ある炎上――シュナムルと社会性昆虫

■はじめに

俺はつい先月(つまり2025年6月)、Twitter(現X)で2回ほど、弱めの炎上をした。どちらも「性」の問題による炎上だった。

1回目は、6月中旬、このツイートに連なるツリーである。一行に要約すれば、俺が女性を「触りたい」と思う欲望は、女性を物象化し、客体化するものであるという(すなわちヤリモクならぬサワリモクの)謂れを受けた。

 

2回目は、6月下旬の、このツイートである(このツイートを以降Aと呼ぶ)

 

投稿した2日後、シュナを名乗るアカウントに(もともとはシュナムルという名前で古くからTwitterで通じる存在だそうだが)この引用ツイートをされた(以降これをBと呼ぶ)

 

 

いま書いているこの文章では、より最近のほうの、A,Bの後者を振り返りたい。

振り返る理由は、炎上当時さまざまに寄せられた批判や誹謗中傷により、俺の考えと他人の考えが混然として人々の中を駆け巡るのを目にしたとき、自己の輪郭を今一度なぞり、その結果を、自他に向けて確かめておきたいと思ったからだ。ドゥルーズが言うように、言葉とは、つねに本源的に、外部刺激に喚起される。

 

以降、書き連ねる文章は、骨子を手元のスマホ(Notion)に書き留めておくだけなら、炎上がおおむね収まった翌日には済ませていたし、本当ならさっさとその文章を解凍・清書し、ぬくもりが残るうちに排出したほうがよかったのだが、いま勤めている仕事が繁忙期のただなかにあり連日22時前後まで残らされる労働の傷みを快癒すること(すなわち睡眠)を週末優先してきた怠惰で、1ヶ月弱を経たこのタイミングになっている。

 

■事象概観

俺はAのツイートの中に

ペドフィリアを「実行しないよう自己を律しながら、その欲望を持つことと表明すること」は悪かどうかが議論されてるのを見かけた

と書いているが、「見かけた」ツイートとは、これら2つである。

 

これらに喚起され、高橋泉『雨降って、ジ・エンド。』がまさにそういう問題をユーモラスにえがいた映画だったなと想起し、Aをツイートした。

 

いかなる性指向も、その「内心の自由」は憲法上保障されている。だが、セクシュアルマイノリティの中でも、特に劣位に見られ、「〇〇解放運動」的な共闘の輪から外される性指向がある。その代表に、性指向の実現――特に性器結合としてのそれ――が果たされたとき、犯罪につながるペドフィリア小児性愛)が挙げられる。あるセクシュアルマイノリティに属する「私たち」は、さまざまな少数派を包摂すべきだと日々訴えているが、たとえば、ペドフィリアとも共闘できるだろうか。マイナーな性指向の集団間で、自分たちがシスヘテロからされている”透明化”を、私たち自身が特定の性指向(感性的にはおぞましいと感じるそれ)に対して行なってしまっていないか、という問いを、一種の思考的「試練」として自分らに投げかけるという自己批判の型は、90~00年代に活発化していたクィアスタディーズの圏内に伝統がある。そして、その問いを、フェミニズムが(ある種、問いそのものを”禁止”するように)批判するというのもまた連なる伝統であり、多くの人々の目についた分かりやすいところでは、伏見憲明『欲望問題』を、上野千鶴子『ニッポンのミソジニー』が批判的に取り上げたこと等が挙げられるだろう。Aで紹介した『雨降って、ジ・エンド。』自体が、まさにそういう論争の極めて高度な戯画化作品とも言える。

 

Aのツイートは、当初はおおむね肯定的に反応されていた。1,000以上のいいねのインプレッションがついていた。「そんな映画があるんだ、興味深いな」という関心が大半だろうが、「ペドフィリアとて性指向の表明までに問題があるわけがない」という近代的な自由原則の再確認に、複雑な観念的操作も要さず共感が寄せられていると感取しても、そう齟齬はないだろう。

 

ただし、このツイートは、弱めにくすぶってもいた。「ペドフィリアの表明」に何ら問題ない、と断言する部分に対してだ。

 

 

この手の批判については、以下のツイートでも振り返ったが、通知欄に見かけたらできるだけ反論しておくようにした。

 

 

だから上に挙げたツイートも、引用返信をチェックすれば、だいたい俺が「こいつ何言ってんの」という思いを、多少なり論理という普遍言語に変換して返しているのが見られる。

 

さて、Bのツイートである。ある朝、出社の支度をしながらスマホチェックをしているとき、オンタイムでこの通知が目に入った。

 

 

