紐づく『復興まちづくり計画』や『総合戦略』がある。

 

画像抜粋元:https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/8196.pdf

 

いま「暗中八策」と「復興計画」を詳細に見比べて検証するのは、文字数の関係で避けるが、「絆の再生」(うけどんのテーマ)や、町独自の新たな産業創出(イノベーションコースト構想や道の駅なみえ等)をはかること…等、「暗中八策」に書かれたことが、こんにち浪江町内のいたるところで具現化されているのが見て取れる。

 

◎避難指示解除

震災から6年後の2017年3月31日、浪江町の平地・市街地を中心とした東側において、避難指示解除が行われた。面積的には町の2割だが、かつて居住人口の8割が集中したエリアでもある。

国によって2013年4月に再編された「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3区分に従い、浪江町の「避難指示解除準備区域」に当てはまる市街地の除染が完了した。

この避難指示解除は、当時「賠償打ち切りの布石になる」「東京五輪での対外アピールのために拙速に避難指示解除を促している」といった警戒心を持つ左派言説もあったが、浪江町は2012年策定の「復興計画 第一次」の段階で、2017年3月に希望者の帰還を迎えることをロードマップに敷いていた。そのとおり政府に要請し、除染が行われたまでであり、保守政権からの突き上げというよりも、町自身の意思と見るのが適切だろう。

 

避難指示解除前の時点で、浪江町内で再開している商店は、町役場前の仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」やローソンぐらいのもので、医療、教育、交通など、町の生活インフラは震災以前とはほどとおい状況と言わざるをえなかった。

馬場有は、それでもこれ以上、避難町民たちを待たせることは、彼らの中の帰りたい気持ちが折れてしまうと考え、避難指示解除の受け入れを決断する。

 

現在から見れば、帰還の「気持ちが折れる」という観点は決して誤っていない。避難者の帰還率は、避難期間が長引くほど芳しくなくなるという相関関係が、いまやよく知られている。震災の翌2012年に避難指示解除した広野町は、帰還率89%。対して、2017年に避難指示解除した浪江町の場合、帰還率は9.6%(2021年度)である。

 

馬場有は避難指示解除を決断した時期の広報コンテンツ『浪江のこころ通信』で、決断の理由を大きく分けて2つ述べている。

  • 除染と復旧作業により、最低限の生活環境整備ができたこと
  • すぐにでも戻りたい町民(浪江の帰還第一陣となるコアな町民)の気持ちを大事にしたいこと、彼らの心が折れてしまわないようにすること

避難指示解除をするもしないも、選択肢ごとに固有の課題を伴う、答えのない問題に対する政治的な決断だった。

カール・シュミットは、「主権者」(政治的存在の最上級のあり方)とは、例外状態において判断をする者だと言うが、馬場有が特に困難な政治的判断の責任を負ったのは、この2017年の避難指示解除だったのではないか。

解除後の帰還人数は、あらかじめ帰還意向アンケート調査から「5,000人」が見積もられていた。それを解除後5年間で目指した。しかし、ちょうど5年を迎える2022年現在の居住人口が約1,800人であることを考えれば、当然、避難指示解除直後の帰還率も芳しくはなかった。帰還した町民からの「聞いていた話と違う」という批判は、日々町役場に寄せられていたという。

 

馬場有 逝去

2018年6月、馬場有は69歳の若さで逝去する。

死因は、2014年に切除するも、転移した胃がんによるものだった(生前、対外的には腸閉塞と言い、胃がんであることを明かされずにいた)。

馬場有は、がん治療よりも復興の町政業務を優先し、「命がけ」で激務に打ち込んだ。また、避難指示解除の決断の前後に押し寄せたコンフリクトによる心労も大きかっただろうと、奥様や副町長 宮口勝美はじめ、関係者は口を揃える。

 

馬場有

被災後の浪江町の首長だった馬場有その人について素描する。

現町長の吉田数博に引き継がれた町政の基本方針および、「いまの浪江町」の理解にもなるからだ。

 

◎政治家としての来歴

生まれ育った浪江町青年会議所に参加したのをきっかけに、地方政治の道を歩みだす。1989年以降、浪江町の町議・議長や福島県議を経て、2007年からは3期にわたって浪江町長を務めた。自民党から推薦を受けた保守本流の議員である。

 

◎二つの後悔

馬場有は震災・原発事故後、深い罪責の念に駆られていたという(三浦英之『白い土地』)。

一つは、上にも書いた、津波被災者の救助断念・津島地区への避難指示。

一つは、震災以前まで、のちに白紙化される小高・浪江原発の誘致をしていたこと。馬場有もまた、震災以前の双葉郡どの地方政治家にも共通していた、原子力ムラの力学に参加する一員だった。

 

原発誘致は、立地町の財政・産業を一変させるほど多くの経済恩恵をもたらす。

震災直前に書かれた重要書、開沼博原子力ムラはなぜ生まれたのか』(のちに平田オリザの弟子筋にあたる谷賢一の代表作『福島三部作』の底本にもなった)は、原発誘致のメリットを以下のとおり挙げている。

  1. 誘致時点の金品のバラマキ。
  2. 花道開始後の雇用(地域の20〜30%の労働者が原発雇用になる)
  3. 電源三法交付金
  4. 固定資産税が町へ払われる
  5. 動労働者の民宿や飲食業需要

古くから浪江町に住む町議や町民たちも、福島第一・第二原発の立地町になれなかったものの、その設置以降は親が出稼ぎに行かずともよくなり、通年浪江町で家族と過ごせるようになった等の恩恵を語る。

 

小高原発の誘致は、よく知られるとおり、浪江町の活動家たちによって用地買収が阻止された。それは全国の反原発運動の中でも、伝説・模範とされていた。

そうした反対運動のディテールは、(Amazonで「浪江町」を検索すれば上位に出てくる)恩田勝亘『原発に子孫の命は売れない―原発ができなかったフクシマ浪江町』に描かれているが、しかし実際、震災直前の2011年時点、小高原発の反対運動リーダー舛倉隆は、死の直前、相場の倍額を提示されて土地売却の約束をしていたと言う。そこから切り崩しに98%の用地獲得がすでに決まっており、反対運動はほぼ頓挫していた。そのタイミングでの3.11だった。(三浦英之 同書)

 

3.11の原発事故によって、小高原発の計画は2013年3月、正式に白紙化される。やがて使い道のなくなった小高用地を、東北電力浪江町に無償譲渡した。

 

よく知られる通り、東京電力は福島第一・第二原発津波に対する脆弱性をあらかじめ認識しながら、それを認めていなかった(よって原発事故は人災である)。

福島第一原発に準じる安全基準のもと、東電よりも資本力・技術力で劣後に回る東北電力が小高原発を建てていたなら、3.11の浪江町の被害のありようは大きく変わっていたかもしれない。すべては結果論だが、馬場有も、小高原発を後押しする一員だった。それは復興に粉骨砕身しながら、矛盾する出自として強いアンビバレンツを本人にもたらした。

 

◎政府・東電への賠償追及

馬場有は、元来温厚な人物であると関係者が口を揃えるが、政府・東電への責任追及は、町民の代弁者として強い批判的態度をもって臨んだ。

中央政権に対する態度の一例までに、馬場有はほぼ「霞が関詣で」を行わなかったと、当時の副町長は証言している。

 ただ馬場町長はあまり行かなかった。たぶん双葉郡の町村長の中では霞が関にいちばん行っていないかもしれない。でも、本来はそうあるべきなのかなと思ったりもする。今回の震災で勘違いしている首長はずいぶんいる。国に行けば俺のいう事を聞いてくれるという首長が多くなっている。「俺、大臣を知っているから」みたいに霞が関詣でをしているが、初めから結論は決まってるのになと半分思ってしまう。

 そんなこともあり、ずっと後になって、避難指示解除のときには町に「復興推進会議」をつくって、国も県も役場に来てもらい、問題をまとめようという会議にした。あれはすごい。いままで我々が霞が関に行って省庁回りしてきたのに対して、国の担当者に来てもらえるので、そのおかげでどんなに楽してるかわからない。今こういうことに困っているんだということを国の担当者に直接いえる会議になっている。

(今井照/自治総研編『原発事故 自治体からの証言』P204,205)

このように、霞ヶ関コネクションのステータス化を――ひいては「中央>地方」構図の強化を回避した。そして、県や国の担当者を町役場に来させ、職員の移動コストを回避しながら、中央との対等な関係を指向した。

このように、自民党の推薦を受けた保守政治家でありながら、自らの地域社会のために中央政権に批判的に接したこと。そして、闘争の末に60代のうちにがんに倒れたことは、前沖縄県知事翁長雄志とも似ている。

 

◎若手職員ファースト

生前の浪江町の広報物をはじめ、いまも多く残されている馬場有の言葉を読めば、町民への慈愛と思慮に満ちている。町役場の内部に対しては、町の未来を担う若手職員の意向を特に大事にしていたと宮口勝美が証言している。

 馬場町長は、自分で決めてこれやれというよりは、みんなの意見を聞きながらいい方向に行こうというスタンスだ。自分ではこうしたいなと思いながらも、やっぱり町民やら国や県やらに押されてやらざるを得なくなってきているのかなというところが正直ある。

