二つの呪いが、世界にふりかかる。
一つは、動物の呪い。すべての動物を代表して人類に復讐するために、遺伝子操作による食肉用培養チキンのプールから、チキン・ジョージ博士が生まれる。もう一つは、植物の呪い。緑病と通称される、全身緑色の赤ん坊が全世界同時多発で生まれる。
あなたは初期作品において、近現代社会に抑圧されるフォークロア(へび、蜘蛛)から呪い・復讐を受けるという物語を数多く作り出した。『14歳』は、そのテーマに回帰しながら、同時に、規模を環境・文明というフレームに拡大した。
チキン・ジョージは生後6ヶ月でケンブリッジ大学教授になり、人知れずゴミで埋め尽くされたハワイ沖の汚泥の地下に、ラボを作る。そこに地球上のあらゆる動物のコピーを作り、人類への復讐の同士として匿う。チキン・ジョージは、この地球の未来をシミュレーションするため、「人類を滅亡させた」場合の未来をコンピュータに予測させる。その結果、なぜだろう。人類が絶滅すると、ほかのすべての動物も道連れに絶滅するという答えが返される。何度検証しても答えが変わらない。むしろ、反証を重ねてその答えが一層堅牢になっていく。チキン・ジョージは絶望し、トサカが白くなる(ここ何回読んでも声が出る)。
人間への怒りを失ったチキン・ジョージは、当初もくろんでいた人類絶滅計画(地球を動物の星にすること)から、方針転換する。やはり、全動物を連れて宇宙の果てに逃げる(人間をひとりぼっちにする)を選ぶ。
この作品の序章で、本名も知らぬバンドマンの子どもを身ごもった中学生が、占い師に未来を見てもらったとき、占い師の口から湧き出た煙が「14歳で終わる」と宣告する。これは、お腹の中の子どもが14歳で生命を終えることと同時に、人類そのものの遺伝子に、この年に生まれる赤ん坊が14歳を迎えたときをもって終末するよう書き込まれていることを暗示していた。
「14歳」という年齢は、「子どもが終わる年齢」であるとあなたは説明している。この年齢に関する発想は、戦後日本に降り立ったマッカーサーが「日本人は14歳だ」と言ったことの、幼いころの鮮烈な記憶にあるという。
*UMEZZ PERFECTION!『14歳』(4) 巻末ロングインタビュー
なるほど。『わたしは真悟』でも、ロビンは、15歳になったらぼくたちは結婚する許嫁なのだと、記憶喪失したまりんに吹き込んでいる。すなわち15歳が性成熟した大人であり、「14歳」はその直前の子どもの終わりをあらわす。また、あなたがいずれ来るデビューに向けて、手塚治虫を読むのをやめて、その影響を脱しようと取り組み始めたのも、中学2年生で14歳だったと話している。
つまり人類が「14歳」で終わるとは、人類は成熟できないまま、子どものまま終わろうとしているというメッセージだった。また、あなたは本作の執筆時、序章の「14歳で終わる」を書いていたとき、それは自分自身にも言えることだ。つまり、作品『14歳』で漫画家としてのキャリアが終わることを先見していたという。*同インタビュー
あなたは、以下のような観念を持つ。
人間っていうのは、遺伝子のパターンが全部出尽くしたときに終わりになっちゃうから
*マンガ21世紀読本 楳図かずお『機械・情報・地球』(1986)
人類が滅ぶのは、人類の遺伝子のパターンが出尽くしたときである(たとえば、昭和版『まことちゃん』が、子どものあり方のパターンをすべて出しきったとき、静かに連載終了したように)。
あなたはこうも言う。子どもとはすべての可能性に開かれようとする自由な存在であり、対する大人とは、そのうち経済的生存に利するもの”だけ”に縮減していく存在であると。つまり、人間は子どもを終える「14歳」までのうちに、可能性ひいては、すべての遺伝子のパターンを出し尽くしている。だから人類は「14歳」で終わる。
チキン・ジョージは、人間にこう警句を発する。
「あなたがた人間に一つだけ助言を与えておこう。われわれがいつかいなくなったあと、あなたがた人間は、ひとりぼっちになるだろう。人間はそのとき友達が必要になるだろう。そして、それはただの友達ではなく本当の友達だ」
「14歳」を迎えてもなお、その種を延命するすべは、遺伝子の新たなパターンを外部から取り入れることである。人間という種を延命する新たな遺伝子パターンを供給しうる者――人間の潜在性を引き出す外部存在を、『14歳』の中では、「友だち」と呼ぶ。