こののち少々間を置いて、Bの引用がついた。「本旨」はもちろんBのほうだろう。なるほど、(ニーチェが頑張って書いたツァラトゥストラのタイトルを書き間違えたのは俺の責任であり赤っ恥だが)前もって恥をかかせておき、ありうる反論の勢いを削いでおく。高台から海に飛び込むとき石を投じて水面をほぐしておく、あるいは塹壕へ進撃する前に手榴弾を投げ入れる、といったのと同じ”工夫”がされているな、と思い、眺めた。こんなにマメな”工夫”をするのはどんな人間だろうと相手のページを覗くと、「フェミニスト」という自己紹介および、3万人超のフォロワー数が否応なく目に入った。ああ、なるほど。自分に向けられたものとしては初めて見るが、これがTwitter(現X)で日々言われる「犬笛」と呼ばれるものなんだろうな、と直観した。

 

直観は当たっていた。このあと、モードチェンジのスイッチが押されたように、批判的な引用が数分おきに通知されるようになる。「批判的」と言っても、カントが打ち立てたcriticの意味合いの(いわゆる物事の吟味するような)「批判」とはまったく似ても似つかないそれである。

 

「犬笛」は、SNSにおけるインフルエンサー本人が意図する・しないにせよ、事実その機序と構造は存在することを、このほど肌身に実感した。引用やリプライで攻撃的に反応してくるアカウントの数々の、おおむね一致する特徴はこうである。まず、性加害の惨たらしさを訴え、俺を、その機序を温存しようとする擁護者と見なし、攻撃する。こちらから相手のページを覗くと、だいたい似たイシューに対し、引用ツイートで批判することを習慣化し、日々の営みとしているアカウントである。だいたいのアカウントが自身の生活やアイデンティティを露出することを禁欲的に避けているよう伺えることからも、本体とは別に設けた一種の「専垢」「別垢」らしきことが伺えた。そういう手合いのS-Sports(ソーシャルスポーツ)のアスレチック場に、俺は選定された。

 

上に書いたとおり、自らに寄せられた批判や誹謗中傷に対し、逐一反論する場合と、静観する場合とで、どのように結果が変わるかの検証には適していると思った。そのため、できるだけ引き続き反論した。ただし、俺のもとに寄せられる罵詈雑言の物量が跳ね上がったことで、「すべてに返す」ことは土台無理になった。なおも「すべてに返す」ことがフェアであると考えてそれを励行するなら、ただちに仕事を辞めてTwitterにフルタイムを捧げる人間にならなければいけない。町山智浩Twitterのやりすぎで、本業の原稿執筆で〆切を落としまくっていると言われるそのことの力学が、いまならよく分かる。だから、俺は返信相手を絞り込んだが、ここで俺が偉いのは、こういう「レスバ」と俗称されるコロシアムに放り込まれた多くの人間が行う、相手方のうちもっとも知的に質の低いツイートを拾い上げ、その破綻した言葉のあやを弄ることをもって相手方の集団単位にまとめて”言い返したことにする”という小賢しさの利活用を、自らに堅く禁じた。あくまでも起点かつ本丸で、そして(論理的な問題点は後ほど触れるが)日本語の文法をおおむね破綻なく操るシュナムル単体への返答に注力した。

 

シュナムルのBをきっかけとし、批判的引用は数分おきに寄せられる。しかしここにあるのは、複数の声であるが、単一の論理である。一つずつはそう違わない。彼ら彼女らにとって大事なのは、声voiceをあげて怒りのリビドーを発散することであって、まだ見られぬ論理を議論の先端に積み重ねるような「考究」にはさしたる興味を持っていない。だから、おおもとの論理の出どころであるシュナムルに対し、俺が反論を書いて、相手方のロジックを脱臼させると、「これ(demio)にどう言い返すか」が相手方の集団内で微妙に面倒な「誰かに拾ってほしいボール」になる。しばし批判的引用が、目に見えてグッと減る。しかし、シュナムルがさらに俺へ反論を返すと、また他のアカウントたちも続くようになる。たとえば、ある工場でマニュアルに書かれていないエラーが発生すると、ライン長が駆けつけ、臨時で解消策を導き出し、実演してみせる。すると工員たちがそれを反復し、生産ライン――すなわち批判や誹謗中傷が再び回り始める。こういう産業社会とそう変わらないサイクルを一日二日、強制的に見せられた。炎上など毎日手を変え品を変えTwitterのそこいらで見られるが、他人の炎上からは読み取れない、これは当事者だけに見える景色だなと思った。

 