 また若い職員と話をしたくてしょうがないので、よく、若い職員を集めては懇談会をやっていた。係長や課長といった役職についた職員は同席させない。我々からするといろいろ我々の悪口をいわれそうで警戒するのだが、そういう意図ではなくて、「これからの町、どうしたいんだ?」「どういうことを自分だったらやりたいんだ?」ということを若い職員から引き出そうという意欲がすごかった。震災後も機会あるごとに職員を集めてやっていた。「会議室で集まってもみんなしゃべられないべ」といって、酒飲みの会に町長が来て若手としゃべったりもしていた。

(同書 P220)

 

◎子ども主義

避難指示解除の直後、帰還町民は、特にふるさとへと郷土愛を持つ高齢者が多かったため、一挙的な少子高齢化が発生した。(いまも浪江町の居住人口平均年齢は55歳)。

 

もともと日本全国共通の傾向として、地方はどこも少子高齢化が進行している。地方には、郷土愛を持ち地元コミュニティと深くつながる年配者がとどまり、未来を志向する若者は都市部へ進出(流出)する。3.11はそのように元々あった日本の地方病を、被災地に一挙に進行させる力学を持っていた。

馬場有は、そうした避難指示解除後の町から、数が少なけれど、子どもの声が聞こえてくることを何より喜んだ。避難指示解除後はまっさきに、なみえ創生小中学校と浪江町にじいろ保育園の創設に着手し、2018年4月1日に開校・開園。浪江町を子どものための町にすることを目指した。

 当日の午前中、馬場は七年ぶりに町内で授業を再開させる「なみえ創成小・中学校」の開校式に出席した。久しぶりの公務にあたり、いつ病状が急変しても対処できるよう、町の保健職員が見守る中での出席だった。

 馬場は壇上で次のような祝辞を述べた。

 「我が故郷・浪江町にもついに子どもたちの笑い声が戻ってきました。嬉しくて仕方がありません。今日は記念すべき浪江町の復興の、大きな、大きな第一歩です」

 入学した児童生徒の数は小中学校を合わせてわずか一〇人。それでも馬場はよほど嬉しかったのだろう、式典後、報道陣に囲まれると「今はまだ児童や生徒の数にそれほど意味はありません。子どもたちがこの町に戻ってきてくれた。その事実こそが大きいのです」と目を細めて宣言していた。

三浦英之『白い土地』P97,98

 

ADR 集団申し立て

馬場有は、復興施策の方針を巡っては、町民の声に耳を傾けることを重んじた。馬場有が推進した「町長の声を吸い上げる」の最たるものとして、ADR裁判外紛争解決手続)の集団申し立てがある。

東電は原発被災者への精神的賠償に月10万円を提示した。民間の自動車事故の自賠責保険の相場が、ふるさとを奪われた人々へ適用された。2013年5月、これに不服を覚える町民たち17,000人に代わり、浪江町代理人となり、東電相手に賠償増額を求める裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てた。

ほかの町村にも声をかけたが、他自治体はむしろ東電との関係悪化の危惧から、そんなことはやめろと止めてきたという。結果的にこうした動きを取ったのは浪江町だけだった(今井照/自治総研編『原発事故 自治体からの証言』P229)。

 

◎町のこし

避難指示解除を決断した2017年ごろから、馬場有は「町のこし」という言葉を頻繁に掲げるようになる。「町おこし」ではない。それよりもっと基礎中の基礎、このままでは「ふるさと」が消えてしまうということの焦りが率直に込められた言葉「町のこし」を、喫緊の使命として繰り返し掲げた。

 

◎「どこにいても浪江町民」

浪江町は「復興計画 第一次」のときから、復興の基本方針の一つに、「すべての町民の暮らしを再建する ~どこに住んでいても浪江町民~」を掲げている。この基本方針の倫理は特筆に値する。

 

馬場有は、2017年に避難指示解除を行うにあたり、これは必ずしも「帰ってきてください」というメッセージとイコールに結びつくものではないことを強調した。

https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/8097.pdf

 町は、一部避難指示が解除になったからといって、「すぐに帰ってきてください」ということを言うつもりはありません。帰れる方、帰りたい方が帰ってきていただけるように、そのための生活基盤をきちんと整備します。いつ帰ってきていただいても大丈夫な状態にします、という考えの下に復興に取り組んでいます。

 いつかは町に戻りたいと考えていらっしゃる方でも、いろいろな事情で、すぐには動けない方も多いかと思います・お子さんが避難先の学校に通っていたり。避難先にかかりつけの医療機関があったり。仕事の関係もあるでしょう。浪江町は町民の皆様が暮らしていた思い出の地であり。先祖のお墓がある方もいらっしゃると思います。避難先で生活を続ける中で。たまに浪江の空気を吸いに来る、浪江の復興の姿を見に来るといったように、行き来しながら、いろんな状況を踏まえて戻れると判断したときに、浪江に戻ってきてくださればいいと考えています。そのために町は、いつでも浪江に戻ってくることができる環境を準備しています。

避難生活を行っている人たちには、定期的に復興庁からの帰還意向アンケートが実施される。アンケート結果の推移を観察するという性格上、震災以降継続的に行われているが、同時に多くの批判も寄せられている。

選択結果が「戻りたい」「戻らない」でも、個別のボイス分析をすれば、多くの人が揺れ動く事情の中で"強いて言えばこれ"という非確信的選択をしていること、今後の状況次第で解答が変わり得ることが見えてくる。

 

「帰還する/帰還しない」どちらかを答えるよう要求する二項対立は、その決断をできない人たちに劣後感を強いる。線量の推移、インフラの利便性、家族の理解合意を得られるか。それらが今後どうなるか。決断にかかわる変数がいまだ社会から示されないために、揺らいでいる中間層が一定いる。

 

現行の「避難」に関わる法制度は、洪水や地震など自然災害を前提としているため、最長1年スパンほどの避難生活しか想定されていない。原発災害特有の何年何十年というスパン、「一年後がどういう状況になっているかもわからない」という状況にフィットした避難スキームは、行政的に未確立である。

そうしたとき、避難者の意思の中でも一定を占める「判断保留」という選択肢を守り、その状態でも問題なく生活が送れるようにすることが重要である(たとえば、避難先でも行政手続きを簡便化するための二重住民票等)。

 

大事なのは「帰還、移住、判断保留。あなたなりに決めたそこにいてもいい」という視座である。話を戻せば、馬場有をはじめとした浪江町が掲げた「どこにいても浪江町民」は、まさにこうした視座だった。

 

浪江町は帰町宣言(帰ってきてくださいという避難町民へのメッセージ)を、除染やインフラ改善で全域避難指示解除ができるまで、発さないと指針づけている。

 

「どこにいても浪江町民」と言うのは、被災者の中に起こりうる「分断」への抵抗でもある。

 

「暗中八策」には「心のケアを徹底する」や「絆の再生」という方針があったが、それと紐づく施策を一つ挙げるなら、町報誌「広報なみえ」の中のコンテンツ『浪江のこころ通信』がある。

外部委託の編集に、浪江町民へのインタビューをしてもらい、たとえネガティブな――町政に対して批判的な内容であっても無検閲で載せる。町民の"生の声"を可視化する施策である。

その監修およびリーダーを務める櫻井常矢(高崎経済大学地域政策学部地域づくり学科・教授)は、「帰還する/しない」をめぐって、本来ありうる町民同士の軋轢をこう語る。

https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/143668.pdf

 もう一つ、県外避難者の立場から言うと、宮城県岩手県と違う特性として、あの土地に帰ってこない町民が多いという現実です。

 浪江町では、「どこに住んでいても浪江町民」という復興計画の理念がある。九州に住んでいる人も、全国どこにいても浪江町民であると。これは私たちの県外避難者の支援事業の常に根幹にあります。

(…)

 しかしながら、一方において、(浪江町に)戻って復興に直接携わっている人たちと、戻らない人たちとの間には様々な軋轢がある。浪江町に戻らない方々に対して「町に戻らない者は町民じゃない」などという厳しい意見もお聞きしたことがあります。逆に、県外にいる方には「仲間を裏切った罪悪感を覚える」という声もある。何の罪も無い福島の被災者たちが、いま置かれている現実を私たちは直視すべきだと思います。

 

馬場有は2015年3月4日に、池袋で浪江町の復興に関する講演を行っており、そのときのスライドをいまも読むことができる。ここに馬場有の成熟的な「復興」定義が伺える。

 

馬場 有『浪江町の被災状況及び復興への課題』

http://mayors.npfree.jp/wp-content/uploads/2015/03/20150314_namie.pdf

P22抜粋

 

まず、「復興とは何か」という問いは、「判断が割れやすい問題」であると説明している。その最たるものが「帰る/帰らない」であると。

そして、「無理な同一化によって相互が苦しむ風景」すなわち、「分断」を問題化する。

「『復興』の定義づけからスタートする町」を標榜し、「帰る・帰らない」を復興要件から宙吊りにしたうえで、「〜ではなく、暮らしと命が第一」「〜ではなく、皆の宝を、引き継いだ責任、引き継ぐ責任」と言う。

 

いわば「分断」を、原発災害(あるいは、その責任主体の東電・政府)によってもたらされた二次災害と見る。被災者たちはこれを強いられているのに、あたかも"自らの意志で分断を選んでいる"ように錯覚させられることを回避しないといけない。

