3-1)浪江女子発組合について知っていること(1)/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

この文章では、前回までに書いた浪江町についての知見と、浪江女子発組合のいわゆる「オタク」としての知見を紐づけながら、彼女らについて知っていることを書いていきたい。

 

■浪江女子発組合結成の経緯

浪江女子発組合の結成をめぐって、あまりはっきりとしたディテールは、公式に示されていない。断片的な証言から、可能な限り読み解くと、こうなる。

 

まず、2018年12月下旬、浪江町役場(名義は吉田数博町長だが、主導は産業振興課 商工労働係 副主査 大柿光史さん)から、ももクロ春の一大事の誘致レターが送付された。

 

初動となる誘致レター以降の経緯を、あーりんが比較的ストレートに語っている。

浪江女子発組合・佐々木彩夏【ドキュメンタリー番組 『思い出す大切な場所 〜福島県・浪江町〜』】後編(4:40から)

結成のときの話は、

春の一大事で、浪江町広野町楢葉町のみなさんからお声がけいただいて、

役場のみなさんとか自治体のみなさんと話をしていく中で、

大柿さんから直々にお願いのお手紙をいただいたときに、

「こういう話があるんだけどどうかな?」って私も相談されて、

楽しそうだからやろ~っていう話になって、

そっからちょいちょい、どういう名前にするか?とか、

どういう衣装にするか?とか、どういうコンセプトにするか?とかって

打ち合わせには何回か出させてもらったりしました。

 

以上を文字どおり読み解けば、まず、春の一大事の誘致は、楢葉・広野を含む三町ともにももクロのもとへ寄せられていた。

加えて、さらに浪江町では「大柿さんから直々にお願いのお手紙」が送付されてきた。

あーりんが「浪江町の役場の方から『一緒にお仕事させてもらえませんか』というお話をいただいた」と言うとおり、大柿さんからのレターには、春の一大事とは別軸の協働関係を結ぶことの提案があった。

 

なるほど、J-VILLAGEという双葉郡内でまたとない会場を使い、三町合同大会を行うとき、地理的に浪江町は富岡・大熊・双葉を挟んで、北へ30km離れた位置になる。春の一大事を開催しても、観光経済の恩恵を十分に与ることができない。浪江町には、春の一大事の「開催地」以外の何かが要請される。

 

こうした大柿さんからの提案は、スターダスト内では、あーりんへとパスされていった。

 

ももクロは、2019年3月11日、浪江町へ表敬訪問をした。

この日を境に、のちに浪江女子発組合発足へつながる企画の打ち合わせが始まったことを、Facebookで「一般社団法人まちづくりなみえ」さんが証言している。

スターダストプロモーション様と浪江町3.11ももクロさんが浪江町を訪れてから、色々とお話し合いと企画を立ててきました。デビュー曲「なみえのわ」に浪江町の今と佐々木さんの思いが詰まっています。当法人も組合員として応援していきます。

 

あーりんも、この基礎計画の段階から、会議の席にしばしば加わった。

会議の中身をこれ以上推測することはできないが、やがて2019年11月に十日市祭りでお披露目されるご当地アイドル「浪江女子発組合」へと結実する。

この独自のご当地アイドルという企画に、ももクロの中であーりんが選ばれ、あーりんが「楽しそうだからやろ~」と応じたことは、すでに感動に値する。

 

■浪江女子発組合、その特長

復興支援=地方活性化および、グループのプレイングプロデューサーは、あーりんにとっても初めて取り組むことだった。

いわば、浪江女子発組合を見ることは、あーりんのフロンティア(現在形)に触知するという歓びを伴う。

アルバム『花咲む』に付属するドキュメンタリー作品『浪江女子発組合の2021年』でも、あーりんは、今後メンバー(後輩)たちにどのような姿を見せたいかと問われたとき、こう答えた。

でも、かっこいい先輩とか、みんなのお手本に、っていうのは、もうそんなに思ってない。(…)

