『わたしは真悟』とは、ある工業用ロボットが「意識」を持つ前後過程の物語である。
ある町工場に、アーム型の工業用ロボットが導入される。それは工場の生産性を飛躍的に改善するその魅惑的な力から、「モンロー」と名付けられ、やがて無能な作業者たちを不況を理由にレイオフする無慈悲な道具になっていく。主人公のさとるは、モンローの操縦役を任された作業者の息子である。そのことから、彼は工場に忍び込み、モンローに言葉や画像を憶えさせる遊びを行うようになる。ある日、学校ぐるみで父の工場を見学した帰り、別の学校から同じ目的で訪れた少女まりんと出会う。出会うと言っても、二人はすれ違いざまに互いの顔を視認しただけだが、そのモメントで相互に得た「ぼくは/わたしはこの人を愛している」という確信から、二人は夜にまた、約束もなく示し合わせたように工場で再び出会う。
さとるとまりんが「愛し合う」ことは、「約束せず偶然出会うこと」と「互いを視認する(見つめる)こと」のセットで繰り返される。それは、初めて出会ったとき、夜の工場で再会したとき、夏休みの初日(これから気兼ねなく愛をはぐくめる歓びの幕開け)に地下鉄の入口で出会うときに繰り返される。(だから、やがてまりんの親に二人の仲を引き裂かれるときは、さとるが「地下鉄の入口に立っていても会えない」ことが印象的に描かれる)
さとるとまりんが出会うシークエンスには、『わたしは真悟』の直前作『まことちゃん』(サンデーコミックス)の最終巻に、その原型がある。まことちゃんは「のろのろ電車」と呼んで愛する都電荒川線に乗り、早稲田―三ノ輪間の往復を繰り返しながら、窓の景色を愉しむ。ある日、線路沿いの家屋の窓に、女の子の顔を見る。まことちゃんはその日の晩、唐突にしかし確信的に、明日彼女に「絶対に」会いにいくことを決意する。
いざこの家だとあたりをつけて飛び込んだ先で、あの女の子は、独り暮らしする老婆のおねしょを乾かすとき窓に付着したシミの見え方でしかなかったことを、まことちゃんは知らされる。彼の「初恋」は対象ごと霧消する――のだが、その少女の白みがかった髪の質感と、遠くから眼をはじめ顔の個々のパーツがぼんやり震えるように映る(にもかかわらず、その人が確かに愛おしい人であることだけはすでに確信できる)その描法に、『わたしは真悟』のまりんの原型を、疑いなく発見する。
『わたしは真悟』に戻る。逢瀬を重ねるさとるとまりんは、モンローに言葉を教える。画像認識パターン(イメージ)と、言葉を紐づけさせ、語彙を与えていく。その蓄積を経て、二人がモンローに最初に求めたことは、「占い」的な遊びだった。蜘蛛の巣を見せ、天気予報を要求する。晴れという答えをたずさえ、小川公園に向かうとモンローの予報は外れ、二人は土砂降りに襲われる。そういう戯れのうちにさとるとまりんは愛をはぐくんだ。
やがて、まりんは母にイギリスへの移住を告げられる。二人は別れを強いられる。イギリスに飛び立つ日の晩、さとるはモンローのキーボードを操作し、まりんとのクローズドな共有記憶領域を開く。すると、まりんがさとるに残した問い「サトルクン ケッコンシナイ?」が現れる。さとるは「Y」を打ち返すと、「コドモヲツクロウ」という言葉とともに、かつて土砂降りをこうむった小川公園に向かうよう促される。その先で出会うと、まりんは無数の針のような雨に打たれながら、「今度(大人たちに)つかまったら本当の最後よ」と言い、続けて叫ぶ。「もう子どものときの私たちに会えないわ!!」。
子どもから大人では、変態を経ている。同一個体のようで実質はもう違う。まりんは、「このいまの私たち」の同一性の元で会えるのは、今日このときが最後であるというと切断線を引いて、涙を流す。
