ももいろクローバーZ 舞台『幕が上がる』感想

先日、菊地成孔がジャズミュージシャンの立場として映画『セッション』が許せないと、1万6千文字の感想(=批判)を書いていた。
スマホでいくらスクロールしても、右側のスクロールバーが水銀の体温計程度のプルプルした動きしか見せない。
長え〜(笑)とウケていたが、そういえば自分も映画『幕が上がる』の感想で同じことをしていたなと思い、Wordで文字数カウントしてみたら、2万2千文字だった。
自分のほうが狂っていた。

それだけ、あの映画への愛憎が、箱根の火山のようにうごめいていた。

いっぽう、俺は映画を見るよりも前から、舞台『幕が上がる』に強い期待を寄せていた。

俺が見たかったのは、ももいろクローバーZ平田オリザのコラボレーションだった。

映画の制作というものを、ある種、ももクロ平田オリザの間を往復する文化的な情報伝達の道すじと考えれば、本広克行喜安浩平はウルトラ電流イライラ棒のようにジグザグしたトラップであり、それをくぐり抜けて良質な作品ができあがるかどうか…という偏見に満ちた見方が、俺の映画『幕が上がる』に対する基本姿勢だった。

そうした中、早くから告知されていたとおり、舞台は平田オリザが台本を書き下ろす。
本広克行が引き続き演出に回るが、映画における喜安浩平の役割は平田オリザがとって代わる。
演劇はその作家の本領でもあるため、相対的に見て、平田オリザ作品と呼びうるものになるだろう。

だから、『幕が上がる』の制作発表がされた時点から、映画よりも先の舞台"にこそ"期待していたと言える。

この初春、舞台に向けて、平田オリザによるワークショップが再び組まれたという。
また、平田オリザはしばしば本広克行が監督する稽古場に立ち寄り、指導に加わっていたと聞く。
舞台『幕が上がる』の"平田オリザ度"の高さに期待を募らせた。

ももクロはこれから何十年も活動していく中で、いずれまた映画に出るだろう。
(それがメンバー全員揃う作品かどうかは分からないけど)
しかし舞台は、この次がいつなのか、そもそも次があるのかどうかすら定かでない。
それだけ、ももクロの活動史の中で特異性を放っている。

客席が900人というZEPPブルーシアター六本木の空間で、俳優たちの息遣いまで演技の一環として享受できる中、ふだんのライブパフォーマンスに比べても、DVDで再現しえない鑑賞体験の質が特に際立っている。
だから、この舞台だけは本当に見たいと思った。

運良く、映画の前売券を使った抽選を通じて、2回分の公演を確保することができた。
(5/7、5/20のそれぞれ18:30開演の回)
5/24の千秋楽は、六本木へライブビューイングを見に行ける予定にある。
俺は卑しい育ちだけど、最近のチケット運には恵まれている。

舞台『幕が上がる』は、一度目に見た時点で感動した。
二度目に見たときも、既視感を憶えるような隙などなく、前回気付かなかったさまざまな機微を楽しむことができた。
LoGirlで川上アキラと百田夏菜子が言っていたとおり、この舞台には複数回の鑑賞でようやく見えてくる重層性がある。

舞台『幕が上がる』は、吉岡先生から退職の手紙を受け取った後の、県大会を目前に控えた時期をえがく。
主人公の高橋さおりが谷川俊太郎の詩『二十億光年の孤独』からインスピレーションを得て、劇中劇『銀河鉄道の夜』に台詞を書き足す。
それを、演じる部員たちに落とし込む突貫工事の期間中の物語である。
結果的に、『銀河鉄道の夜』の劇中劇にフォーカスされた話になっている。
原作小説にもない高い解像度で、劇中劇の全容があきらかにされる。

この舞台『幕が上がる』は、映画で割愛されていた原作の内容を掘り下げるといったケチくさいことをしていない。
原作や映画にはなかった新たな側面(主題)を創発するということに、果敢に取り組んでいる。

本広克行が演出に回ることに対し、誰しも腐心していたであろう、映画でさんざん盛り込まれたあの"遊び心"は、今回の舞台では禁欲的だった。
ありがたい。
というか、本広克行はそのあたりの映画の演出について、「もっと遊びを排して、ストイックに作ってもよかったのかもしれない」と、軽く後悔している胸中を舞台『幕が上がる』のパンフレットに書いている。

舞台の始まりは、吉岡先生の退職を知らされてから、初めての稽古日。
0場(開場〜開演の客入れ中に、少数の俳優が舞台に出て演技をし始めるところ)で、坂倉花奈の演じる1年生が現れ、セットの準備や台本読みをするところから、ゆるやかに芝居がスタートしていく。