ひとまず、「逐一反論する場合と、静観する場合とで、どのように結果が変わるか」の検証結果は得られた。静観するよりも、逐一反論するほうが、圧倒的に、人格の汚損を目的とするような侵襲的批判を抑えることができる(少なくとも、相手の餌になるような破綻した論理を、こちらがこぼさない限りは)。むしろ静観は、凶器を振るう手に安心感を与え、その数を増加させる。ネットスクラムを仕掛ける群衆は、一見、滅びの笛に導かれた無思考なネズミやイナゴのようで、実は案外「ここに飛び込むと怪我するかどうか」を、一匹ずつが見定めている。だから俺がそこそこ反論していたおかげか、あらかじめ「言い返し」を回避する先行ブロックをしたうえでの引用・リプライも、今回はやけに目立った。

 

だからこそ、俺が仕事に忙しく、昼休み明けから22時すぎの退社までTwitterをほとんど見られずオフラインにいたときは、Aのツイートに、長時間生ゴミを置きっぱなしにしていた三角コーナーに湧く小蝿のように、多くの引用が発生・蓄積した。放置が量を生む。俺は町山智浩にはなれない。

 

以上のように、自分への批判の数々をただのマッス(集塊)として事象的に捉え、そこで寄せられた批判の論理に向き合わないのは不誠実であり、逃げであり、かえって敗北者の無様さを曝け出しているだけだと、そういう謂れを寄せられるだろう。

分かっている。

炎上当時すでにシュナムルに答えた内容に一定の文字数があるが、そこにさまざまな補助線や整理を引きながら、(本当ならわざわざ言うのも恥ずかしい当たり前の話を多く含めながら)答えていこうと思う。

 

■反論

シュナムルのBに初めて応じたのは、このツイートだが、反論の要旨は、このとき書いた「藁人形論法」だということ、その初心に尽きる。

 

※一応「藁人形論法」の意味を書いておくと、相手の主張を過大にねじ曲げて引用し、容易に倒せる状態(藁人形化)したうえで反論を行うというものだ。対象そのものではなく、それに似せて自らが作った藁人形を攻撃する。ググってすぐ引っかかる例は下記である。

「子供を道路で遊ばせるのは危険だからやめた方が良い」という主張に対して、「子供を家に閉じ込めておけというのか、それはひどい」と反論するのは、藁人形論法の一例です。実際には「子供を家に閉じ込めておけ」とは誰も主張していないのに、あたかもそれが主張であるかのように歪めて反論しているからです。

 

俺がAで書いた、以下の前半部を、以降A+と呼ぶ。

ペドフィリアを「実行しないよう自己を律しながら、その欲望を持つことと表明すること」は悪かどうかが議論されてるのを見かけたけど(そんなの少しも悪くないと分かりきっているけど)

 

シュナムルは、A+を、Bの中で以下のとおり引用した(以降これをB+と呼ぶ)

「子どもレイプしたい」という欲望を表明した人に対して「その表明は少しも悪くない」と親指立てる社会、俺は怖いな。

 

さて、「子どもをレイプしたい」と「表明」することは悪であると書かれたが、「そりゃそうだ」に尽きる。そして俺はそんなことを書いていないため、「知らんがな」に尽きる。

※ちなみに、シュナムルはBで続けて、「言うだけなら自由!と称してマイノリティへの加害欲を垂れ流すのって一般にはヘイトスピーチって言うよな」と論難しているが、「ヘイトスピーチ」の説明としてだいぶ不適当な気がする。なぜなら小児性愛者は小児を嫌悪hateしておらず、ただ方向性が反社会的なだけで熱烈なloveを訴えているのだから…。

 

たとえば、インターネット上で、あるいは小学校の全校集会で「小児をレイプしたい」と言えば、高確率で通報され、社会的地位の喪失を最低限とし、次に威力業務妨害や脅迫罪で書類送検されるだろう。

だが、そうした状況に立ち会った人間が、第三者に状況説明をするとき、「○○さんがペドフィリアを”表明”した」と述べる人間はまずいないだろう。ふつうに「小児をレイプしたいと言い出した」と説明するだろう。つまり「表明」とは本来、事実陳述的constativeな言表だが、「レイプしたい」と言うことは、すでにそれ自体が加害の行為遂行的performativeな言表側に位置する。

このあたりを、俺はこう指摘した。

 

 

事実陳述的constative/行為遂行的performativeという対比的な用語は、哲学にある程度明るい人間ならおなじみの、J.L.オースティンの言語行為論のタームである。俺がこの概念を用いたのは、ある言表が「表明」なのか、あるいはすでに加害「行為」なのかの区別に、この概念による整理が適合すると考えたためだ。