町が「選択の自由を保障する仕組み」を提供することで、「分断」を回避する。

町は「戻ってください」とは言わず、ただ粛々と「戻ってきたくなる町づくり」を行う。そこに最大限のエフォートを注ぐが、最終的な住民各々の自由選択(結論の導出)が行われることを「復興」の一部と見る。

 

行財政よりも、「町民」個々人の幸福に根ざした、なんと成熟した復興観だろうと思う。

 

このような浪江町の復興像は、馬場有が基礎的な指針をつけた。

浪江町 震災・復興記録誌―未来へつなぐ浪江の記憶―』の冒頭、町長からの挨拶に、吉田数博は馬場有への哀悼の言葉をこのように寄せている。

 末筆になりますが、今日の復興の礎を築かれ、志半ばで逝去された馬場有前町長に対し、改めて感謝申し上げるとともに、心から哀悼の意を表します。

 町の復興には未だ課題が山積しておりますが、議会並びに町民の方々と力を合わせ、将来にわたり安心して暮らせる「持続可能なまちづくり」に全力で取り組んでまいります。

令和3年6月吉日 浪江町町 吉田数博

 

いまも浪江の町内を歩けば、さまざまな場所に、馬場有の意思を見つけることができる。

枚挙に暇がないが、たとえば、大平山霊園に植えられた「宇宙桜」には、馬場有の碑文が添えられている。

道の駅なみえすぐそばのホテル「双葉の杜」(私は春の一大事でここに連泊する)も、広野町で「ホテル双葉邸」の実績を持つ運営会社フタバ・ライフサポートの志賀崇社長が、馬場有の嘆願を受け、(馬場の逝去後に)浪江町へ進出したホテルだ。

https://www.minyu-net.com/news/sinsai/serial/0905/FM20200811-526032.php

 

■吉田町政(現在)

2018年6月の馬場有逝去から数ヶ月は、副町長の宮口勝美が町長代理を務めたが、町長選を経て2018年8月、吉田数博が現町長に就任した。

ももクロ浪江町に接点が生まれたのは、すべて吉田町政下の出来事である。

 

吉田数博は震災当時から浪江町議会の議長として、馬場有と並走してきた同士だった。本来は政治引退の意向を持っていたが、晩年の馬場有から「あとは頼んだ」という声を受け、馬場町政の継承を掲げて町長選に立候補した。

対立候補は、過激な反原発運動家であり、スローガンに「さようなら浪江町」(大意:浪江町民は全国に避難し続け、中央の安倍政治に立ち向かおう)を掲げた吉沢正巳だが、大差の票数で吉田数博が勝利した。

 

言うなれば、馬場有は、震災直後の対応から避難指示解除までを走り抜けた。そして「町のこし」の礎を敷いた。

吉田は、「町のこし」が一定果たされた浪江町に対し、復興期(≒復興予算)を終えたときまでをスコープに据えた、「持続可能なまちづくり」を行うことを自らの課題に掲げている。

 

■偉大なる町役場

むろん、浪江町が成しえたことは、<馬場有→吉田数博>ラインの個人の意思でつづられるものではない。それを支える、成熟度の高い議会や町役場があった。

 

浪江町役場における議会改革

以降の記述は、帰還困難区域からの避難者の「二重住民票制度」提言などを行い、福島復興に関する社会科学の中でも特に重要書とされる、今井照『自治体再建――原発避難と「移動する村」』にほとんどを負っている。

 

3.11における被災地自治体の多くは、しばらく町議会の開催を停止させた。議会とはつまり要人たちが集まる会議の繰り返しだが、そのために役場職員のリソースを割かせる場合ではないと考えられたためだった。

しかし浪江町議会は、もともと吸収していた「議会改革」のパラダイムから、議会は有事のときにこそ活動すべきと考え、二本松市東和支所に町役場機能を移して間もない2011年3月30日には、早々に緊急議会を行った。

 

議員個々人をミニマルな活動単位にし、職員の帯同は最小限に、議員たちが自らの足や声を使い、対外的(永田町や他地域自治体)なコミュニケーションを行っていく。こうした町議会の動きは、浪江の他に例がなかったという。

浪江町議会のHPに公開されている『議会はどう動いたか』に、当時の柔軟な議会の動きが事細かに書き残されている。

www.town.namie.fukushima.jp

 

震災当時の浪江町議員たちは、選挙で選ばれた時点から、特別委員会(議員の半数が所属)を組織し、以下のような取り組みを行っていた。

 

議会改革の基本発想は、「議会と市民が直接向き合う」ことである。

議会の目的は、市政策の決定にあり、それを実行するのは首長から任を受けた役場職員である。このとおりの旧来的なスキームであれば、議会は市民との直接的なコンタクトチャネルを持たない(それは役場職員に委ねられる)。この考え方の打破が、議会改革の中心課題にある。

だから、浪江町議会(議員たち)は、町民避難先を行脚するキャラバンを組み、懇親会をただちに実行した。避難先に行けば、避難生活のストレスにさらされている町民たちから強い非難・無理難題を投げられる(そんなことは行く前から予想がつく)が、それでも、懇親会が終わるときには「来てくれてありがとう」「また来てほしい」といった思いを数多く寄せられたと言う。

 

議会改革には、さらなる上流に「分権改革」がある。

1993年宮澤喜一内閣の末期に、国会で地方分権推進決議が全会一致されたことに端緒を発する。集権型行政システムの制度疲労が政界に自覚され、地方分権すなわち、地方自治体の自己決定力を従来よりも高めることについて、意見が一致した。

いわば「分権改革」とは、地方自治体が国や県から自立した政治単位(小さな政府)であることの合意および推進である。自治体の自律性にあたって理論的に要請されたのは、政治的決定権の起源はどこなのかという問いである。それは「国からの信託」でなく、「市民からの信託」を受けることである。そして、市民とより直接的な接点――市民の生命を守るための信託関係を持つのは、地方自治体であると。

 

思い起こせば、馬場有が書いた「暗中八策」の核心は、浪江町が町民に対し、(国や県からのトップダウンを待たず)直接的かつ自律的に意思決定・支援を行うことの指針表明にあった。

すなわち「暗中八策」は、もともと分権改革・議会改革の考え方と親和性を持っていた。

「暗中八策」が早々に浪江町政へと浸透したことは、町長のみならず、議会や役場自身にもあらかじめ成熟の素地があったためと見るべきだろう。

 

大前提、浪江町はいわゆる「中央」の平均的な地域以上に成熟した自治組織である。

 

◎個人的な思い出

極めてカジュアルな個人的思い出で、いったん締める。

 

浪江女子発組合の結成から間もない2020年1月の定期大会は、町役場そばの「サンシャインなみえ」で開催された。このとき浪江町役場の職員さんが対応した事前整列、そのやり方は、多くの組合員(浪江女子発組合のファン総称)を感心させた。

養生テープを地面に貼り、蛇行状の整列導線を引くとともに、貼り紙で整理番号10人ずつの立ち位置をセグメンテーションする。

この10人刻みがちょうど、「ファン同士が声をかけあい、あるいは手に持つ整理券をチラ見しあい、適切な並び順に立つ」ことのできる数だった(15人ぐらいになると厳しい)。これができない整理番号順のイベントでは、並び順をめぐる不正の疑念から、ファンたちはストレスを抱く。

ももクロがしばしば行う整理番号順のライブの、それ専用の警備会社が敷く事前整列よりも、はるかにスマートだったことに多くのファンが称賛した。

 

いざ入場開始したときも、「番号呼び出し→該当者たちが入る」という小分けの整理を行う必要はなく、並んだ人たちをそのままダ~~~ッと入場させればよい。町役場職員さんによる整理番号のチェックも、音ゲーのバーをリズミカルに視認する要領で行われ、たちまち入場が完了した。

 

アイドルのライブの入場整理など、「町役所の人間がやることではない」という気持ちを持ってもおかしくない。

それでも、浪江町役場の職員さん一人ひとりが、このように大挙するファンたちをどう整理すればストレスなく迎えられるか、自分たちがどう動けばよいか、を柔軟に考えながら笑顔で対応してくれているのがありありと伝わった。

 

この「浪江町役場の人たちは優秀だ」という当時の尊敬感情が、ここに書いた文章の出発点になっている気がする。

さまざまな資料から読み取ってきた、浪江町の”成熟”は、そんな出発点の裏付けのように感受してきた。

 

それは端的に楽しいことだった。

 

(つづく)

1)『ももクロ 春の一大事』について知っていること/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

一つ前の記事で、浪江町について書くことの心構えを語ったが(恥ずかしい)、まずは『ももクロ 春の一大事』について――それも特に、『笑顔のチカラ つなげるオモイ』が冠せられた、自治体共催型になったそれについて、自分の知っていることを書いていく。

 

■『春の一大事』その成り立ち

ももクロのファンが100人いたら100人全員知っている教科書的な話を、素描するところから始めたい。

 

◎はじまり~2014 年 国立競技場大会まで

2011年4月10日:中野サンプラザももクロ春の一大事 ~眩しさの中に君がいた〜』

青色担当のメンバー早見あかりの脱退宣言を受け、彼女のラストライブに『ももクロ春の一大事』という名前が冠せられた。

イベントMCの「回す」担当を務め、精神的支柱だった早見あかり脱退すること。それを「一大事」と呼ぶことから、この春のライブは始まった。以降3年後まで、毎年4月に『春の一大事』が定例化されるようになる。