浪江はチームメイトだよ、ってところで、近く感じてほしいし、

私が苦戦しているダサい姿…?全然本当に、あいつどこだっけ?ってなって、ここですって他のメンバーが教えてくれることもよくあるから、

そういうかっこ悪い姿とかも、見せたいわけじゃないんだけど、見せちゃっても仕方ないかなって思います。

 

◎「福祉」主体としてのあーりん

私のボキャブラリーでは、ほかに適切な言葉が見つからないため、やや仰々しい言い方をするが、あーりんは「福祉」の精神を持っている。

 

ここでの福祉とは、介護や社会保障といった狭義の社会制度のことを指すのではない。日本国憲法には「幸福追求権」の保障が存在する。万人は、自らの幸福をより多く得るための行動を取ってもよい。

しかし、障害や加齢など、何らかの事由によって自らの幸福追求権を十全に行使できずにいる人たちがいる。その人たちの幸福追求行動を支援することが、憲法を根拠とし、国を運営する政府へと要請される。これが「福祉」の基礎である。

 

あーりんは、よく知られるように、ママや、幼いころに通ったダンススクール生の影響から、片言以上の手話を習得している。そして、折に触れて人々へ「手話の美しさ」を語る。

はじめてのソロコンサート『AYAKA NATION 2016』で、振り付けに取り入れた手話を披露したとき、後日ブログで、このように動機づけを振り返った。

https://ameblo.jp/sasaki-sd/entry-12202811797.html

音楽は全ての人に平等に与えられるものだよね。って思った時に

耳の不自由な方にはメロディーは難しくても歌詞は届けられる!って思ったんだ。

だから

今回のソロコンでやってみたいなって思ったの!

器官的な困難を持つために音楽を「平等」に享受できない人たちへ、なおも同じメッセージを届けたいと思うとき、あーりんは手話を振り付けに取り入れる。

この考え方は、まさに原義としての「福祉」だと、愛するあーりんの口からその精神が発されたことに深く感動したのを、いまも憶えている。

 

かつて、前浪江町長の(故)馬場有が政府・東電に賠償責任をいくたび追及するとき、つねに、その根拠(理論付け)に3つの憲法を掲げた。生存権、財産権、そして幸福追求権である。

(一例まで:https://www.town.namie.fukushima.jp/site/namie-chocho/22246.html

 

浪江町の人々は、震災・原発の複合災害によって幸福追求権を十分に行使できずにいる。その回復(復興)を行う責任が、事故の主体たる政府と東電に求められる――というのが、馬場有が特に注力した賠償・責任追及のロジックだった。

 

もう一度言うが、こうした浪江町の「復興」支援について、ももクロの中であーりんが適役とされ、あーりん自身が前向きになったことが、すでにあーりん推しの自分にとっては感動に値する。

 

◎「スタプラの姉」としてのあーりん

あーりんは、ももクロのあーりんであると同時に、同じ事務所のアイドル事業部「スターダストプラネット」の後輩たちに対し、あらゆる機会提供を行う――いわゆる「姉」的側面を持っている。

 

かつて、3B Juniorと呼ばれる後輩アイドルの卵たちに、ソロコンサートでバックダンサー以上の役割を与え、横浜アリーナ両国国技館などの大舞台に立つ機会を与えてきた。

 

そんなあーりんが、浪江女子発組合で後輩たちと協働する考えを、きれいに示したインタビューがある。

ももクロのファンクラブ(ANGEL EYES。以降AEと略)のデジタル会報誌「マンスリーAE」の2020年2月号にて、3月11日に追加更新された内容である。

https://fc.momoclo.net/pc/monthly/archive/ae202002/interview.html

(このリンクは、AE会員のみが見られるコンテンツだが、重要な内容のため、要約で参照していく)

 

ももクロは、東日本大震災のとき、すでに活発にアイドル活動をしていた。そして、紅白出演やドームコンサートなど、幸いなことに十代の若いうちからマッスとしての社会と向き合う機会が与えられてきた。

それにより、ももクロメンバーである私たちは、震災や復興について考える視座が、若いうちから与えられたとあーりんは言う。

 