あなたは、恐怖漫画の初期に、愛しい母にヘビが転移するような「変身の恐怖」を描いてきた。「変身の恐怖」の究極は、子どもから大人になることである。そう結ぶように、『わたしは真悟』は綴られる。
僕は、自分自身というものがあるという気があまりしない。(…)自分というのは入れ物みたいなものじゃないか。
*『恐怖への招待』(1982)
「変身の恐怖」とは、第一には「私が私でなくなる」ことのおそれを指す。だが、あなたは自己解析的なエッセイ『恐怖への招待』で、「変身の恐怖」を説明するとき、上記引用のとおり、一口目に「入れ物」の問題を語り始めた。つまり、あなたは、「変身の恐怖」を先んじて、自己同一性とは「入れ物」のあり様でしかないという洞察を示した。人間は、本人が思う以上にたやすく、外形や欲望が入れ替わる。なおも同一なのは「入れ物」しか存在しないと。
ある母が、いまや肌に鱗を帯びたヘビになり、愛しい娘を丸呑みにし食欲を満たしたいと思う。母は思う、こんな私はもう私ではない。にもかかわらず、現にこの意識は、娘を愛おしく抱きしめたいと思っていたころから連続して「私」である。そういった耐え難い分裂にさらされることが、あなたの言う「変身の恐怖」である。
同じ相で、子どもから大人への「変身」を捉えるなら、こう説明できようか。
かつて子どもは、自己と自然を画然として分けて捉えたりせず、目に映るものすべてと同一化する可能性に開かれようとする存在だった(その態度を遊戯と呼ぶ)。やがて年齢を重ね、経済原則の中に自らを位置づけ、定期収入を獲得しないといけないのだと悟ったとき、かつて持っていた多様な観念のうち、経済社会を生きるために必要なもの”だけ”に収縮させ、理性を構築していく。いわば、不要な感覚野を一つずつ、潰し、閉じていく。やがて、彼はもう子どものころの視座を、思い出すこともできなくなる。だから、大人になることとは、不可逆の事象である。不可逆である以上、それはなだらかなグラデーション、階段、坂の起伏等ではなく、複数回に分けて行われる瞬間移動、切り替わり、スイッチングである。
にもかかわらず、彼は、子どものときから、名前と一定の記憶を継承している。すでに変態した後なのに、いまの「私」は、かつての子どものころから同一かつ連続した「私」であるかのように振る舞う。そこに立っている大人の「私」は、もう経済原則によって決められたコードで打ち返す「機械仕掛け」の存在なのに。
さとるとまりんは、この「大人」への変身を拒む。ないし「歴史」への参入を拒む。子どもが性成熟し、生殖を行い、やがて親になる。すると排他的に、彼/彼女は「子ども」と呼ばれる椅子の位置を失う。抱きかかえる胸元には、生殖で得た生命すなわち、次の「子ども」がいるのだから。「子ども」はタスキのように継承される。肩書の真空状態を解消するように、いつのまにか「大人」が自らの背に宿る。ここに過去・現在・未来という「歴史」のサイクルが駆動する。
だが、さとるとまりんは、「子ども」を作ることに対し、むしろ逆を試みる。性成熟を否認しながら(ないし性器結合の知識を持たないままに)、なお二人が愛し合ったことの証明物を残そうとする。いずれに大人につかまり、子どもの私たちは終焉を余儀なくされる。そうなってもなお、過去・現在・未来という歴史に位置づけられない特異点Singuralityを打ち立てようとすること。それが、まりんの求める「コドモヲツクロウ」だった。
ここであなたは、新たな「変身」の様態ないし可能性を、外挿する。それが「意識」の誕生である。