 

2012年4月21,22日:横浜アリーナももクロ春の一大事2012 〜横浜アリーナ まさかの2DAYS〜』

ももクロは、直前の2011年のクリスマスライブに、さいたまスーパーアリーナで初めて万単位の動員を実現する。以降のももクロは、動員数の倍々ゲームを突き進んでいくことになる。そうしたとき、「一大事」とは、彼女らにとって、急激なスケール拡大に伴いのしかかる「試練」のテーマを指すことになった。

Day1は大物芸能人をゲストに多数迎え、エンターテイメントの主体性および、自分たちがプラットフォームになりうることを打ち出した。Day2は360度観客に囲まれるセンターステージにレイアウト替えし、前日とは真逆に、「ももクロそのもの」を集中的に見せる高負荷ゲームを行った。

 

2013年4月13日,14日:西武ドームももクロ春の一大事2013 西武ドーム大会 〜星を継ぐもも〜』

初めて、全編わたって生バンドを迎え入れる。

武部聡志が率いるそのバンドは『ダウンタウンももクロバンド』という名で、成員の入れ替わりがあれど、いまも続く重要なももクロのライブのパートナーとなっていく。

ひいては、ももクロは「自分たちだけでなく、”本物”の大人たちを背中にパフォーマンスする」ことを――そこから喚起されるストイックな態度を、このころ本格始動させた。

 

2014年3月15日,16日:国立競技場『ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会』

紅白歌合戦出場につらなる夢、国立競技場でのライブを実現した。

このとき、グラフで右斜めに直線が引かれるような、ある種、単純なビルドゥングスロマンは終焉(あるいはクールダウン)を迎える。

リーダー(百田夏菜子さん)は、Day2終演時のMCで「笑顔を届けるという意味で天下を取りたい」「笑顔を届けることに終わりはない」という伝説的な言葉を発し、思うに、彼女らが生涯を賭すに値するももクロのテーマがこの日、聖火台の前で明示された。

国立競技場大会のことを、本当はこんな安易に、簡潔に書きたくない。次に進める。

 

かつて『春の一大事』とは、ももクロにのしかかる試練のことを指した。しかし、「試練」「全力」といった高校球児的なフレームは、2014年 国立競技場大会で終わりを迎える。彼女らはもっと大事なテーマを持つようになった。以後3年間『春の一大事』は開催無しとなる。

 

◎2017年 埼玉県富士見市以降

以上のブランクを経て、2017年『ももクロ春の一大事2017 in 富士見市 〜笑顔のチカラ つなげるオモイ〜』によって、『春の一大事』がリブートされる。

 

自治体協賛型のライブになり、「ももクロに一大事が起きる」のでなく、「ももクロがその町に一大事を届けに行く」コンセプトへと生まれ変わった。

 

2017年 埼玉県富士見市、2018年 滋賀県東近江市、2019年 富山県黒部市店…と、回を重ねる。そして2020年 楢葉・広野・浪江 三町合同大会が行われることになるが、コロナ禍で延期を余儀なくされ、このほど2022年にようやく開催に至ることになった。

 

ここまでが教科書的な話。

 

■『春の一大事』がリブートするとき、何があったのか

かつては意識されていたが、いまや多くのファンが忘れがちなことを、丹念に確認したい。

 

自治体協賛型『春の一大事』は、埼玉県富士見市から始まった。スタート地点がこの地域だったことの重要性は、強調に値する。

 

富士見市にかかわる2人のキーマンがいた。

富士見市で小学4年生まで生まれ育った(元ももクロメンバー)有安杏果と、かつて市立文化会館『キラリ☆ふじみ』の芸術監督を務めていた平田オリザである。

 

平田オリザが、自らの劇団HPに構えるブログ『主宰からの定期便』で、いかなる交流を経て『春の一大事』が動き出したのか、その経緯を書き残している。

 

先に、端的な事実・結論を言うと、『春の一大事』は、富士見市で有安のソロコンサートを行おうという案があり、そこからのスライドで実現したライブイベントだった。

 

2016年5月1日、有安は、富士見市PR大使を委嘱される。同日、委嘱式のため富士見市「キラリ☆ふじみ」を訪れた。

その日、委嘱式は前半で、後半は、あるファンイベントがもよおされた。

有安がかつて育った故郷にアイドルとして貢献し返せることの歓び、その記念に、映画『幕が上がる』の無料上映会が行われることとなった。

上映後には、先に述べたつながりを持つ平田オリザと、有安杏果、川上アキラの3名によるトークショーが開催された。

 

この日の詳しいトーク内容は、このファンの方のレポートが詳しい。

http://noelmcz.blog.fc2.com/blog-entry-11.html?sp

このトークショー後半で、有安は来年ここ「キラリ☆ふじみ」で歌いたいと宣言する。

オリザ

「来年も、(有安さんに)ここにきてもらおうと思ってます。

 川上さんにもさっきお願いしてね」

 

有安

「(来年はここで)歌いたいです!」

 

会場から大歓声が沸き起こります!

 

オリザ

「演劇で使ってるし、音響もばっちりだしね」

 

おそらくこの日、劇場を熟知するオリザさんを質問攻めし、詳しく音響の話も聞き、

杏果さんは心の底から歌いたいと思ったんだと思う。

“歌いたい”って杏果さんの言葉を、初めて真正面から聞いたような気がした。

 

「歌いたいです!」

 

このときの有安の宣言は、いっときの高揚による軽口に留まったりはしなかった。

平田オリザが、後日ブログに続報を書いている。

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2016/05/30/5199/

 さて、すでにファンの皆さんがお書きくださったように、来年の市政45周年、キラリ☆ふじみ開館15周年イベントとして、有安さんのソロコンサートの開催を検討しています。有安さんの「ここで歌いたい」という強い希望がありますので、実現のハードルはさほど高くありません。今回、富士見市もチケット発売のノウハウを得ましたので。

 

この時点での仮組みは、こうである。

・来年2017年、有安杏果が「キラリ☆ふじみ」でソロコンサートを行う。

・2017年は富士見市政45周年、「キラリ☆ふじみ」開館15周年があり、その記念事業として開催する。

 

約3ヶ月を経て、2017年 富士見市で、”ももクロが"、"野外で"、コンサートを行うことが発表される(この時点では『春の一大事』と呼ばれていない)。

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2016/08/14/5335/

 すでにモノノフの皆さんはご存じの通り、私が市政アドバイザーを務める埼玉県富士見市でのももクロの野外コンサートが決定しました。

(…)

 そして、1年後の今年4月の富士見市PR大使就任。このときは有安さんのソロコンを来年にという話でしたが、すでに楽屋では、荒川河川敷でできたらいいねという話が夢のようには語られていました。

 その後富士見市サイドからは、「45周年記念事業で、本当に野外でできそうだ」という話は聞いていたのですが、もちろん今日まで公表はできませんでした。申し訳ありません。

この証言によると、かつて『幕が上がる』上映後トークショーを終えたとき、楽屋では、荒川河川敷でライブをしようと盛り上がっていたという。

すなわち、上で書いた仮組みに加えるべき一点は、やはり「キラリ☆ふじみ」ではなく、「富士見市の野外」でコンサートを行うよう見直された。よりキャパシティがスケールアップした。

あとはただ、パフォーマンスの主体が「有安杏果」単体から「ももクロ」に切り替わっただけである。

(このころ2016年の有安は、横浜アリーナでの初回、大分県ビーコンプラザでの第二回とソロコンサートが活性化し始めた年だった。一つ一つのライブがドラマティックにつながっていく論理的展開の中、あえて富士見市を途中に挟み込む必要もなかったこと。自治体協賛という規模的に、ももクロ本体のほうが対応しやすいと判断したことは、容易に推察できる)

2016年の『ももいろクリスマス』で『ももクロ春の一大事2017 in 富士見市 〜笑顔のチカラ つなげるオモイ〜』が正式発表された。再始動する『春の一大事』は、サブタイトルに「笑顔のチカラ つなげるオモイ」を冠するようになった。

 

確認すると、自治体協賛型『春の一大事』は、「ももクロがその町に一大事を届けに行く」というコンセプトが先にあったのではない。

まず「富士見市の野外でライブを行う」ということが先行し、そのフレームの中に『春の一大事』のリブートが――自治体協賛型という新たなコンセプトが差し込まれた。むろん、その差し込みは極めて創造性が高く、のちのももクロ活動を指針づけてくれた。

 

かつて『幕が上がる』を通じて出会った有安と平田オリザが、富士見市という共通の土地を通じて"出会い直す"ことがなければ、『春の一大事』が(少なくともいまのような形態で)リブートすることはなかっただろう。

 

富士見市の文化的成熟

ここまでは、ただのきっかけに過ぎない。

春の一大事がいまのような創造的なコンセプトをもった原因には、深掘りを要する。

 

有安とトークショーが行われたのが2016年5月。その3ヶ月後には、富士見市政45周年事業にももクロの野外ライブを行うと、自治体が決定したスピード感の裏には、富士見市の文化芸術アドバイザーを務める平田オリザの仲介がある。

上に貼ったトークショーのレポート記事にあるとおり、平田オリザは『幕が上がる』上映会のトークショーの時点で、前もって有安および川上マネージャーへソロコンのオファーをしていた。