そんなあーりんは、いま新進アイドルとして駆け出している後輩たちに「チャンスをあげたい」「いろいろな経験をさせてあげたい」と言う。

彼女ら駆け出しのアイドルは、高校卒業や20歳といった節目で、いわゆる「卒業」がありうる。ももクロが、たまたま早いうちに得られた震災や復興について考える視座や機会を、当時の自分たちと同じ年ごろの後輩たちにも継承したい。そうやって、通常的なアイドル活動ではなかなか得られない思考の機会を与えることが、浪江女子発組合の子たちを成長させてくれるのではないか、とあーりんは言う。

 

浪江町の文化・問題意識を正しく体現している

あーりんは、折に触れて、浪江女子発組合の中に「浪江町出身の子がいるわけじゃないけど」と言い、歌詞や衣装、活動形態をめぐって「町役場の人とも相談させてもらいながら」決めていることを対外に言明する。

 

ご当地アイドルだが、首都圏から浪江町へ訪れる「交流人口」としてのグループであるためだ。浪江町の被災・復興をめぐるナイーブな「当事者性」問題に、あーりんなりに慎重に接している。

 

浪江女子発組合は、浪江町役場の産業振興課(を主とし、財政企画課あるいは一般社団法人まちづくりなみえ)をコンセプトマネジメントに迎えることで、「浪江町のアイドル」のレジティマシー(社会的正当性)を確保している。

これは極めて正しい。

 

前回のブログで書いたとおり、町役場の産業振興課は、復興計画の中枢に立つ組織である。

産業振興課は、町のどういった行事・文化・産業が「浪江町のいま」にとって重要性を持つか。そして、その各モチーフにはどういった歴史・課題が随伴するのか――を当然に把握している。

 

浪江町の当事者の視座は、町役場が「歌詞チェック」で参画する浪江女子発組合の楽曲からも数多く読み取れる。のちのち楽曲の感想を詳述してく。

 

■浪江女子発組合の変遷

浪江女子発組合は、2019年末ごろの結成からほどなくしてコロナ禍が始まり、特に第一波~第二波(2020年の春~秋)のとき、活動停滞を余儀なくされた。

便宜上、彼女らの活動に変遷区分を設けるなら、コロナ禍での停滞期を途中に挟みながら、初期・(停滞期)・中期・後期といった分け方が可能だろう。各時期に、あーりんのプロデュース指針にも変遷が見て取れる。

 

◎初期:浪江町のことを正しく理解・媒介しようとする時期

ここでの初期とは、2019年11月24日の結成初披露から、定期大会を三回重ねるまでの、いうなれば「ビフォー・コロナ」の時期を言う。

 

あーりんは、このころについて「結成したときは、浪江のみなさんの力になれればいいな、っていうところだけ」だったと回顧している(ドキュメンタリー『浪江女子発組合の2021年』)。

 

つまり、力になりたい浪江町という具体的な対象があり、一義的に、浪江町を自分らのファンへ知ってもらうための半ば透明な媒介項として、浪江女子発組合というグループ活動を行う。

 

確かに、2019年12月8日の定期大会第一回は、産業振興課から蒲原文崇さん、大柿さん。行政区区長会会長 佐藤秀三さん、まちづくり団体「なみとも」の小林奈保子さんをゲストに迎え入れ、浪江町の「いま」を教わるシンポジウムを開催した。

第二回は、ニッポン放送プロデューサー(バレイベでグッズ企画・制作でよく知られる)桐畑行良さんを招き、東北被災地に接してきたメディアの”先輩”から、震災・復興との向き合い方を聞いた。

いわば、この時期は、複合災害・復興に関する「基礎学習」をしている。

この最初の2回があったからこそ、定期大会 第三回からは、町の動向を聞くのは大柿さん単体に絞り、よりライブやレクリエーション系の企画(ファンを壇上に上げての餅つき大会等)へと時間を割くようになっていった。

 