オースティン自身が用いた例を元に説明するなら、ある船の名前を尋ねられた人間が「あれはエリザベス女王号です」と答えることは事実陳述的であり、いっぽう、船長が完成したばかりの船首に瓶を叩きつけながら「この船はエリザベス女王号と命名する」と言うことは行為遂行的である。言語はふつう、何らかの対象・状況・構造を描写的に述べるツールのように捉えられているが、しかしときに言語は、それ自体が行為を成す効力を持っている。約束、宣誓、命名、任命、発令、プロポーズ、あるいは相手に特定感情を喚起する脅し言葉などだ。

 

「小児をレイプしたい」と述べることは、ペドフィリアの「欲望を持つこと」すなわち性指向の表明を越え、上に書いたように、脅迫や威力業務妨害といった具体的な罪名を持つ「悪」に当てはまりうるだろう。

「当てはまりうる」と書いたとおり、これとて断定的な話ではない。たとえば、小学校の保護者会で言うのか、たがいの人となりを知り合った成人男性同士の友人の会話で言うのかによっても、「悪」の程度はだいぶ増減する。少なくとも、小児や異性といった性愛の対象者が排除されたことがあらかじめ確認された場であれば、その「表明」に加害・被害の関係性は成立しない。(一応、しつこく確認するが、レイプそのものではなく、その「欲望の表明」に関してである。)

 

このように、言表上の加害行為を成立させる行為遂行性performativityは、「行為の具体性」と「対象の具体性」が、その多寡を左右するパラメータになる。パラメータの例を挙げるなら、以下のようになるだろう。

 

行為の具体性)

↑事実陳述的

 私は小児が好きだ

 私は小児性愛者だ

 私は小児と恋愛したい

 私は小児とセックスしたい

 私は小児をレイプしたい

↓行為遂行的

 

対象の具体性)

↑事実陳述的

 子ども

 うちの近所を登下校する子ども

 ○○小学校の子ども

 小児個人の固有名

↓行為遂行的

 

全パラメータの行為遂行性を最強に振り切って、「○○小学校の○○ちゃんをレイプしたい」と言うなら、それはもはや「表明」ではない。ないし、それを「表明」と解釈し描写する第三者はいない。

以上を言えば、行為遂行性はグラデーションである。行為遂行性を高める諸要素があり、それが織り重なって徐々に行為遂行的な言表になる。どの一線を超えたら行為遂行的ですでに加害行為であるという基準を立てることは難しい。しかし、少なくとも、シュナムルがB+で「小児をレイプしたい」と表現することは、「表明」という語の本来持つ事実陳述性を伏せ、ダイヤル調節機を行為遂行性のほうへ全力振り切っていることは間違いない。だから、藁人形論法なのだ。

 

このように述べるなら、俺がA+の中で、

ペドフィリアを「実行しないよう自己を律しながら、その欲望を持つことと表明すること」

と書いたのは、一体どのような言表をイメージしていたのかも、一定触れておく必要があるだろう。

 

言表のモデルとなるうち、一つは、上にも挙げたこのツイートである。

 

もう一つは、Aで紹介した映画『雨降って、ジ・エンド。』の内容もまた、当然に「表明」方法のイメージ源にある。

(以降は『雨降って、ジ・エンド。』の盛大な「ネタバレ」のため、再上映、配信、ソフト化がまったく未定の本作ではあるが、いずれまっさらな気持ちで観たいと思う人は、次の一段落を読み飛ばしてほしい)

 

作中、ピエロに扮する男は、かつて小学校教師を務めていた。男は教職当時、ある不登校の女児に対し、担任教師として懸命のケアをしながら、次第に恋慕の念を持つようになる。その許されなさや、生来不安定だった精神衛生の失調から教職を辞め、そのまま社会的にドロップアウトする。男は貯金を切り崩しながら、街の公園に出没するアマチュアのピエロになる。映画の終盤、主人公女性の介入を経て、男と女児は再会させられる。そして男から女児へと愛の告白の場がセッティングされる。(という無茶苦茶な展開に至るまでの流れは、ドストエフスキーのダイアローグを思わせる複雑な操作さがあるが、それはさすがに各々実作で確かめてほしい。)

男は女児に対し、どうこうなりたい(つまり交際等の関係構築)ということはないが、ぼくは君が好きなんだ、と伝える。女児は、きょとんとした平然な様子で、あれだけ私を支えてくれた先生なんだから、私も先生のことが好きですよ、と答える。むろん、この女児は「好きな人」ではなく「好きな先生」に対して、そう応答している。男は、この「すれ違い」に安堵を覚え、「すれ違い」の関係のまま終わることを選ぶ。女児は久しぶりに会いに来てくれてありがとうございますとお礼を述べ、男はこちらこそと返して、別れる。