そして、平田オリザは『春の一大事2017』当日を迎えて足を運んだときも、ライブを見たことについて、文化芸術アドバイザーとしての「あくまでも仕事」であると言っている。つまり、平田オリザは『春の一大事2017』にとってコンダクターであり、裏方の一員であることを自認している。

 

このころ、平田オリザももクロを取り次いだ仕事で印象的なのは、岡山県奈義町への推され隊(高城れに有安杏果のコンビ名)訪問である。

 

平田オリザは2015年から岡山県奈義町でも、教育・文化の「まちづくり監」を任命され、文化・教育政策のアドバイザーを務めていた。

春の一大事in富士見市が差し迫った2017年1月、平田オリザの取り次ぎのもと、推され隊が奈義町文化センター大ホールへ、映画『幕が上がる』無料上映会に登場した。

momoclonews.com

 

(その日、奈義町現代美術館のシーソーに乗っている推され隊)

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ここで確認したいのは、このころ、ももクロはそこまで自治体と交流するスキームを持っていなかった。ももクロ自治体と「ともに何かを作り上げる」ことは、富士見市奈義町パイロットケースにし、平田オリザからインストールされたエートスだった。

 

埼玉県富士見市は、かつて平田オリザが先進的な文化行政のあり方を”インストール”した町でもある。

ももクロ富士見市と協賛し、単なる場所貸し/貸されの関係でなく、コンセプトのレベルから一緒にライブを作り上げたこと。その過程で、間接的に平田オリザの文化芸術行政の精神が、ももクロへと流入していった。

 

■「新しい広場をつくる」

平田オリザの文化・芸術行政および、それによって地方活性化をはかることの発想は、著作『新しい広場をつくる』に詳述されている。

ももクロ運営がこれを読んでいるとは考えづらいが、それでもある種、間接的な、『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』の理論書として読むことができる。

 

本書はまず、宮沢賢治が岩手の農民たちに『農民芸術概論網要』で説いた「誰人もみな芸術家たる感受をなせ」というメッセージの重要性を説明する。

農民(あるいはいち市民)にすぎない人々へ、芸術の精神を説く。芸術家になれと言っているのではない。アートをアーティストの個性に委ねるのでなく、市民・社会が自律性を確保するための方法として取り入れること――つまり、『農民芸術概論網要』は全員参加型アーツマネジメントの古典として読み解くことができると言う。

 

平田オリザが地方活性化あるいは、文化行政において、これこそが必要だと説くのは「文化の自己決定能力」である。それを、このように定義している。

私は冬の芦別に、地元の方の案内で連れて行っていただいた。人っ子一人通っていない閑散とした風景の中に、大観音や五重塔が林立する姿は、地獄絵図のようであった。要するに、自分たちの愛するものは何か、自分たちの誇りに思う文化や自然は何か、そして、そこにどんな付加価値をつければ、よそからも人が来てくれるかを自分たちで判断する能力がなければ、地方はあっけなく中央資本に収奪されていくのだ。

私はこのような能力を、「文化の自己決定能力」と呼んできた。

平田オリザ『新しい広場をつくる』P100

 

『新しい広場をつくる』でも、まさにこの「文化の自己決定能力」を富士見市へ注入していったプロセスが、「富士見市」の章で語られている。

 

 続いて、私自身が関わった埼玉県富士見市の事例を紹介する。

 埼玉県富士見市は、東武東上線沿線、池袋から急行で35分、人口約10万人の典型的な近郊都市である。ここに、市政30周年を記念して市民待望の公共ホール、富士見市文化会館「キラリ☆ふじみ」ができることとなった。縁あって、私は、市主催の開館準備のための会議に呼ばれ、講演を行った。最初は一通り、ここに書いてきたような「社会における劇場の役割」について、市民に向けて説明した。するともう一度来てくれと声がかかり、そこではアウトリーチやワークショップの考え方についての話をした。さらに、もう一度来てくれと言われて、三度目には、開館記念事業や開館1年間のプログラムの立て方について具体的な話をした。

 そのうちに、市民の間から「こいつを呼んでしまった方が早いのではないか」という話が持ち上がった。当時の開館準備室長(後の館長)が、市民の声に押されるような形で市側と協議し、急遽、私が芸術監督して呼ばれることとなった。2002年10月の開館を前にして、私の就任が決まったのが2002年2月のことだから、行政としては異例のことだったと思う。

平田オリザ『新しい広場をつくる』P152

 

平田オリザがいざ芸術監督に就任した時点では、「キラリ☆ふじみ」の開館を間近に控えているにもかかわらず、演目をめぐって「第九をやりたい」「歌舞伎も呼びたい」「劇団四季も」と、ただ市民の散漫なリクエストが集積し、どう処理したらよいか分からずにいる状態だったという。

 

平田オリザは、文化会館のリアルな財政を説く。

イニシャルコストに60億円の建設費がかかった。そして年間10万人の来館目標を掲げている。では、来館者に一律2千円(と多め)の観賞補助金をかけたとして、イニシャル60億円とは、30年分のランニングコストに相当する。この施設の30年後を思い描ける人は誰もいない。なのに、それだけの後戻りできない金額を、すでに使ってしまったと、走り出しているハコモノの意義をゆさぶる。そして、悲しいことに、市民たちが思いつくままに挙げる演目に従い、鑑賞事業のゴージャスさで勝負しようとするなら、敗北は必至である。なぜなら、市民らが池袋や銀座に出かければ、富士見市が太刀打ちできない競合で溢れかえっているからだ。

 

こうして、平田オリザ主導のもと、「キラリ☆ふじみ」は、鑑賞事業でなく、”交流事業”をメインコンプセトに据えることとした。その活動と成果を列記する。

 

  • 公演を買い取った上演団体には、必ず富士見市民に対するワークショップやアフタートークをやらせた。
  • 池袋や銀座に出かけることのできない、小さな子供を持った家庭。あるいは障がい者。高齢者を包摂する裏テーマを持った。いわば『弱者のための劇場』だが、よりマイルドに『子供のための劇場』と銘打ち、親子で楽しめるプログラムを半数以上にすることをルール化した。
  • アウトリーチにより、学校への出前授業を行い、平田オリザの在任中5年間で2千人の子どもに授業を行った。このことが観客増加につながった。
  • 15歳の中学生は20歳になると恋人を連れて劇場に来る。初年度から5年後で『子どものためのシェイクスピア』の観客数は250人から800人になった。
  • 市民巻き込み型を志向した。もっとも劇場に来づらい中高年男性をターゲットに、「舞台写真ワークショップ」を催した。演劇の模様を撮影させ、ロビーに写真展示する。すると、彼ら”お父さん”の多くは、家族連れで演劇を見に来るようになった。
  • 池袋から電車35分の地理を活かし、劇団に無料で稽古場を貸し出した。その代わりに市民向けワークショップや公開リハーサルを行ってもらう。劇団の公演チラシには「協力:富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ」と入れてもらうことで、市民の誇りにつながった。すると、富士見市民の中から、新宿や下北沢まで本番を観に行く観客が出てきた。

 

かくして、「キラリ☆ふじみ」は、施設自身はもとより、市民の文化的成熟にも貢献する稀有な公共施設になったという。最終的な成果をこう語る。

 

 こうして、キラリ☆ふじみは少ない予算ながら、地道に成長を続け、開館六年目には全国の優秀な劇場に贈られる総務大臣表彰を受賞した。この受賞は、埼玉県では初、県立劇場にも先んじての受賞となった。七年目には、待望の来館者十万人を突破。市の基本計画の中に、小学校で二回、中学校で一回は生のすぐれた舞台に触れることを保証するといった文言を入れていただくことにもなった。

 この間に、劇場に関わる市民の意識も大きく変わった。会館前は劇場への希望ばかりを述べていた準備委員のメンバーが、劇場運営に主体的に関わるサポート委員となり、チケットの売れ行きが悪い公演のときには、自主的に沿線の駅頭に立ってチラシを配ってくれるまでになった。劇場ボランティアは、アテンドなどの簡単な業務から始まったが、技術講習のワークショップを繰り返した結果、その中から館の非常勤職員になる市民まで現れた。

平田オリザ『新しい広場をつくる』P162

 

有安杏果

ここいらで、有安杏果である。

有安が富士見市に住んでいたときと、平田オリザが「キラリ☆ふじみ」の芸術監督で足繁く通っていた時期は、重複している。その町を去ったタイミングも近い。

 

1995年3月  有安杏果生誕、ほどなく富士見市へ移住

2002年2月        平田オリザ「キラリ☆ふじみ」芸術監督 任命

2002年10月      「キラリ☆ふじみ」開館(有安杏果7歳)

2004, 05年          有安杏果小学4年生、市外へ転居

2006年                平田オリザ「キラリ☆ふじみ」芸術監督 離任

2008年                キラリ☆ふじみ 総務大臣表彰を受賞

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2016/03/31/5023/

 『幕が上がる』のキャンペーン期間中にいろいろ話すうちに、私が芸術監督だった頃に、有安さんが市民文化会館キラリ☆ふじみの舞台に立っていたことも分かり、たいへん盛り上がりました。ちなみにマネージャーの川上さんも富士見市の出身です。

 

有安は、「キラリ☆ふじみ」でのトークショー時、小さいころよくダンス発表会でステージに立ったあの「キラリ☆ふじみ」に、いまアイドルとして立っていることの驚き、感動を語っていた。