この初期の「浪江町のことを正しく理解する」という活動スタンスは、初期楽曲にも同様に反復されている。

『なみえのわ』『あるけあるけ』『ミライイロの花』といった曲たちは、(単純にミドル系のアイドルソングとして優れているが)浪江町の風土・行事――そこに紐づくイシューを正しく「媒介」する楽曲になっている。

 

『なみえのわ』

浪江女子発組合結成の瞬間から存在する代表曲で、かつ長らく一公演につき複数回歌われ続けてきただけあり、大事な問題が”すべて詰まった”概観性を持っている。

(たとえば、ももクロにとって、メジャーデビュー曲『行くぜ!怪盗少女』にある「笑顔と歌声で世界を照らし出せ」という宣言が、いまも堅牢なグループの指針として強度を持ち続けているように、『なみえのわ』も、浪江女子発組合がつねに立ち返るべき大事な主題が込められている)

 

これさえあれば浪江女子発組合のライブが成立する強度を有している、と言ってもよい。『なみえのわ』の感想には、いっとうの文字数を割く。

 

たなびく白い雲 ただよう白い鳥

空と海の青さに気づく

鮮やかに並んだ原色の強さが

ここに希望 呼んでいる

冒頭のこの歌詞について言えば、浪江町は太平洋気候からなる温暖で澄んだ青い空があり、請戸方面の海と、津島方面の山、その中間に市街地や田畑がある。一つの町の中にすべての気候・風土がつらなる様を、「鮮やかに並んだ原色の強さ」と歌う。

「白い鳥」はもちろん、「町の鳥」であるカモメである(Overtureでも冒頭カモメの鳴き声が入っている)。

青い空に、雲とカメモという「2つの白」が差し込まれてコントラストが成すのが、多くの浪江出身の人たちが思い描く「ふるさと」の風景の一幕である。冒頭で、こうしたイマジナルな浪江町を示す。

 

地平線の向こう側で キラキラと光り出した

始まる日を信じる気持ち 変わらないから

地平線の向こう側は、東の請戸方面から指す太陽である。

紐づけるにはやや無理があるかもしれないが、前町長の馬場有は震災直後、想像を絶する激務に明け暮れる町役場職員たちを励ますのに、たびたび言ったというのが「明けない夜はない。必ず太陽は出てくる。それを信じて仕事をしていこう」だったと言う。

浪江町(役場職員)にとって、日が明けるのを「信じる気持ち」とは、いまの行動がいつか実を結ぶことへの信頼を指している。

 

むろん、請戸から出る太陽は、次の曲『あるけあるけ』にも歌われる。

 

そして途中「心に咲く春の花火 今も胸に響いてる」という歌詞は、『つながるウンメイ』で歌われる、『なみえ春まつり』の花火大会を指す。

 

続く「桜色の大好きな場所 守りたいから」は、当然、請戸川リバーラインの桜並木のことを指すだろう。「守りたいから」とあるが、事実、請戸川リバーラインの桜は震災後、浪江町全域に立入制限がかかっていたころも、枯れたり腐ったりしてしまわないよう定期的に有志の町民が立ち入りし、メンテナンスを続けてきた。

movie-a.nhk.or.jp

 

桜が並ぶ「守りたい場所」は、事実としても「守られてきた場所」であり、そこで毎年桜咲く季節に春花火を見ることは、町民同士が全町避難指示をされていたころも忘れずに「守ってきた場所」を確かめ合う情緒的意味合いを持っている。

 

このように『なみえのわ』は、浪江町が大事に思う「風景」をつぎつぎと列記的に挙げてくれる。

そして、サビで、これらのモチーフ(太陽と、原風景である青い空)が合流し、

太陽がある限り 明日へ歩いて行ける

空も (海も) 君が (いつも) 迷わぬように澄み渡る

と歌う。

 

「なみえのわ」とは何を指すか。

あえてタイトルで「わ」が平仮名で書かれるのは、サビのときごとに「話」「輪」「○」と、当てる漢字を変えるためである。

 

ひとつめの「話」は、きっと浪江町が持つ「伝承」という復興課題を指すだろう。

 