小児性愛者は、恋慕対象の女児を愛おしく思うからこそ、その子を愛することと壊すことが自らの性指向において不可分につながっていることへの自己批判が、当然に、作中の男の中にも備わっている。

 

以上が、「ペドフィリアを『実行しないよう自己を律しながら、その欲望を持つことと表明すること』」と書いたことの念頭にある。

もし具体的な文例を考えるなら、「実際に行動に移すわけではないが、私は小児性愛者です」と述べる程度だろう。このような事実陳述的な「表明」に関して、あらためて言うが、問題があるとはまったく思わない。

何らかの犯罪に該当する欲望を持ちながら、それを実行せず欲望のレベルにとどめておくことなど、大げさでも何でもなく、人間が一般的に備える「仕様」に過ぎないし、何なら、それは「善人」の範ちゅうにすら含まれる。

 

俺が上に書いたような「表明」の文例に対し、シュナムルは、主張を「後退」させた結果だと言い、自らのフォロワーたちに対する勝利宣言を結んでいる。

 

 

しかし、独自に暴力的かつ行為遂行的な言辞に置き換え、俺の知らないところで藁人形を燃やし始めたのはシュナムルのほうで、俺は一歩も動いていない。

シュナムル曰く、俺のA+を、「特定マイノリティへの性加害を表明する」と言い換えたのは、ペドフィリアは欲望実現がすでに犯罪であり加害であるから、欲望表明は加害表明に他ならない、というものだった。(だから自らは藁人形論法に該当せず、正当な引用をしているらしい。)

 

三段論法を経た、だいぶ主張者本人の解説をつけて初めて成立する狭義的説明だが…「小児性愛を表明する」ことと「小児をレイプしたいと言う」ことの間には、一投足ではたどり着かない距離がある。だから、俺はこう返した。

 

たとえば、この社会の性犯罪の9割以上は異性愛者によって起こされている。彼らの欲望は、少なくとも欲望のレベルでは相手との合意の有無など含まれていないから、性欲があること、性指向を表明することは犯罪の示威になる、と言うことができる。だが当然、それはそう解釈する側に強引な”力”が働いている。小児性愛者*の場合も、性指向が、法の一線を越えないよう自制する管理責任を、その者もまた一市民citizenであることから等しく課せられている。

*ここで注意するが、精神医学上の小児性愛”症”者ではない。小児性愛症者は、欲望の抑止が本人で管理することに困難が生じているケースである。小児性愛者と小児性愛症者の2つを混同することは、異性愛者の場合なら、通常の性欲を備える人とセックス依存症者と区別なく捉えるほどの飛躍がある。

 

性指向を表明することなど、それが犯罪と密接に結びつく性指向なのかどうかにかかわらず、上で確認したように事実陳述のレベルにとどまるなら、行為遂行性を持たせないよう万人に課せられる当然の配慮を持てば、それは何ら問題ないのだ。

これが「内心の自由」および、それと不可分である「表現の自由」の原理原則だが、Aのツイートを批判する者たちは、そうした自由原則を逸脱した問題点を、小児性愛に見いだしているだろう。つまり、お前は小児性愛の問題の深刻さを分かっていないのだと。

 

■可能性と差別

なるほど、ペドフィリアはたとえ個々人が自制に成功しようが、属性としては性犯罪の可能性が高い母数集団であると言うことはできるだろう。しかし、それはペドフィリアに限った話ではない。統計的に犯罪率を高く持つ社会属性は、ほかにもさまざまに存在する。

特定の人種、移民、難民。無差別テロを擁したことのある宗教。暴政の歴史を持つ政治思想。治安の悪い地域出身者。これに当てはまる人が、たとえば就学・就職・結婚等といった人権(自由)の行使場面で、加害の可能性が有意に高い属性保有を理由にし、ひいては周囲が不安や恐怖を持つことを理由に、制限を課されるとするなら、それを現代社会で何と言うか。

「差別」である。

ある社会属性の犯罪率が、その個人から実際に顕現されるかどうかは、「可能性」でしかない。「可能性」を理由にし、犯罪が行われることの司法的現認を待たずして、私人が人権の制限を課すことは、すなわち人権の侵害である。逆に、犯罪の司法的現認を踏まえたときは、拘留や服役といった形で「移動の自由」その他諸々の人権を制限する処罰が妥当性を持つ。言い換えるなら、「可能性」を理由にし、「内心の自由」「表現の自由」を先行的に制限すること(そう求めること)は、司法の手続きを経ない「先行処罰」なのだ。

 