「キラリ☆ふじみ」は、家族ぐるみで市民文化に参入することを大事にしていた。「キラリ☆ふじみ」で行われる子供の発表事を親が見に行き、帰りには、子どもと目の前のららぽーと富士見で外食・買物をし、家に帰る。

そんな富士見市民の文化的営みのフレームに、有安一家も参加していた。0歳から芸能活動をしていた彼女は、富士見市の文化的成熟のもとで育っていた。

 

平田オリザは、『春の一大事2017』を見届ける前日、ブログにこう書いた。著作では名が伏せられていたが、かつては右も左もわからず相談してきた、しかし富士見市の文化行政の雄へと生まれ変わった初代館長 関繁雄への追悼の言葉である。

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2017/04/08/6117/

 私ごとですが、亡くなられた関繁雄初代館長にだけは、明日の富士見の風景を見せたかったと強く思います。誰よりも、キラリ☆ふじみと富士見市民を愛した方でした。

 富士見市の皆さんはもちろん、この機会に、近隣の皆さんも、もっとキラリ☆ふじみにお立ち寄りください。ここが、一番の「聖地」です。

平田オリザは、『春の一大事2017』を、富士見市の文化行政の一つの到達点であると考えたのだろう。だから、いまは亡き関繁雄に、「明日の富士見の風景を見せたかったと強く思います」と言う。

同時に「キラリ☆ふじみ」がなければ、その施設を通じた富士見市の文化的成長がなければ、『春の一大事2017』も実現しなかったと考えている。だから、『春の一大事』にとって「ここが一番の『聖地』です」と結んでいる。

 

『春の一大事2017』が開催された富士見市は、かつて「キラリ☆ふじみ」を介して、このように平田オリザの文化行政の薫陶を受けていた。

『春の一大事2017』に足を運んだももクロのファンたちは、星野市長はじめ、あの町がいかに柔軟にももクロとモノノフを受け入れ、東武鉄道まで巻き込み、多角的に『春の一大事』を盛り上げてくれたかを知っている。

そして、5年間経ったいまも、市政50周年記念に、富士見市を通る東武東上線各駅のオルゴールにももクロ楽曲を使用してくれている。

natalie.mu

 

かつて『春の一大事』が、『笑顔のチカラ つなげるオモイ』として、自治体協賛型へリブートしたとき、その始まりを富士見市が務めたことは、重要な意味を持っている。

 

■コンセプト再確認

自治体には、ただ場所を貸してもらうだけではなく、地域の商工業・インフラごと、一緒にライブを作らせること。ただの傍観者であることは許されず、自治体自身がライブの成功にコミットしてもらうこと。それが『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』の特長である。

 

富士見市以降、そのバトンを毎年、次の協賛自治体へつなげることが定式化した。

これは、『幕が上がる』の以下のテーマが、ももクロ×自治体の文化施策へ読み替えられたものに見える。

ジョバンニは、たくさんの人と出会って成長をしていく。『みんなで卒業をうたおう』の主人公が、先輩を一生懸命好きになることで、他の友だちや学校を好きな気持ちが広がっていったように。

平田オリザ『幕が上がる』(講談社文庫 P326)

 

富士ヶ丘高校 演劇部の高橋さおりは、副顧問の吉岡先生からの卓越した演出指導(スタニスラフスキーさながら)を受け、どんどん演劇にのめり込んでいく。そして、吉岡先生に対し、尊敬の念から、同一化欲望を持つ。

しかし、吉岡先生が女優の道を選び、退職ひいては演劇部顧問からの撤退を告げることで、彼女らをつなぐ緒は切断される。

高橋さおりはそのことを、「母からの拒絶」として受け止めるのではなく、吉岡先生への尊敬感情(好き)を、演劇そのものへと転化させた。そして台本執筆や部員のみんなといった、演劇を通じて接するすべてものを愛するようになる――という「愛」の転換劇だった。

 

同じように、『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』は、ファンたちがももクロに思う「好き」という気持ちが、協賛する自治体、そして、ももクロを受け入れようとしてくれるそこに住む人たちへの「好き」へと広がっていく連鎖構造を持つ。この構造を指して、サブタイトル『笑顔のチカラ つなげるオモイ』と呼ぶ。

 

さらに具体的には、来年へとつなげられる自治体間においても、「春の一大事マニュアル」がリレー形式で継承されるという。ケイパビリティの継承という具体的なレベルで、「笑顔のチカラ つなげるオモイ」が実現していく。

 

『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』は、面的に楽しめる。

ももクロのライブを見に来ているのに、その前後に開催地を歩き回り、メンバーが足を運んだ「聖地」に自らも立つと、やがて、ももクロのライブと町全体が明確な境界を失い始める。

町全体が、ライブ開演前のロビーのようになる。いわば会場の一部になる。その町を遊び回ることが、すでにももクロのライブのゆるやかな始まり、準備であるように感じられる。

ももクロが好きだという気持ちが、町を歩き回ることでどんどん他へと広がっていく快感を憶えるとき、これは、平田オリザを介して生まれた『幕が上がる』という劇作品の、別様の胚胎物なのだと感じてならない。

 

『春の一大事』というライブは、国立競技場大会をもっていったん切断されたと見られているが、ここに補足的な解釈を挟みたい。

国立競技場大会を終えた直後、ほぼ時間を空けず2014年5月にももクロが取り組んだことは、映画『幕が上がる』に向けた、平田オリザのワークショップだった。

翌2015年3~4月は『幕が上がる』のPR活動および同舞台作品の準備に、前年まで『春の一大事』に充てられていた時期が使われる。

翌々2016年には有安の富士見市大使委嘱があり、『幕が上がる』および平田オリザとのコネクンションから、2017年に『春の一大事』が富士見市でリブートする。『春の一大事』が停止していた3年間、丸ごと埋めるように『幕が上がる』が存在していた。

 

『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』は、『幕が上がる』の延長上にあり、あの芝居のテーマを実際的な活動へと変換した営みだった。

『春の一大事』における冒頭で示した「2014年 国立競技場大会まで/2017年 埼玉県富士見市以降」という2つの区分は、切断されていたのではなく、国立競技場の直後から『幕が上がる』によって潜在的に、連綿と続いていた。

 

■東北・福島との先見されたつながり

『春の一大事』がリブートするにあたり、最初に得た「笑顔のチカラ つなげるオモイ」とは、富士見市有安杏果を通じて、ももクロ平田オリザと”出会い直した”ことである。その縁で、ももクロは、地方活性化に参画するスキームを構築していった。

 

平田オリザは、ちょうど映画・舞台『幕が上がる』で、ももクロと接点を持っていたころ、ある福島県の学園に対し、支援的な関係を取り結んでいた。

3.11によって休校を余儀なくされた双葉郡の高等学校機能を集約的に補完するため、2015年4月、福島県広野町に開設されたふたば未来学園である。

 

平田オリザふたば未来学園の演劇部を指導し、特に、彼ら・彼女らが「3.11」と向き合う芝居を推進した。以下のサイトは、ふたば未来学園演劇部が、平田オリザのホーム「こまばアゴラ劇場」で公演したときのものである。ここから部活紹介を引用する。

http://www.komaba-agora.com/play/5303

 

ふたば未来学園高校演劇部

 

ふたば未来学園高校は2015年4月、福島県双葉郡広野町に開校。震災と原発事故に伴い現在も約8万人が避難生活を送る双葉郡の復興のシンボルとして、地域の未来を自らの手で創造する人材の育成を目指し、平田オリザ氏らの指導のもとコミュニケーション教育にも力を注いでいます。演劇部は、同好会として1年生5名により結成後、2016年4月から演劇部として各大会に参加。内外から注目を集める新設校に通う自分たちの葛藤や生まれ育った地域への思いを率直に表現する舞台を創作し、今年度は福島県高校演劇コンクールで優秀賞を受賞しました。現在の部員は16名(2年生6名、1年生10名)。

 

福島県双葉郡の高校生たちが演劇を通じて、3.11の体験とアイデンティティの問題を、自分たち自身の言葉で思考し直すことを促している。ひいては、それが「地域の未来を自らの手で創造する人材の育成」へとつながる、「平田オリザ氏らの指導のもとのコミュニケーション教育」であるとしている。

 

※ちなみにふたば未来学園の演劇部の様子(その部活動の壮絶さ)は、広野町ドキュメンタリー映画『春を告げる町』で見ることができる。『春を告げる町』に、ももクロ春の一大事に向けて歓迎ムードを出してくれている居酒屋元気百倍( @uFx6ib8KtLcKrUw )さんが、まだそのコンセプトが立つより前の時期、原発作業員の人たちの憩いの場所として登場している。PrimeVideoで見られるので、『春の一大事』開催地の風景を知るためにも、未見の人はぜひ見たらいいと思う→ Amazon.co.jp: 春を告げる町を観る | Prime Video

 

このように、福島県および双葉郡の「文化的な自己決定能力」をはぐくむための手段として、平田オリザは自らの職能である演劇を採用している。

 

ふたば未来学園2015年4月の開校に向け、平田オリザが福島を往復していたとき、彼が同時期に行っていた仕事が、舞台『幕が上がる』(上演2015年5月)の台本執筆だった。

 