こうした「友だち」観は、『わたしは真悟』にすでに示されている。真悟と美紀である。真悟が「コワサレル」ことから逃げ、地下水路をさまようとき、彼は汚物にまみれ動力源を失いながら進む、ゴムや鉄のこんがらがった複合物だった。かたや美紀は、すでに死んだ少女の名前であり、両親がいまも生きている夢想のため点滴とベッドだけ設置した非生命である。真悟が地下水路から助けを求めるとき、美紀の意識が電信上に生まれ、真悟にここへ来るよう助言する。なぜか。真悟に「友だち」になってほしいからだと。会えたとき、私の姿を見て驚かないでほしいと求む。真悟も同じことを求め、歓びをたずさえて美紀のもとにたどり着く。そのとき、美紀は泥とも肉塊ともつかない形に受肉し、汚物まみれの機械身体の真悟に、言葉を発する。「私も人間だから、あなたも人間よ」と。互いに不可能な「人間」としての存在肯定を交わし合う。「友だち」とは、人間と呼ぶには不完全な自らの存在不安を持ち寄りあい、相互承認の営みをする者たちの名前である。人は友だちに出会うことで、あらかじめ持っていた潜在性を顕現する。真悟に相対し、非生命の美紀が受肉したように。
『14歳』にとっての友達も、人類が人類でいられなくなろうとしているとき、その潜在性を引き出してくれる別種の生命のことを指した。「友だち」を探し求め、全世界から選ばれた100人の子どもたちは、チキン・ジョージが作り出した(全動物を連れ出すための異次元空間を有する)宇宙船「チラノザウルス号」に乗り継ぎ、宇宙の果てへ飛び発つ。
チラノザウルス号の前身は、『まことちゃん』に登場する空想上の宇宙船である。まことちゃんのように観照の視座を持った、ポスト人類になりうる3歳の子どもたちが宇宙に発つ。
いっぽう、地球に残された(ひとりぼっちになった)人類は、「友だち」の条件を錯誤したまま、宇宙に向けてSOS信号を送る(ただの利潤獲得のすべとして友だちを求める)。それは、土星の周りにとどまる宇宙人たちにキャッチされる。
宇宙人は、地球よりも大きな十字架形の船団を組織し、地球に飛来する。エコロジカルな自然保護クラブの少女は、これは私たちを救いにきた高次存在よと喜ぶ。そして彼女は、降り立った宇宙人たちに、口と性器に、それよりずっと大きい吸入器を挿入され、遺伝子や生命エネルギーを吸い取られ、枯れ木のようになって命を失う。異星間レイプされる。
この宇宙人たちも、人類と同じだった。住んでいた星が重篤な環境に陥り、宇宙に逃げ、自分たちの遺伝子を延命しうる外部生命を求め、土星の周りを浮遊し続けていた。宇宙人は、地球人の大半をレイプしたのち、この吸い取った遺伝子のうちに自分たちを延命させる変質要素は得られないと結論づける。すると宇宙人は、外宇宙へ再び逃避するにあたり、地球の核から、航行エネルギーを吸い取っていく。
自己保存のエネルギーを失し、地球が崩壊する。富士山が噴火すると、かつて日本人たちがマントルに放棄した巨大なゴミが、無数のミサイルのように地上に降り注ぐ。地上に戻された核廃棄物は、周囲の人間たちを崩壊させていく。やがて地球の自転が高速化し、地表すべてに津波が覆いかぶさる。空が低くなり、海と空がキスをする。その二つに陸がプレスされ押し潰される。(そんなの一体どういう状態なのだと思われるかもしれないが、『14歳』の該当場面で描かれている絵を丹念に理解し、文字に起こすと、このようにしか表現できない)
終末を迎えた地球のはるか彼方で、チラノザウルス号に乗る子どもたちは、宇宙漂流のすえに、乗員が徐々に「14歳」を迎えはじめる。「14歳」になった子どもは、人類の種におけるエントロピー増大がピークに達し、崩壊する。恐竜に姿を変える。太古に回帰する。
これを避けるため子どもたちはみな、14歳になる直前にチラノザウルス号内に存在する氷河期エリアに行き、冬眠することを選ぶ。もっとも遅く生まれた少年アメリカが、チラノザウルス号で1人最後まで残される。彼が航行するある日、突如すべての質量が減り始め、宇宙空間が暗闇から白い放散状の光に満ち足り始める。つまり、宇宙の果てまでやってきたチラノザウルス号は、宇宙が拡大から収縮に転じるビッグクランチに直面する。縮みゆく宇宙の際を前に、アメリカはチラノザウルス号の口からジャンプする(まるで『わたしは真悟』の「333ノテッペンカラトビウツレ」のように)。この宇宙の外側へ飛び出す。
すると風景は、どこかのロードサイドに切り替わる。アメリカは、そこを這う芋虫の背中から、原子のひと粒が膨らむように飛び出してくる。私たちの宇宙は、一匹の小さな芋虫だった。道路に出てしまい、もうすぐ車に轢かれて死ぬであろう弱った芋虫だったのだとアメリカは気づく。人類と地球が終焉を迎え、その病がアンドメダ銀河全体にまで波及していたのは、そこに住まう生命たちの行動のせいではなく、ただ宇宙外宇宙の環境によるものだったと知り、アメリカは涙を流す。