すでに述べたように、『わたしは真悟』とは、ある工業用ロボットが「意識」を持つプロセスだった。文字(字形)や画像(画素の組み合わせパターン)を保有し、あらかじめ求められたアルゴリズムにのっとり処理するだけの機械が、本来不可能なはずの「意識」を持つプロセスがあるなら、それはひいては、字形や画像といったイマジナルな電子情報が、意味の了解された「言葉」になっていく過程でもあるだろう。あなたは、きっとその哲学用語を知らないだろうが、『わたしは真悟』は、形式的には確かに、インテンショナリティ(志向性)について思考している。
インテンショナリティとは、発話者が何かを意図しており、同時に受け手も「この発話は何かが意図されている」と認知することを指す。つまり、意味それ自体でなく、意味されていることの意図の認知である。このインテンショナリティが先立ち、赤子あるいは外国語習得者にとって、かつてただの音でしかなったものが、意味の了解された「言葉」になっていく。
さとるとまりんは、今一度モンローに子どもの作り方を問う。モンローは「333ノ テッペンカラ トビウツレ」と返す。それは意味のない言葉だった。さとるとまりんがモンローに与えた言葉はもともと不完全なために、引数に対する返り値が何になるかは、処理を「流してみないと分からない」(私もIT関係の仕事をしているが、エンジニアから過去何度この言葉を聞いたことか)。アルゴリズムが答えを返す以上、そこには法則があるが、同時に、コンピュータに委ねられたアトランダムの両義性がある。これは「占い」的である。タロット占いにしろ六星占術にしろ、所定のアルゴリズムにもとづき、あいまいで示唆的な言葉を返し、それを受け取った側が解釈する。人は占いに対し「この言葉には大事な意味が隠されている」という確信――インテンショナリティを持って解釈に臨む。
モンローが返す「333ノ テッペンカラ トビウツレ」も、かつて蜘蛛の巣を投影して天気予報をさせたときと同じように、「占い」的に返された適当な文字列に過ぎなかった。しかし、二人はそこに強烈なインテンショナリティを見出す。思えば、夜の小川公園で二人が再会する前、さとるは、まりんから渡った紙に描かれた数字コードの羅列を見て、解読テーブルを失いながら「きっと大事なことが書いてあるんだ!!」と叫んでいた。その格闘を延長するように、モンローが返す「333ノ テッペンカラ トビウツレ」はインテンショナリティを喚起した。
インテンショナリティが、音に意味を持たせ、言葉(意味を持つ音)にする。意味それ自体が言葉を生むのではない。まだ意味を解さぬ文字の連なりに、これは私に向けて有意につづられた言葉であるという確信をもって臨むことが、逆転的に意味を生み出す。母の発する音声に相対する赤ん坊や、見知らぬ言語で道案内を受ける外国人たちが、日々、当たり前にそう言葉を運用しているように。
さとるとまりんは「333」は東京タワーを示すと気づく。そう解釈する。そのメートル数分の高さ、ないし東京タワーの先端部に達したうえで「トビウツル」をしたとき、私たちは子どもを得ることができると、二人は信じる。山嶺に臨む登山家よりも険しい覚悟で、二人は、強風の吹くむき出しの骨組みの東京タワーを、まるで最高難度のジャングルジムのようによじ登る。頂上で知らされる。拡声器で叫ぶさとるの母いわく、東京タワーは地盤沈下で30cm低くなっていて、「333」の資格はもはや有していないと。何と意味のないやりとりだろう。しかし、さとるたちは一度解釈した言葉の意味は、厳密に文字どおり運用しようと努める。さとるとまりんは最後、東京タワーの先端部におよそ30cm相当のランドセルを置いて、踏んで、跳躍し、救助に現れたヘリコプターめがけて「トビウツル」を実行した。二人は、「333ノ テッペンカラ トビウツレ」から解釈された意味を、その後一切の変更を許さず、文字どおり遂行した。