舞台『幕が上がる』では、(有安演じる)中西さんが東北の被災者であるという設定が(半ば唐突に)差し込まれていた。平田オリザが台本執筆しながら、近く控えていたふたば未来学園の演劇教育を念頭に置いていたことは、想像に難くない。

舞台『幕が上がる』については観劇した当時、ここのブログに長い感想を書いたが、かいつまんで言えば、まず、「何の理由もなく助かった自分と、何の理由もなく被災した友だち」その偶有性の耐え難さに、中西さんはさらされていた。そんなサバイバーズ・ギルトを克服するために、演劇が――友を失う『銀河鉄道の夜』のジョバンニの葛藤を反復することが、重要に作用するという回復の物語だった。

こうした演劇の問題と、東北被災地の問題は密接につながっていると平田オリザは考えたのだろう。本広克行は、舞台『幕が上がる』に3.11モチーフが挿入されることを反対した。しかし、頑なに平田オリザは譲らなかったことは、その二人の口から後々語られている。

 

中西さんのサバイバーズ・ギルト――被災を直接的に経験せず、いつまでも現在の自制にとどまり反復し続けるトラウマを、芝居として向き合うことにより言語的に外在化し、過去の「出来事」へと変換させる。舞台『幕が上がる』には、ある演劇部の一幕へと隠喩された、被災地「復興」の主題が込められていた。

 

そして、平田オリザは、ももクロとの交流でよく知られる女川町とも接点も持っている。

女川町を、彼の持論「文化・芸術は復興の重要なファクターになる」ことの範例として、著書『新しい広場』や『下り坂をそろそろと下りる』でたびたび紹介している。

 

 人類は共同体を維持するために、文化、芸術活動を、どうしても必要としてきた。それはなぜか?

 たとえば、今回の震災においても、宮城県女川町からは以下のような報告があった。

 女川は、入江が入り組んでいることもあり、最大43メートルの津波に襲われ、今回の震災でもっとも被害の激しい自治体となった。家屋の8割が流出し、人口の8.7%が亡くなられた。

 神山梓さんは、東北大学の大学院進学と共に、研究目的のために女川町に移住、今回の震災ではボランティアからそのまま街の復興推進課員となり、女川の地域再生のために奔走してきた。彼女は、文化庁ヒアリングに答えて、以下のように述べている。

 

  女川町の集落にはそれぞれ「獅子振り」という獅子舞の一種が伝わっている。竹浦集落は、地域の伝統文化である獅子振りをいち早く復旧させ、集落の人々が、獅子振りを通じて、励まし合い、団結できたことが、自立的な復興の取組につながったと思う。

  女川町にある15の集落の中で、竹浦集落は、高台移転についてもっとも早く合意形成ができた。これは文化の力によるものと考えている。コミュニティをつなぐものは、これまで培ってきた文化の力とそれを支える人々の心。その心から発せられる復興こそ真の復興であり、本当のコミュニティの再構築なのだと思う。

 

平田オリザ『新しい広場をつくる』P16-17

 

ももクロが東北に行ってきたこと

このように、『幕が上がる』は、東日本大震災の問題を潜在させていたが、ももクロ自身も、もともと同じ問題に接点を持っている。

まず、上にも書いた女川町である。

 

◎女川町

ももクロメンバーが女川さいがいFMのことを、メディアを通じて知り、声をかける。

2013年5月15日に女川町を初訪問し、自分たちと同世代の高校生アナウンサーが務める『おながわなう。』に生出演した。

ももクロは、復興に絡めた大使等の肩書きを持とうとせず、より長いスパンの絆を持ちたいと望んだために「女川町の友だち」という関係を結んだ。

以降、女川町での音楽フェスや『復幸祭』でライブを披露したほか、小中学校の訪問、ラジオ出演等、折に触れていまも女川町を訪れ続けている。あーりんはプライベートの家族旅行でも女川町を訪れ、海鮮丼を堪能していた。

ameblo.jp

 

2015年11月『世界ふしぎ発見!』に出演したあーりんは、「イギリス王室の王子が、子どもたちのために頭を下げた日本の伝統芸能とは?」という問題に、正解を捨てて、女川町応援ソング『さんま de サンバ』で回答した(しかも、スーパーひとし君で)。全国地上波に、女川町の取り組みを見せようとした。

 

スパリゾートハワイアンズ

3.11の震災および風評被害により、福島県の観光業は大打撃を受ける。かつて、ももクロが『ココ☆ナツ』のMVを撮影したいわき市スパリゾートハワイアンズも、被災によって来場者数が1/5に減少した(2010年180万人→2011年35万人)。

しかし、スパリゾートハワインズは、しばしば福島の観光業回復の理想的なモデルとして語られる。震災2年後の2013年には、震災以前を超えるV字回復を果たしたからだ(2011年35万人→2012年170万人→2013年190万人)。

 

いわき市であれば、原発事故による放射線量の上昇はほぼなかったため、原発を囲む双葉郡とは事情が違う。だから、復興は容易なのだと思われるかもしれない。だが、近いエリアの「いわき・ら・ら・ミュウ」や「アクアマリンふくしま」は、震災後の同時期、売上7割までしか回復していなかった。当然、一度離れた顧客は、なかなか戻らない。スパリゾートハワイアンズがこうした引力に勝った要因は、いくつかある。

 

まず、3.11前からの営業努力が、固い基礎になっていた。CMや無料バスで首都圏の顧客を開拓済みだった。

スパリゾートハワイアンズを有名にした映画『フラガール』に描かれる「炭鉱業の衰退→観光地としての再起」物語をベースにし、そこに「3.11の苦難→再起」の姿を率直に重ねた。フラダンサーチームの全国キャラバン、映像配信の強化等々、さまざまな策で、被災と格闘する姿をむしろ全面に出した。

 

このころ、ももクロもこのV字回復の一幕を担っている。

ファンによく知られるとおり、ももクロは、被災後1年を経てグランドオープンを迎えたスパリゾートハワインズで、2012年2月12日、応援ライブ「ももいろクローバーZ きずなライブ2012~がんばっぺ いわき~」を開催した。

かつてMVを撮った場所で『ココ☆ナツ』の衣装を着て、その曲のとおりのただただ頭のネジを外すはっちゃけたライブを行った。

natalie.mu

 

◎「ハレ」を届け、スティグマ化にあらがう

ももクロの3.11被災地への接し方はおおむねこうである。

被災から立ち上がろうとしている人たちのもとへ行き、彼らの抵抗に寄り添う。彼らを受難物語の主人公へとスティグマ化することを禁忌とし、「友だち」や「バカさわぎ」といったフラットな親密性を築こうとする。「ハレ」の気を、あくまでも「笑顔」を届けることを志向する。

 

思えば、震災直後にリリースした『Z伝説 〜終わりなき革命〜』も、被災地のZepp Sendaiで初披露された楽曲だった。この曲を手掛けたヒャダインは、2018年に『Z伝説 〜ファンファーレは止まらない〜』にリファインしたとき、この曲は、ももクロの格闘と同様に、東北被災地の応援も終わらないことをテーマにしていると明言していた。

 

私は、『MomocloMania2019 -ROAD TO 2020- 史上最大のプレ開会式』で『春の一大事2020 in 楢葉・広野・浪江 三町合同大会』が発表されたとき、嬉しさに泣いた。

 

たとえば、『新しい広場をつくる』は、『春の一大事 2017』を楽しんだその年のうちには読んでいたし、ここまで書いたような話は、2019年時点すでに頭の中にあった。

平田オリザ、女川町やスパハワイアンリゾート、といったさまざまな文脈やテーマが、福島県双葉郡の『春の一大事』に収斂していくありようを感じ、「このときが来た」という感動に震えたことを覚えている。

 

ももクロが季節ごとに置く三大ライブ(春・夏・冬)のうち、個人的には、『春の一大事』をもっとも愛している。

『夏のバカ騒ぎ』は、ももクロアファーマティブ楽天性(頭のネジを外す)を、冬の『ももいろクリスマス』は、パフォーマンスのクオリティに対する挑戦(その年の総決算)を、それぞれ標榜する。

そして、『春の一大事』は「笑顔」の連鎖をはかろうとする。

ほか二つのコンセプトももちろん素晴らしいが、「笑顔を届ける」ことがもっとも、ももクロのハードコアであり、可能性の中心であると思うからだ。

 

■『楢葉・広野・浪江 三町合同大会』の経緯

富士見市で『春の一大事2017』が成功を収めたそのころ、福島県浪江町は、(故)馬場有町長を中心とした決断のもと、避難指示解除が行われた。

このころの避難指示解除をめぐる浪江町の葛藤やコンフリクトは、いまもさまざまな媒体で伺い知ることができる。

 

浪江町が『春の一大事』に参画することになった時系列を追う。

 

2018年12月26日に、(前町長 馬場有の急逝からその座を継承してまだ間もない)吉田数博町長が、ももクロへ『春の一大事』開催応募の手紙を送付した。

 

※2020年3/13(金)『はまなかあいづTODAY』のニュース映像から

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浪江町を代表しての手紙であるから、名義は吉田町長だが、実質的にももクロを浪江町につなげた企画実行者は産業振興課の大柿光史さんである。2011年に大学卒業し、復興にたずさわるため浪江町役場に就職された方で、現在も、ももクロと浪江女子発組合の窓口役を務めておられる。