このように、宇宙の外に、それを一個体として擁するさらなる高次宇宙があり、そこで私たちの宇宙個体が偶発的な危機にさらされているというアイデアは、前もって『平成版まことちゃん』の中で示されていた。
あるプライマリースクールで、子どもが先生に「宇宙のはてはどうなっているんですか?」と問う。先生は、最新の物理学の知見と云い、この宇宙はうんこ(巻き糞)の形をしていると答える。形があるから、終わりと外側がある。うんこ型宇宙は、さらに瓶のような外被型の高次の宇宙に包まれているという。その瓶の中で、私たちのうんこ型宇宙は10億年スパンで破滅に向かっていると答える。こう見ると、『14歳』はチラノザウルス号しかり、何と『まことちゃん』から霊感を得ている作品だろうと思う。
さて、高次宇宙に飛び出たアメリカは、まだその空間にうまく内属できない。芋虫を物理的に動かしてやることができない。しかし、アメリカの霊を感じ取り、自動車から降り立ったロリィと呼ばれるくちばしを持った少女が、芋虫(私たちの宇宙)を茂みの中に返してくれる。そのときロリィは枝で傷つき、血を流す。アメリカがその血を舐めると「奇跡」が起きる。アメリカは、高次世界の存在へと実体化される。ロリィは会話可能になったロリィにお礼を告げる。芋虫(宇宙)は救われ、そしてアメリカを介して、人類の遺伝子に延命の変質がもたらされた。彼はこの身体を地球に持ち帰ればよい。
高次宇宙の住人ロリィは、ニワトリの知的生命体だった。すなわちチキン・ジョージは、培養肉のプールから生じた突然変異でありながら、この世界に帰ることを本能的に求める高次存在だったと判明する。
子どもたちが、芋虫の背中に向かってジャンプし、自分たちの宇宙内部へ、そして地球へ帰ろうとするとき、高次世界に残るチキン・ジョージが手を振る。そして『14歳』は終わる。
UMEZZ PERFECTION!『14歳』(4)に、2012年にあなたによって加筆されたラストシーンは、「宇宙ではどんな想像も許される」という言葉で結ばれる。願ったこと、考えたこと、予測したこと、そして「そうなろう」と意思したことが、この宇宙を作る。実体化される。
確かに、あなたはそのような観念を持っている。『14歳』の前半でも、スーパーコンピュータが人類の未来を予測すると、処理暴走のすえ「仮説が現実を支配し始めた」と、ただそう思い描いたことでしかない演算処理結果が、実体的なパワーに切り替わる場面を描いていた。すなわち、情報は粒度や確度が超越的なほどに高まると、現実空間に、物質的に介入するものへクラスチェンジし始める。
演算結果が現実になること。極限的に思考すると、それがやがて物質としても現れるというのは、あなた特有の発想だった。未来予測とは、未来をそうするということでもある。
*雑誌『プリンツ21 2001年冬号』
あなたがずっと描きたかったという、『14歳』最後の、宇宙から降りていくように駆けてくる子どもたちは、『漂流教室』でかつて空に向かって登っていくように駆けていった高松翔たちの鏡像である。子どもが世界を作る。やがて子どもは世界を超越し、飛び出る。そして、子どもはまた世界に回帰する。
帰った場所に、かつて君たちにあたたかい夕飯を作ってくれたお母さんとお父さんは、もういないだろう。でも、長い旅を経た君たちはそのことを受け入れる。まだ見たことのない「友だち」が待っている世界を愛おしく、そして待ち遠しく思うだろう。
『14歳』の地球で人類の帰りを待つ「友だち」は、ゴキンチという、かつて人間が残したレガシーから理念・美意識のみを抽出し、受け継いだゴキブリの一匹である。出かけた先にいる「友だち」は高次存在のニワトリ(ロリィ)だった。ニワトリとゴキブリという二極性に指して、あなたは『14歳』は実は「動物もの」だったと語る。
*UMEZZ PERFECTION!『14歳』(4) 巻末ロングインタビュー
そういえば、むかし竹宮恵子が描いた楳図かずお自宅訪問記の漫画によると、70年代中ごろ、あなたは部屋に湧いたゴキブリに名前をつけて飼っていた(というかあえて殺しはしなかった)というし、あるインタビューでも「『14歳』って、実はあのゴキブリたちのシーンを描きたくて作ったようなものなんですよ」と語っていた。*雑誌『プリンツ21(2010春)』