こういった話で容易に思い出すのは、フィリップ・K・ディック原作で、スピルバーグによって映画化もされた『マイノリティ・リポート』である。近未来の米国ワシントン州では、警察署が3人のプリコグ(預言者)を擁する。プリコグに将来の殺人事件を予言させると、3人は毎回一致した予言の内容を返す。これにもとづき「未来犯罪者」の逮捕を司法運用した結果、州の殺人件数がゼロ件になる。しかし、ある日プリコグのうち一人が、予言の不一致を起こす。プリコグの二人は主人公ジョンが殺人を犯す場面を予言するが、残る一人はその未来をいくら視認しようとしてもできない。この不一致の実績から、プリコグの予言は完全なシステムでないことが判明する。「ありうる犯罪」の母数を予言として出力し、そのうち実際に犯罪が行われるかどうかは、個々人の自由意志の働きで変動する。「未来犯罪者」に対しては、過剰な逮捕が一定存在する。それでもなお、過去から得ている実績的にはほぼ9割以上の精度が認められるだろう。そうした「絶対ではないが高確率で犯罪を行う者」に対する逮捕は妥当かどうか、という映画である。これはもちろん、原作者ディックなりの、アメリカの白人中産階級が有色人種に持っている差別心と、それにもとづいたセキュリティ意識(有色人種の犯罪実績を脅威化し、同時に自分たちを受難者化し、”未来犯罪者”たる有色人種たちの居住・就業・就学・婚姻における隔離を求めること)を風刺した小説・映画に違いない。当然、「可能性」に対する先行処罰=人権制限は、許されるべきではない。『マイノリティ・リポート』も最後、大勢の「未来犯罪者」を釈放して社会に解き放ち、そうする不安や恐怖がありながら、それでもなおそうすべきなのだという教訓で締めくくる。

 

これは法や倫理の形式的な問題である。この形式を死守しなければならない。ペドフィリアは、形式に挿入される一つの変数(さまざまにある社会属性や犯罪の個別名称の一つ)に過ぎない。俺はそもそも児童性犯罪という個別イシューに対し、一家言ある人間ではない(だからこの文章を書きながら、「なんで俺がペドフィリアの話をこんな書いてるの?」とずっと思っている)。ただ人権というものを大切に思う左翼の一人である。だから、「○○は例外的に内心の自由表現の自由を制限すべきである」と訴える者たちがいるとき、ほぼむき出しに透けて見える恣意性および、「例外」を自分たちが設定できるのだという全能感に警戒しているに過ぎない。

こう書くと、「児童性加害の問題を分かっていない」「ペドフィリアはその他の性指向とは別物なのだ」と抗弁する向きがあるだろう。しかし、加害・被害その量によって変わる話をしていない。「法や倫理の形式的な問題」だからだ。

自分のこういった考えは、それほどに特殊な視座だとは思わない。Aのツイートには、元々1,500ほどのいいねのインプレッションがついていた。特定の性指向において「表明」は許容されないという考えに対し、疑義を持つ人間はふつうにいる。いまTwitterのいいねに公開性はないため、名前を挙げることは控えるが、性暴力とはほど遠いところにいる倫理的・知的に信用する友人知人、あるいは大学教授や文筆家、ミュージシャンもいた。もし、これらの人たちがもろとも性犯罪の擁護者・推進者と言われようが、その実態がないことは先んじて分かっている。

 

■悪魔化demonization

俺は性指向上、特に小児性愛者ではない(これは政治的な”エンガチョ”ではなく、当事者性を持たないことの自覚的表明である)。

Aのツイートも、ペドフィリアを外在的に捉えた文章で書いているが(ないし自分自身がペドフィリアであるとは一文字も書いていないが)、俺を引用で批判する者の多くは、俺を小児性加害の擁護者であると訴えてきた。中には、俺自身に「ペド野郎」と言う者もいた。つまり、まず憎むべき中枢――この場合はペドフィリアがいて、「私たち側につかない」者はすべて悪の中枢と同化させられる。そして、ペドフィリアによる性加害の凄惨な歴史があり、その賛同者たる一員に認定される。これを最近の用語では「悪魔化demonization」と言うだろう。藁人形論法とほぼ兄弟関係にあるような詭弁的攻撃手法であり、知ってはいたが、自分自身が事象観測の場になると、新鮮な知見が多かった。