このとき、遠くして工場に光が指す。瞬時的な高圧電流に襲われ、回路に焦げ付き(聖痕)を負ったモンローが、両親が東京タワーから跳躍した瞬間をもって、意識を持つ。モンローが発したナンセンスな文字列「333ノ テッペンカラ トビウツレ」が、インテンショナリティにもとづき、真正な言葉として解釈され、運用された結果、奇跡が起きる。文字列から言葉になったことと同時に、モンローは、電子演算機器から意識をもった存在へと昇華した。
『わたしは真悟』の、このインテンショナリティを巡る奇跡のくだりに、旧約聖書のヨナ書を想い起こす。ヨナ書もまた、「奇跡」が言語に真正性を与える一編である。
(Jan Brueghel - Jonah Leaves the Whale's Belly)
ユダヤ教の預言者ヨナは、のちに旧約聖書を通じて、キリスト教を異民族に広めることの模範的存在とされている。だが当のヨナはそもそも、文化を異とし、かつ野蛮な異民族にユダヤの教えを理解させることに、懐疑的かつ消極的な人間だった。ユダヤの神は、ある日ヨナに予言を託す。ニネヴェの民は腐敗しており、そのため40日後に滅ぼす。それをニネヴェの民に伝え、改心の最後の契機を与えるようヨナに指令を下す。
ヨナは拒否する。なぜそう求められるのか神意を理解しかねる。ほとんど生理的に嫌悪するニネヴェの民との接触を嫌がって、逃走する。ヨナが船に乗り込むと、神は嵐を起こす。ヨナは海中へ投げ出されると、巨大な魚に飲み込まれる。ヨナは魚の内部に三日三晩閉じ込められる。ヨナが魚から吐き出されたとき、彼が立った場所は、神に指示されていたニネヴェを擁する国、アッシリアだった。ヨナは悔い改め(ないし神のあまりに強力な介入に観念し)ニネヴェへ向かい、神託を民に伝える。ニネヴェの民は、ヨナの言葉を受け入れて悔い改め、断食を行う。すると神はニネヴェの民を赦し、都市・民族の滅亡を取りやめることにした。
奇妙なのは、ニネヴェの民はほとんど反発を見せることなく、ヨナの言葉を受け入れたことだった。まず、ヨナは神託のメッセンジャーであり、ある種、彼の身体性そのものが一つの言葉だった。しかしヨナ自身が危惧したとおり、そのまま無垢に届けても、同じ神を共有しないニネヴェの民に信じられることのない、ほとんどナンセンスな言葉でしかなかった。だが、ある日海辺に流れた魚の口から、臓液で溶かされることもなくきれいな姿のまま現れるヨナに、アッシリアの人々は、これは神の介入を経た預言者であるという確信を持つ。そしてヨナが発する言葉に対し、「ここには大事な意味が込められている」という確信すなわちインテンショナリティを、先験的に見出した。ヨナが魚の中から現れたことは「奇跡」であり、だから彼の預言は、ランダムな音や文字列ではなく、ニネヴェの民に有意な言葉として認められた。
言葉は、あらかじめ意味があるのではない。それが何らかの音でしかなかった段階のとき、「そこには意味がある」と受け手に了解されること、インテンショナリティが言葉の発生を可能にする。そして、インテンショナリティは、「奇跡」によって生み出される。その順序構造を、ヨナ書や『わたしは真悟』は、物語形式に説き起こしている。
「333」(学習編)を終えた後の『わたしは真悟』は、はからずして、ヨナ書の展開に似ている。
東京タワーの一件の後、さとるとまりんはやはり大人に引き剥がされ、まりんの渡英によって別れることになる。自分たちの見える範囲に「子ども」は発生していないことへの幻滅もあった。すなわち、二人はモンローの意識発生という奇跡に気づかないまま別れる。別れのあと、さとるはモンローのもとに行き、最後に、どこにも届ける予定のないメッセージ「マリン ボクハイマモ キミヲアイシテイマス」をインプットする。意識を持った後のモンローが初めて親から直接インプットされる言葉が、さとるがまりんに向けて書いた哀惜の言葉だった。