0場を終えて開演すると、稽古場に部員たちが一年生→二年生の順に集まり、他愛もない雑談や発声練習、ストレッチが行われていく。
ここで早速、同時多発会話が繰り広げられる。
ある一角はストレッチしながら、また別の一角はセットを組みながら会話し、集団ごとに分立して賑わっているが、三年生が登場すると、全員が同じ方向を向いて「おはようございます!」と力強く挨拶をすることで一つになる。
かと思えば、稽古の準備作業の再開によって、再び各々の行動が分裂し始める。
このランダム性と規則性の繰り返しは、まるで分子を拡大して観察したときの動きのようだった。

リアリズム演劇の潮流を遡れば、ステラ・アドラーは芝居を構築するにあたり、「役の内面を表現する」という問題構成を禁忌とし、むしろ感情に伴う「行為」の織り重なりによって演劇のリアリティを表現すべきと考えた。

たとえば「彼を愛している」という感情は、本来、外在的に観測不能なものである。
しかし、彼を愛している"から行われる行為"であれば、コートを着せてあげる、一緒に歌う、ダンスをする、体を冷やさないよう窓を閉める、といった具合に多様に表現することができる。
リアルさ=役柄の重層性を、内面や個性といったマジックワードで処理するのでなく、こうした外在的な事実の織り重なりで作り上げていくように説いた。

舞台『幕が上がる』序盤の稽古場のシーンも、部員たちの機微の一つひとつに解釈を寄せる暇なく(少なくとも1〜2回の鑑賞では)、誰がどういう動きをしたか、誰が何を発言したかという事実性の乱反射を披露している。
これこそ、街中を歩くときであれ、Twitterのタイムラインを眺めるときであれ、我々がまさに日ごろ生きる「現実」のあり方に違いない。

部員たちが喋るとき、多くの場合、ペアストレッチやセットの組み立て、台本をパラパラめくるなど、併せて何かほかの動作も行っている。
これが、平田オリザのよく言う「分散」や「負荷」かと、ようやく生で拝めたことを嬉しく思った。

「負荷」がとりわけ顕著なのは、準備運動の昂じたガルルと高田(伊藤沙莉)が連続ジャンプをするところだろう。
(映画で狂ったダンスをしていた二人が、引き続き近い役割をまかされている)
連続ジャンプを終えた後、二人はぜえぜえと激しく息切れする。
彼女らが飛び跳ね、疲労しているという点において、これは演技でない。
事実飛び跳ね、疲労している。
ここはコメディリリーフだが、芝居という嘘の中に、俳優自身にとって現実としか言いようがない様が(ほとんど話の筋に関係なく)挿し込まれることで、ゆかいな緊張感が生み出されていた。
(観客たちは、息切れしているガルルと高田を愛おしく思う)

この序盤は、ドラマティックな展開をまだ先に控えている段階にあるが、静かにさまざまな諸力がひしめき合うことの"豪華さ"として見れば、作品全体の中でも目を見張るものがあった。

そして『銀河鉄道の夜』の稽古が始まり、劇中劇が仔細に繰り広げられていく。
舞台の場合、映画以上に声量を張り上げないといけないため、その語気に合わせ、掛け合いがやや早めに、リズミカルに行われる。
いくらか芝居の調子が高まってきたところで、適宜さおりから演出指導が入る。
それを受け、指導前・指導後の変化を演じ分けるという丁寧な作業が披露される。
演じ分けているのは、冨士ケ丘高等学校の演劇部員であり、そして舞台『幕が上がる』にキャスティングされた現実の面々でもある。
現実とフィクションの人間双方に等しく課せられた演技という、劇中劇ならではの重層性をここで実感させられる。
(この演技指導のビフォーアフターを披露するのは、実は映画であまり掘り下げられていない芸当だった)

次に、家に帰ったジョバンニが母と話をする対話劇になると、多くの部員たちは出番からあぶれることになる。
しかし、あるところで別の部員が母の台詞をハモり、その役を引き継ぎ、いっぽうジョバンニでも同じようなハモり→引き継ぎの連鎖が行われ、そのまま双方の役を部員たちがバトン式に演じ合ってていく。
母やジョバンニを演じるのは、誰でもなく、そして誰しもである。

ここでも、しばしばさおりから「そこもうちょっと間を取って」と演出指導が入り、「はい」と応じることで、俳優であり部員である顔が呼び戻される。
つまり、稽古の中で、役柄から部員という社会的立場まで、さまざまな属性が絶えず入れ替わる。
タマネギの皮を何枚も剥ぐうち、中枢たる実にあたることなくタマネギがすべて消えてしまうように、あるいはバッハやコーダルなモダンジャズのように、薄膜の折り重なりがその作品のすべてであるような構造を有していた。

人々が一つのまとまった流れを成し、かといって、その塊に注視すれば一人ひとり異なる個人を識別させられるという意味では、劇中で取り上げられるミルキーウェイのようにも思えた。