「震災の記憶の伝承」および、震災以前にあった浪江の景色・文化・伝統を「伝承」することについては、復興計画(第一次~第三次)*1や復興まちづくり計画*2でも、施策として明記されている。

*復興計画 第三次:第2章 未来を担う人づくり=> 施策3 震災の記憶の伝承 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/13894.pdf

*復興まちづくり計画:2.避難指⽰解除以降のまちづくり⽅針=>(4)伝統⽂化の保護・継承体制と施設の整備 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/life/6662_19243_misc.pdf

 

なぜ伝承が必要なのかを問えば、当然、多角的な意義があるだろうが、あえて一つ挙げるなら、(ここでも)分断への抵抗がある。

浪江町は震災・原発の複合災害を受け、いま刻一刻と新しい姿に生まれ変わろうとしている。そのネガ的側面を言えば、震災前の住民たちにとって「戻ったところで、かつての風景・コミュニティは存在しない」というハードプロブレムを引き起こす(これは本当に難しい問題)。

そうしたとき、「浪江町とはどんな町だったのか」「あの災害で何が起きたのか」といった記憶を継承しようとすることは、すべての町民を「置き去りにしない」ようにする重要な態度となる。

 

次に、

吹き抜けてく風に 思い出を託した

恋い焦がれた街に飛んで行け

や、

例え何百キロと離れても

忘れることはない (あの景色を)

といった歌詞にあるとおり、『なみえのわ』は、県内や全国へ散り散りになった避難生活者と、地理を遠くしながら変わらずつながりあうことを、念頭に置いて書かれている。

 

町役場が「どこに住んでいても浪江町民」という基本指針を掲げていることは、前々回のブログで詳述した。この基本方針を策定するにあたり、町議会で何度となく確かめられた一種の喩えは「九州に住んでいても浪江町がケアをする」ということの覚悟だったという。「何百キロ」という距離は、浪江町の人々をつなげあうことを諦める理由にはならない。

 

かくして、

そうさ、ひとりじゃない 仲間がいる

ナミエの輪 つなげよう

と、属地主義を超えて、全国にいる「浪江町を思う人たち」同士のつながりを、浪江町の存立条件に据える。その「ナミエの輪」を広げようと歌う。

 

あらためて言うと、『なみえのわ』は素晴らしい。

十日市祭りでの浪江女子発組合の初披露当日に、立役者の「一般社団法人まちづくりなみえ」が書いたように、この曲には「浪江町の今と佐々木さんの思いが詰まって」いる。

 

『あるけあるけ』

『あるけあるけ』は、定期大会 第一回で初披露された。そのとき、あーりんは、この曲の一番と二番で、人称の視座が変わることを解説した。

www.youtube.com

 

一番は、浪江の人たちがあるけあるけ大会に抱いている気持ちを、ヒアリングして書いたと言う。

二番は、浪江町外に避難している人たち、あるいはいまこうしてあるけあるけ大会のことを知った人たち(つまり広義としての”町外で浪江町のことを思う人たち”)の気持ちが書かれていると言う。

 

確かに一番では、

新しい日の出を

待つ心が震える

白い息踊る町に

集まる顔が嬉しい

幸せへ延びる道を あるけあるけ

悲しみ休めて 前に(前に)進めよ

とあるとおり、浪江町で「あるけあるけ大会」に参加している、いま浪江町にいる人の目線が歌われている。市街地から請戸浜まで約5kmの道のりを歩くことを、「悲しみ休めて 前に歩けよ」と、広い意味での前進の決意へと言い換えている。

 

そして、

笑顔で今

ここにいるから

繋げるよ この場所で

明日への誓い

と歌う。請戸浜ひいては浪江町を「ここ」「この場所で」と此岸的に言い、この町を明日へと「繋げる」決意が清澄な様子で歌われる。

 

いっぽう二番は、意識して聴くと、避難住民の目線へと切り替わっていることが分かる。

冬枯れの並木を

過ぎ行く人眺めて

帰りたい気持ち隠す

懐かしい声浮かんだ

帰りたいけど帰れないという思いを内心に募らせながら、ふるさとをしるし付ける「懐かしい声」が思い浮かんだと歌う。

 