このレター文面を見る限り、手紙は他町(楢葉・広野)との連名ではないし、町のPRは浪江町にフォーカスされていて、合同大会を想定した文面にもなっていない。

 

J-VILLAGEでの開催に関して、(富岡・大熊・双葉の帰還困難区域を挟んで)広野・楢葉から30km隔てた浪江町が連名にあったことは、おそらくこうである。つまり、『ももクロ春の一大事 in楢葉・広野・浪江 三町合同大会』の起点は、むしろ位置的に離れた浪江町にある。

 

吉田数博からレターが送付された翌2019年の3月11日、東日本大震災の周忌日に、ももクロは、避難指示解除後に浪江町内で唯一稼働中の学校、なみえ創成小・中学校を訪れた。

 
 
 
 
 
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体育館で、放課後スポーツクラブの子どもたちと遊び、歌とダンスも披露したという。

この日、浪江町訪問時のサインは、いまも浪江駅に併設の「なみえまるみえ情報館」に飾られている。

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桜咲くころの2019年4月6日「なみえ春まつり」では、(下記ツイートで指摘されているとおり)ももクロはメッセージ動画を寄せ、浪江町との今後の交流を宣言した。

※ファンにとっては言うも恥ずかしい基礎知識だが、この「なみえ春まつり」は、請戸川リバーラインで夜桜を見ながら花火を打ち上げる、毎年春のお祭りであり、このほど『春の一大事2022』Day1のあとに行われる『夜桜を見る会』の原形であり、浪江女子発組合『なみえのわ』や『つながる、ウンメイ』が歌う春花火のモチーフである。

https://www.730.media/harumatsuri/

 

以降は、ファンたちがよく知るとおり、2019年の夏ライブ『MomocloMania2019』で、『春の一大事 in楢葉・広野・浪江 三町合同大会』が発表された。

2019年11月には、ももクロ浪江町の十日市祭りのステージに出演し、このときあーりんがプレイングプロデューサーを務める浪江女子発組合が結成・お披露目された。

 

このように、2019年の最初から終わりまで、徐々に徐々に、ももクロ浪江町は交差し始めていた。

 

以降の浪江女子発組合の活動や、コロナ禍によって延期を余儀なくされた『春の一大事』のことは、ファンたちが毎秒噛み締めてきた時間であり、いまここに書くまでもないだろう。

 

以上、自分なりに知っている『ももクロ春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』のことを書いてきた。

 

次は、浪江町のことを書く。

 

(つづく)

0)はじめに/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

浪江町の風景をめぐる2つの視座

2020年2月7日にNHKで放送された『ドキュメント72時間 福島・浪江 年の瀬、ふるさとのスーパーで』を見たとき、印象に残った場面がある。

www.nhk-ondemand.jp

ある浪江町出身の男性が、解体予定の実家へ、他地域出身の妻を連れてやってくる。

撮影スタッフが、その二人に、「風景は?」と、浪江町の姿の印象を尋ねる。

f:id:ganko_na_yogore:20220415194530p:plain

夫は、「思ったよりも普通。普通ではないんですけど、日常感があるんだなっていう感じがしますね」と答える。

f:id:ganko_na_yogore:20220415194542p:plain

妻は、「ちょっとショッキングな感じがしますよね」と答える。

 

同じ風景を見ているが、浪江町のこれまでを知る人か否かで、印象が異なっている。

夫が用いた「日常」という言葉が、おそらく重要だろうと思う。

 

原発災害避難者が失ったのは、郷愁としての「ふるさと」ではなく、毎日のリアルな日常生活なのだ。

今井照『自治体再建 ―原発避難と「移動する村」』 P13

 

「日常」とは、たとえば毎朝シャワーを浴び、風呂場を出たところに足ふきマットがある。仕事に出かけるときには、決められた道を決められた交通手段で通る。

セルフコントローラブルな生活がルーティン化し、その始まりも終わりも意識されず、飴のように不定形に前後へ伸びる恒常性への信頼のことを「日常」と言う。

 

浪江町は3.11の福島第一原発事故により、全町避難を余儀なくされた。

当然、このイオン浪江店を訪れた男性は、浪江町にかつて存在した「日常」を、そしてその「日常」が失われた経緯を知っている。

いまやイオンという大きな商店もオープンした浪江町を巡りながら、「日常」の回復に触れ、ドキュメンタリー撮影班にその喜びをこぼしたのだろう。

 

いっぽう、町内を少し歩けば、賑わうイオンのすぐ近くにも、老朽化した空き家、人気(ひとけ)の感じられない区画は散見される。そうした都市部にはない、非活性的なディテールを「ショッキング」に感じることは理解できる。

 

浪江町出身の人の目には「日常の回復」が精彩をもって目に映る。

逆に、外部的な視座からは「いまだ回復していない」ところが特異的に飛び込んでくる。

そういった視座の差異――ここの風景を、どこの風景との対比で感じ取っているかが、なごやかな調子に、端的に現れた場面だった。

 

■「浪江町のいまを伝える」

浪江女子発組合は、2019年11月の結成以来、「浪江町のいまを伝える」というテーマと掲げている。

私は、組合員(浪江女子発組合のファンの通称)の一人として、ここで言う「浪江町のいま」とは、浪江町に現在流れている「日常」の姿であろうと理解している。

 

浪江町を、被災・避難の傷跡やある種のダークツーリズムとして見るのでなく、いま流れている「日常」に触知すること。その前提のもと、浪江町について「知ること」と「行くこと」を、およそ2年半行っている。

浪江町の魅力に触れることは、単純に楽しい。いまや、浪江町観光は、仕事の繁忙期などを抜けたときの、息抜きや趣味の一つになっている。

 

ももいろクローバーZは、当初2020年に予定されていた『ももクロ春の一大事2022 ~笑顔のチカラ つなげるオモイ in 楢葉・広野・浪江 三町合同大会~』を、コロナ禍による2年間の延期を経て、今年4/23,24に福島県J-VILLAGEで開催する。

 

このブログでは、『春の一大事』に向けた賑やかしとして、以下3つの「知っている」ことを書き連ねようと思う。一義的には、自分の気分がアガるために書く。

話の中心に浪江町を置きつつ、その前後に、『春の一大事』と浪江女子発組合のことを書く。

 

1)『ももクロ春の一大事』について知っていること

2)浪江町について知っていること

3)浪江女子発組合について知っていること

 

自分は、ももクロや(ちょっぴりセクシーでお茶目なももクロのアイドル)あーりん(こと佐々木彩夏ももクロ最年少25歳)のファンでありながら、浪江町を話の中心に置くと言った。この態度がある種、『ももクロ春の一大事』の精神の反復になると思うからだ。

 

浪江町に興味を持つことについては、ももクロやあーりんにきっかけを与えられた。

しかし自分は、ももクロを切り離して、震災・原発・復興の問題、あるいはそうしたイシューと切り離した浪江町自体に対し、直接的に関心を持つ一市民でもある。

ももクロを追って、浪江町を知る」ではなく、並走的な立場から「ももクロ"とともに"浪江町を知る」ことを志向したい。

まだ、ももクロメンバーが訪れておらず、”聖地”化していない場所でも、浪江町に新たな産業や施設が生まれれば、足を運んでみる。地域のニュースに触れ、いま浪江町および福島県双葉郡にとってのアクチュアルな問題――「いま」を知ろうとする。

 

人間が認識する「いま」は、現前している0秒の瞬間を指すのではなく、「あのときから、ここまで」という一定の時間幅を持つ。

たとえば、『春の一大事2022』day1の夜、『夜桜を見る会』が行われる(俺はチケット抽選に見事落ちた)。その会場、道の駅なみえ裏手にある請戸川岸は、比較的最近、ラッキー公園のオープンと同時期に護岸の整備が完了した。これは「浪江町のいま」である。

では、なぜ人が賑わう商業施設のそばに護岸が必要だったかというと、3.11のとき、海岸から5km離れていたため津波の直接被害をまぬがれた幾世橋地区も、請戸川と高瀬川をつたってのぼってきた津波が、いま道の駅なみえがあるところまで氾濫し、寸手のところで危機をまぬがれたことの反省があるからだ。

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浪江町 震災・復興記録誌』P21から

 

このように、「いま」の肌理を知ることは、つねに「あのとき」との対比が要請される。だから、これ以降の記述では、「いま」を知るために必要と感じられた限りで、「かつて」の話も書いていく。

 

■交流人口として

双葉郡町村および浪江町は、復興にあたり「交流人口」(あるいは関係人口)の拡大を、重要な指標に掲げている。

「交流人口」とは、そこに住んでいなくても、住民票を置いていなくても、労働あるいは観光・商業利用などの立場から、その町に訪れ、関わる人たちの人口を指す。

浪江女子発組合が、他地域から組合員の「あいのり」を誘うことも、町役場目線の用語で言えば、「交流人口」の拡大施策に位置づけられるだろう。

 

自分は浪江町民ではない。浪江町の居住人口・住民票登録人口の1になることはできない。しかし浪江町を「知ること、行くこと」で、「交流人口」の一人になることはできる。その一点に希望を持っている。

 

浪江町の「当事者」を称することはできないが、浪江町を「他人事」だと思っているわけでもない。

そんな「交流人口」のあり方として、以降、賑やかしの文章を書こうと思う。

 

(つづく)