こうした性加害の問題を訴える者たちは、切迫性urgencyを資源にし、主義主張を行う。もっとも切迫した受難者を”私たち”は擁している(あるいは匿っている)。この解決のためには、一刻も早く原因たるエネミーを、超法的に公共空間から排除しなくてはならない。こうした「緊急事態」の観念は、時間をかけて議論し、異なる視点を突き合わせる政治的熟議deliberationを抑制し、必要性necessityの旗印のもとに、迅速さを重んじた一元的な意思決定を優先させる。だから(以上のボキャブラリーの元である)ハンナ・アーレントは、たとえばナチズムやスターリニズムがそうであったように、私たちは外敵に脅かされているのだという切迫性を掲げた政治動員は、公共性に対する脅威であることを、著書『全体主義の起源』の中で指摘した。対象の「悪魔化」と、自陣営の「受難者化」。このワンセットで切迫性を備給したことをもって、自分たちが対象に向けて何を言っても例外的・超法的にこれは人権侵害にはあたらないというコードセットを完了させる。

そうした概念操作の結果の”アスレチック場”を見たければ、Aのツイートの引用欄を覗けばよい。

俺は、たまに遊びにくる進学前の幼い姪たちが一緒にお風呂に入りたがるのを、親御あるいは将来の彼女ら自身がどう思うか分からないことを理由に拒否する程度に、小児性愛には、一般常識的な慎重さを持って接している。そんな中で小児性加害の推進者であることの批難が数分おきに通知されてくるのは、この人たちがイメージする憎悪の対象をインターネット上でふと見かけた俺に投影してきているだけで、シャドーボクシング(いわばただの筋トレ)をいちいち通知機能で見せられている気分になった。いずれも俺の自尊心を傷つけ、人格を汚損することを趣旨とした批判のため、一つずつに「どうだ、痛いか?」と問われるようだったが、味噌汁をすすりながら落ち着いて読むことができた。

この勢力に感じた印象をもう一つ付け加えるなら、蟻や蜂の社会性昆虫に似ているということだ。まず偵察役の一人がいて、フェロモンで「ここに敵がいるぞ」と発する。するとそれを合図に同種の虫が大挙する(自然発生的ではなく、あくまでもインフルエンサーの人為的号令がきっかけになっている)。一匹ずつの成員にも階級差があり、上述したように、論理を一から構築できる上級成員と、それを眺めたら反復する大半の下級成員に分かれている。発端たるシュナムルがあるタイミングを境に「引き上げた」とき以降、帯同者たちの引用通知もほぼ同期して鳴り止んだ。統制の見事さと、統制の不気味さを同時に感受した。一層不気味なのは、「炎上」が終わったあとも、シュナムル側のツイートを拡散しフェロモン発散に協力していたいくつかのアカウントが、いまも俺をフォローしていることだ。純粋に俺のツイートが楽しみでフォローしているわけはないと思う(そうだったらウケる)。この後も引き続き、俺が性問題についてナメたことを言わないか監視し、いざ再発があれば仲間を呼ぶフェロモンを発するのだろうか。あるいは、もっと単純にS-Sports(ソーシャルスポーツ)を再び楽しめる可能性が高い”餌場”をマーキングしているだけだろうか。一度餌を得られた場所に、再訪可能なようにフェロモンの道しるべを残すこともまた、蟻や蜂に見られる習性である。ないし実際に「蜂」を名乗っているやつもいた。

 

 

こうしたシュナムルとその帯同者たちに言えることは、全能感と自己中心性である。「小児性愛の表明」を是とするツイートに対し、これは「小児への性加害」を是としているのだと批難する。そんな文意はどこにも書かれていないが、自分たちが攻撃し慣れた形に独自に読み替え(その自覚は持っていない)、作りあげた藁人形に、映画『ウィッカーマン』さながら火を放つ。

「そんなこと書いてないがな」と当然の事実を反論されると、相手側の「後退」や「詭弁」であると、天動説さながら、あくまでも自分たちの視座からそう見えるだけの世界を述べてくる。悲しいことに、彼ら彼女らは、おそらく本心からそう言っている。自分の視座から拓ける世界が、他者の心にも反復されているはずであると考えることを何と言うか。「幼稚」である。たとえばジャン・ピアジェが幼児の心理的特質(幼児の心を大人と区別しうるもの)を、心像の「自己中心性」にあると整理したが、これは2~7歳児の特徴である。

 

■「性愛」理解

論旨への反論はおおむね以上となるが、最後にAppendixを添える。

 

シュナムルとの直接のやりとりは、このときを最後としている。

 

当時、午後から外出の用事があったため、時間的制約でこれが最後になった。だが、家を出る準備をしながら、シュナムルの応答を見て、「??????」と思った箇所がある。この「性愛」の理解である。

 

 