まだ寒い夜明け前

空を見て願いを捧げる

思い出ほら

胸にあるから

繋がるよ あの場所に

強くなる誓い

浪江町を「あの場所」と言うため、場所を異としていることが分かる。

遠くして浪江町を思うとき、ひと続きである「空を見て」思い募らせるというのは、『なみえのわ』でも用いられた詩題だった。その人は胸にある「思い出」を紐帯にし、「あの場所」――浪江町との「繋がり」を誓う。

 

最後のサビでは、

喜びの朝が来て

それぞれの祈りに注いだ

と、二者の視線がないまぜになり、異なる「それぞれの祈り」に、共通の「喜びの朝」が来たと言う。

答えはそう 分かっているから

繋がるさ いずれまた

(…)

どんな日が待つのだろう

君とまた話したいな

いま場所を異とする避難町民の答え(選択)は、「分かっているから」と汲み取る。

「つながるさ いずれまた」「君とまた話したいな」と言い、どういった形であれ、住む場所がどこであれ、「話す」機会に臨めることには変わりはない。

二枚貝のような構造で「浪江町/町外」の視座を往還しながら、やはりここにも、浪江町が掲げる「どこにいても浪江町民」の成熟した視座が伺える。

 

『ミライイロの花』

曲中の「時代を翔けた神輿担いで 息を合わせ 荒波に立ち向かえ」という歌詞にあるとおり、これは海辺で神輿をかつぐ(ほかにもいろいろ行うが)安波祭りを主題にした曲である。

ひいては、その祭りを伝統行事に持つ請戸地区をモチーフとしている。

 

すると、イントロ時のカチカチと鳴る秒針音と、時計の針を模したメンバーの待機ジェスチャーは、おそらく震災遺構 請戸小学校の[15:37]のまま止まった時計をモチーフにしているだろう。

 

いまや請戸小学校が震災遺構として公開され、多くの人の目に触れているエピソードだが、津波到来で学校の電気を制御する複合盤が逆側へ押し出し、剥がされた。このとき時刻が15:37だった。

 

震災から34日後、人々が請戸地区へ被災地入りしたとき、津波到来時間のままだったこの時計が、原発被災地に繰り返し使われる表現――「あの日から時間が止まった」ことのモニュメントになっていった。

だから『ミライイロの花』は、いまや浪江町の再生によって請戸の「時計」が再び動き始めていることを、秒針音とともに歌う。

動き出せ その先へ 揺らぐ針刻んで

時間(とき)を 越えて 咲き誇る ミライイロの花

 

請戸地区には、2022年3月「先人の丘」が作られた。

news.yahoo.co.jp

ここを訪れたとき、大字請戸名義の「請戸史碑」の碑文に感銘を受けた。いまの請戸地区のありようを肯定し、『ミライイロの花』が歌っているように、次へ進もうとする決意が書かれている。

 

請戸地区の多くのエリアは、津波に関する「災害危険区域」に指定されたため、建築基準法第39条にもとづき、震災後の現在、産業施設なら許されるが、住宅を建てることができない。

自治体によるこの区域指定は、祈念公園の建設を合わせて計画化し、住民から土地を買い上げることで、個々世帯の資産回復をはかるという狙いもあった(今井照『原発事故 自治体からの証言』P203)。それでも、人が住む機能が失われることは、コミュニティ再生の困難を随伴する。

 

請戸を漁業拠点として見たとき、碑文にあるとおり、2018年に請戸漁港で7年ぶりに出初式が、2020年には競りが再開した。2022年3月には、常磐物を代表するヒラメの価格が震災以降初めて全国平均を上回った(ブランド力が着実に回復しつつある)ニュースも駆け巡っている。

海岸から距離を置き、かつて請戸小の子どもたちの命を救った大平山の西側には、町営の住宅団地が生まれた。www.town.namie.fukushima.jp

ついこのあいだの4月上旬のこと、(浪江女子発組合の企画・運営にも協働する)「一般社団法人まちづくりなみえ」が協力のもと、請戸住宅団地に自治会が発足されたことも記憶に新しい。www.minpo.jp