ついぞ家庭を持たずにいたあなたを留守中の家で待つものは、ゴキブリだった。『14歳』の終わりは、そんなあなた自身の戯画的な反復のようにも映り、愉快に思う。
あなたは『わたしは真悟』で、意識の最小単位から地球全体までを描出した。
そして『14歳』で、子どもたちは宇宙に飛び出し、遊び疲れた彼らは、世界に帰還する。ここに、あなたの「最小から最大へ」という作家業の要件完遂を見届ける。
かつて私が図書館で『恐怖への招待』を手に取り、所収の短編『Rojin』に衝撃を受けてあなたと出会ったのは、中学1年生の12歳で、確か1994年だった。その後、漫画喫茶で『14歳』の既刊を読み終えた私は、翌年1995年『14歳』の最終回をスピリッツで見届けている。そのころ、すでに古書店を回る習慣を持っていたことで、歴史と呼ばれるものの肌理を理解できるようになっていた。たとえば、漫画史における60年代と70年代の違いを感覚的に分かっていたし、人に説明することもできた。あのころ、私の時間は、過去に向かって飴状に伸びていた。
『14歳』をすべて読み終えたときに思ったのは、ああ、自分は一生かけてこの作品あるいは、あなたが成しえたことの理解を追い続けるんだろう、という確信だった(まだあなたの作品をすべて揃えられていない少年の時分に、『14歳』はだいぶ難しかった)。
それは、まだ見ぬ「大人」の自分を想像的に捕捉し、「楳図かずお」の理解をめぐって協働関係を取り結ぶという、ある種、未来に向かって伸びていく時間の感覚だったことをいまも憶えている。
■最後に
以上は、あなたへのお別れの挨拶であり、そして、あなたの作品に出会って以降、「私の目に楳図かずおはこう映った」ことの羅列的な感想である。あなたの訃報を聞いたのをきっかけに書き始めたのだから、素描の素描でしかない箇所もだいぶある。
あなたは、プロダクションを組織したりせず、マネージャーをつけないことで長年知られていた。しかし、ある時期からTwitterに「楳図かずおマネージャー」アカウントが生まれ、著作権管理の財団法人UMEZZが設立されたこと。そしてその理事があなたの最期をホスピスで看取ったこと。吉祥寺のMAKOTO CHAN’S HOUSEがいまも使われ、維持管理されていること。孤独癖のあるあなたが信頼できる第三者をそばに迎え入れてから、鬼籍に入られたことを、一読者として嬉しく思う。
つい先日発されたニュース記事を読むと、財団法人UMEZZ理事の言葉に
「楳図さんは自身のことを芸術家だと思われていたので、そうした芸術的評価を揺るぎないものにしたいと考えていたんです」
とあったが、まったく同意する。あなたは芸術家である。当然のことを言うが、ここでの「芸術」とは「とてもレベルの高い文化作品」とかいう意味ではない。マネやデュシャンと同じような意味合いのそれである。つまり、学問とは別様の手段で、イメージや言葉の創作的な連なりによって、世界把握の方法を提示すること。その意味合いにおける「芸術」を、あなたは確実に成し遂げてきた。
あなたの漫画を、ただの娯楽として、かわいい、こわい、おもしろいという感覚のために読むことは当然素晴らしく認められるべきだが、あなたがその手の評価にもうすっかり心動かなくなっていることを、インタビュー等からよく知っていた。あなたは孤独だった。取り組んだことの複雑さ、強度に対し、そこまでかいくぐって手を差し伸ばす人があまりにも少なかった。アングレーム国際漫画祭の遺産賞の歓びに発奮し、『ZOKU-SHINGO』を描き上げたのは、それだけあなたが「芸術」評価に飢えてのことだったと思う。
首記のとおり、思春期以降の私は、あなたをよりよく理解するために、思考し、さまざまな本を読んだり絵を眺めたりしてきた。脇道で、ほかの多くの文化的快楽を知った。
あなたがいない世界で思考することに虚しさを憶えている。しかし、いま私は、あなたがいなくても思考できている。訃報を知ってからこの約2ヶ月間、ふつうにトイレに行き、仕事ができている。底が抜けた心でも、「社会」と呼ばれる振り付けをこの体は覚え、反復可能になっていた。
あなたは結婚し、子どもを作ることを選ばず、作品を世に出すことを、生殖の等価物と捉えていた。言葉が言葉を生む。たまたまそこにある肉と電気信号を宿木に、まるで人間が考えているようで、言葉自身が思考をする。その錯覚的な過程を、「意識」と、そして「生命」と捉えた。
『わたしは真悟』の真悟とは、さとるとまりんが与えた言葉に、やがて静電気のように帯びた自走性のあらわれだったように、私も、あなたが生殖の代わりに残した、無数の言葉の自走性、その一つでありたいと思う。