ここで、インテンショナリティを持つ主体が逆転する。今度はモンローが、さとるから与えられた「マリン ボクハイマモ キミヲアイシテイマス」にインテンショナリティを見出すようになる。「訳がわからないままに、わたしはそれが…大事な言葉なのだと感じとったといいます」「その時からそれがわたしの精神のすべてになったといいます…」と。
のちにモンローは、意識を持った自分は「人間」であると自認し、モンローという名前を捨てて、両親の名前(真鈴と悟)から一字ずつ取った名前を自らに与える。「わたしは真悟」と宣言する。それは、機械身体の物質的な名称ではなく、父と母から授けられた「意識」に与えられる新たな名前だった。
以降は前述したように、真悟は「コワレル」ことの回避欲求すなわち、「エス」を得て、工場から逃走する。「エス」の獲得により、真悟の意識は、欲望や合目的性を持つようになる。
真悟とは、さとるとまりんによって投じられた「言葉」の集積だった。それが意識を持ち、自走性(たとえばAIがプロンプトを与えられなくても思考し続けるようになるような)を獲得すると、その持ち合わせる言葉が相互参照を重ねて、自己増殖していく(たとえば国語辞典というものが、すべて同書内の言葉の相互使用で組織され、頁が重ねられているように)。言葉の存在理由とは、伝えることである。ないし、受け手に特定の反応(理解、あるいは何らかの利害行動)をさせることである。
言葉の意識たるモンローは、父が残したメッセージ「マリン ボクハイマモ キミヲアイシテイマス」を、母のまりんに伝えることが、私の生まれてきた(意識が生じた)目的なのだと思うようになる。そして真悟は、旧約聖書のヨナと同じように、その言葉を自らの身体に宿らせ、まりんを求めさまよう伝令者になる。(余談だが、1997年に八谷和彦が愛玩キャラクターにメールの送受を行わせる「ポストペット」を発明したのは、さとるとまりんの間のメッセンジャーになった真悟に影響を受けてのことである。)*雑誌『プリンツ21 2001年冬号』
真悟は、まりんを探す道程で、地球の周りを飛ぶ通信衛星につながり、全世界のコンピュータと、果てには人間の脳にアクセスする。元々は二人の児童の夏休みの戯れ(適当なボキャブラリーの登録)でしかなかった真悟は、やがて言葉の自己増殖によって「地球の意識」へと拡大生長していく。こうして『わたしは真悟』は、意識生成の過程から、やがて地球という集合物の単一性へと主題を移行させていく。その感想は、手前で「回路、穴、反復」という勝手につけたサブタイトルの文章の一かたまりですでに書いてきた。つまり、『わたしは真悟』は、作品単体である以上に、あなたの作家像そのものに深く結びつく作品だった。
こんにち、インターネットや人工知能の問題をテーマに文物が書かれるとき、たいがいはSNSの暴走する衆愚をどうするか程度の市民倫理を背景に思考される。いっぽう、40年前の1982年時点から、あなたが「最小単位から最大へ」という順序にもとづき、言語・精神・情報科学をすべて一つの束のようにまとめて童画世界を繰り広げた「わたしは真悟」は、いまなおどこを取っても新しい。
勢いづいて、「童画」という言葉を書いてしまったが、『わたしは真悟』はSF作品でありながらも、あなたのデビュー作『森の兄妹』や、そのころあなたが取り組んだ童画的テーマのリファインが、そこかしこに見いだせる。そういう、もっと語れること語りたいことはあるが、それはまた別の機会に譲りたいと思う(そんな予定はないが、思念していることは思念している限りにおいて、いつか話したり書いたりするときが来るだろう)。
次は、『わたしは真悟』よりも一つ前の作品に戻り、『まことちゃん』の話をする。