地域ニュースのような話を列記したが、請戸地区も再生の一歩一歩を踏みしめている。そうした請戸の歩みを、『ミライイロの花』は、「駆け抜けた未来(さき) ミライイロでしょう」と、希望の精彩をもって、サビの振り付けで上方を指さす。

 

◎停滞期

浪江女子発組合の歩みに、話を戻す。

2020年春~秋にかけて、コロナ第一波~第二波で、特に日本社会全体が強く外出・接触制限を行ったころ、浪江女子発組合も活動の停滞を余儀なくされた。

 

2020年3月7日に予定されていた定期大会 第三回は中止され、代わりに浪江女子発組合のメンバーと大柿さんとで、町内めぐりの模様を配信した。このとき以降、次に浪江女子発組合が浪江町へ行くのは、1年以上先になる。

 

コロナ禍は率直に言って、浪江女子発組合の活動形態と相性が悪かった。

  • グループとファンいずれも、他地域から浪江町への移動を伴うこと。
  • 自治体とともに行う施策のため、事務所主体のイベント以上に、予防・安全のハードルを高く設ける必要があること。

浪江町へ行く・来ることをめぐって、双方が歓待しあえなければ、浪江女子発組合の活動に意味はない。その原則を守るからこそ、浪江女子発組合の活動は縮小した。

 

もっとも、何もしなかった、時間が止まった、と言うなら大いに語弊がある。

無観客かつ地域間移動をせずとも行えることであれば、浪江女子発組合は2~3ヶ月に一度、精力的にパフォーマンスを披露している。以下がそれである。

 

2020/3/9 『高城れにの大感さ祭(だいかんさしゃい)』

2020/4/5 『チャレンジ!推し売りプラネット!~アイドルも家にいろ!~』

2020/6/20 『ONLINE YATSUI FESTIVAL! 2020』

2020/10/4 『TOKYO IDOL FESTIVAL オンライン 2020』

 

(超絶個人的な思い出だが、2020/4/5『推し売りプラネット』では、浪江女子発組合メンバー全員のサイン入りうけどん人形が競売に出され、終盤、私とある人の一騎打ち状態になり、最後に13万円の入札をしたがゼロコンマ数秒の出遅れにより川上さんに拾われず、12万円のまま競合相手に落札されたとき、悔しさのあまり一日ずっと横になり、夕飯も食べなかったことを憶えている)

 

浪江女子発組合再始動の決意は、ちょうど停滞期の真ん中ごろ、2020/8/20『第1回浪江女子発組合会議』であーりんが宣言した。

あーりんは「浪江女子発組合は、浪江町でみんなで集まって!っていうのを大事にしていたんだけど、こんな状況でもみんなに楽しいことを届けられるように」と言い、東北在住者限定ライブやドライブスルーライブ等、「いかにして有観客ライブを再開できるか」のリブート案を挙げていった。

 

あーりんは、この特に厳格な活動制限がされていたコロナ第一波・第二波のとき、ももクロ以上に浪江女子発組合のことを不安に考えていたと、のちに振り返っている。

 正直な話、この期間中、ももクロのことよりも浪江のことを真剣に考えてきた部分があるのね。ももクロはさ、今日もこうやって夏のコンサートに向けて、みんなが動いてくれているし、どんな形になるかわからないけど、なんにも動かないことはないと思うのよ。

 ただ、浪江女子発組合に関しては、私もどうしていいのかわからない。だってね、浪江女子発組合の良さをコロナですべて封じられてしまったわけですよ。

小島和宏ももクロの弁当と平和』P141

 

引用したインタビューが2020年春のことであるから、あーりんが悩みと検討の末に走り出したのが、『ももクロ夏のバカ騒ぎ2020 配信先からこんにちは』をやり遂げて早々、2020年8月のことだった。

このころから、徐々に浪江女子発組合は再始動へと動き出す。

 

(つづく)