フェミニストかつ読書家を自称するなら、この「性愛」理解は通常ありえない。「性愛」はエロい行為で、恋愛は告白やデートで、という相互排他的な定義は、一般人が会話で用いる語彙としてのそれだろうが、元来「性愛」とは、明治期以降、西欧のロマン主義文学や心理学(あるいは後年の精神分析)が学術的に概念化するセックスと親愛関係の複合・総称的なものを指して呼んだ概念の翻訳語である。つまり「性の愛」ではなく「性と愛」である。より今日的なフェミニズムジェンダー論の文脈で「性愛」と言うなら、当然フーコーが『性の歴史』で言うセクシュアリティ、その実践を広く指す言葉である。

ここでの「性愛」は、性を巡る社会規範も広くスコープに入れられている。いわば「性別を要件とした愛の営み」全般を広く指すと言ってもよい。たとえば親子愛や師弟愛は、その間柄で双方の性別を要件としないが、パートナーシップや夫婦愛は性別を要件とするから性愛である(パンセクシュアルを除く)。そこで営まれること全般(セックスのみならず)が性愛である。上野千鶴子が80〜90年代にセクシュアリティ研究をしていたときも、性愛はこういうタームだった。フェミニストの読書家で、上野千鶴子を読んでいないことがあるだろうか…。否、上野千鶴子などいまやフェミニズムの中でも古く、教条側に堕している等々言うとしても、性愛はセックスで、恋愛は別物でというのは、あまりにもフェミニズムが仇敵としたロマンティックラブイデオロギーの語彙に偏っている。「恋愛」の名のもとに性の問題を私的領域に閉じ込め、批判的分析対象からそらし続けてきたことの反省から、より物質的・社会制度的に捉えるために「性愛」というタームが使われてきた歴史は、フェミニズムあるいは、ジェンダーセクシュアリティの入門的な本を数冊読めば、容易につかめるはずだ。

 

「シュナムル」で検索すると京大卒らしいが(その学歴の真偽がいろんな人に死ぬほど検証されていたが(ただしそういうアルファアカウントの”相撲”は面倒なので読んでいないが))、先入観なくまっさらな気持ちでやりとりをした立場から感じ取ったのは、「こいつ、SNSで”怒る”ための材料に詳しいだけで、言うほどにはジェンダーセクシュアリティについて知らなそう」ということだった。

 

こんなことを言えば、そういうお前はフェミニズムの何を知っているのだ、という謂れもあるだろう。フェミニズムについて専攻のレベルではないが、「人文の徒」の水準程度には読んでいる。上野千鶴子竹村和子の主要著作(上野千鶴子は、門下の北田暁大が言うように、マルクス主義フェミニズムの理論紹介をしていた時期はおもしろかった)に、フーコー『性の歴史』、ジュディス・バトラージェンダートラブル』あたりの重要書は最低限読んでいるし、バトラーとともに英米の第三波フェミニズムを牽引したゲイル・ルービンなら、まだ単著の翻訳がされていないため論文掲載誌を買い集めて読んでいる程度に、フェミニズムには分野的関心を持っている。マルクス主義フェミニズムへの強い共感から、クリスティーヌ・デルフィやマリアローザ・ダラ・コスタも読んでいる。その他、細かい著作は挙げるにきりがない。無論、批判するための斜め読みではなく、”学徒”の態度で読んでいる。「性の不平等」を構造的に理解するための言葉は、いまだ男よりもこうしたフェミニストたちの理論的著作のほうが豊潤さにおいて圧倒している。

ただし俺の最終学歴は高卒であり、「人文の徒」としての制度的訓練を受けたことはない。この程度の「単に本を読んできた」だけの、肩書きを持たない剥き出しの個体だが、それでもシュナムルに対し、容易に直感したことがある。もう一度言うが「こいつ、言うほどにはジェンダーセクシュアリティについて知らなさそう」だ。実際はこの程度に詳しい、あれやこれを知っているのだと返されようが、「知らない」人間でないと到底行わない応答を、俺は今回現認した。その事実性はくつがえらない。

 

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以上ここに書いた考えは、俺個人の怒りである。何らかの派閥をレペゼン(代表・表象)しようとしたものではない。

 

もっと直接的に言えば、”アンフェ”(アンチフェミニズム)の一員になったつもりで文章を書いたわけではない。上の段落でフェミニズムへの尊敬感情を書いたとおり、もしこの文章を読んでいる人のうちに、俺に”アンフェ”を期待している人間がいて、Twitterでフォローもしているなら、早いうちに解除してほしい。

 

俺は(第三波を中心とした)フェミニズムを尊敬しているために、こんにちSNSに跋扈するその”紛い物”を軽蔑しているだけの男だ。

この区別への無理解を、俺は厭う。