明美ちゃん演じる先生が言うように、「天の川」と呼ばれる光のもやは、実際は膨大な星々の集合体である。
逆に、われわれ人間のように離ればなれである個物たちは、宇宙のはるか遠くから見れば、地球という一粒の点、あるいは光のもやとして同一化する。
このようにミルキーウェイは、分節(任意の部分を有機的なひとまとまりと見なすこと)と、その分節が解体されることの循環構造を持っている。
こうしたミルキーウェイ的な分節性を、舞台『幕が上がる』の通奏低音として提示するのが、序盤の稽古場のシーンであるように感じられた。

だとすれば、その通奏低音のうえを流れるドラマティックな主題は、次の2つになるだろう。

・中西さんの失語
・なぜカンパネルラのお父さんは、息子の死に平然としていられたのかというガルルの問い

まず、カンパネルラの濡れた髪(溺死の痕跡)をジョバンニが拭こうとするシーンで、カンパネルラ演じる中西さんが失語に陥り、その日の稽古が中断される。

翌日、さおりは学校の屋上で明美ちゃんから「中西さんは以前岩手に住んでいて、東日本大震災の後に引っ越してきた」ことを教えられる。
中西さんがカンパネルラの溺死にかかわる場面で喋れなくなったのは、その背景のせいではないかという推測が自ずと立ち上がる。

後日さおりは、カラオケボックスで三年生だけの稽古の場を設ける。
意外にも呼びかけに応じてくれた中西さんは、心配するさおりやユッコ、がるるに対し、胸中を語る。
自分が震災当時、岩手に住んでいたといっても停電を2日間こうむっただけであり、そのせいで被災地の惨状も数日遅れのワンクッションを挟んで知らされた。
しかし、いくつもの命が失われていったあのとき、地理的に、岩手県の中学生たちは「なぜ自分が生きているんだろう」と思ったこと、感じたことを中西さんは涙ながらに語る。
いわゆるサバイバーズ・ギルト(災害などで運良く生き延びた者が感じる罪悪感)である。

なぜあのかけがえのない人々が死ななければいけなかったのかという問いは、彼らに対し、自分は生き延びるに値する理由や因果を持っているのかという問いを誘発する。
災害などで突如襲ってくる死は、人それぞれの価値に応じて振り分けられたことでなく、ただの偶有的な事態に過ぎない。
この「自分が生きている」事実の偶有性(たまたま性)を受け入れられないことが、サバイバーズ・ギルトの核を成す。

たとえば、ホロコーストで親兄弟を殺されながら生き延びたレヴィナスは、「死」とは、語りかける宛先の絶対的不在であり、死者の歴史をつむぐこと(代弁すること)の暴力性ないし、言語行為の不可能性をあらわにするものだと語っている。
中西さんも、カンパネルラの役を通じて、震災のとき身近に触知した死を思い起こし、言葉を失う。
彼女は、感情の高ぶりが冷めやらぬまま、次の稽古日には必ず顔を出すと言い、カラオケボックスを後にした。

〜〜〜
ここでいったん話を変える。

上で書いたとおり、この舞台では劇中劇『銀河鉄道の夜』にフォーカスをあてている。
ようやく劇中劇の全容があきらかになった中、特にプリオシン海岸で発掘している大学士の描写一つひとつを楽しむことができた。
そこでは、宮沢賢治の原作に対する細かな造詣を見て取ることができる。
ひいては、文学者であり仏教徒である宮沢賢治が、同時に「科学」をどう捉えていたかという問題を暗示している。

劇中劇の大学士は、「白亜紀の白鳥」を見つけたことを喜び、またジョバンニとの話の中で「天空の地層は複雑ですからね」と語る。
恐竜の時代である白亜紀に、白鳥は存在しない。
また、「天空の地層」は語義矛盾である。
これらの用語は、宮沢賢治の原作『銀河鉄道の夜』の台詞の中にない。

むしろ、その童話に先行する詩集『春と修羅』の以下の序文から引用されたものに違いない。

けだしわれわれがわれわれの感官をかんじ、やがては風景や人物を信ずるやうに、そしてただ共通に信ずるだけであるやうに、記録や歴史、あるいは地史といふものも、それのいろいろの論料といつしょに、(因果の時空的制約のもとに)、われわれが信じているにすぎません。おそらくこれから二千年もたつころは、それ相当のちがつた地質学が流用され、相当した証拠もまた次々過去から現出し、みんな二千年ぐらい前には、青ぞらいつぱいの無色の孔雀が居たとおもひ、新進の大学士たちは気圏のいちばん上層、きらびやかな水窒素のあたりから、すてきな化石を発掘したり、あるひは白亜紀砂岩の層面から、透明な人類の巨大な足跡を、発見するかもしれません。

この序文の中に、「地質学」や「大学士」という言葉が使われていることから分かるように、『銀河鉄道の夜』におけるプリオシン海岸の大学士は、宮沢賢治が『春と修羅』で示した科学観を童話の中で代弁させた人物であると考えられている。

上の引用文はいささか読みづらいが、つまりこういうことを言っている。

人々が、「風景や人物」といった日常的な対象の実在性を当然のものと信じているのは、ただ単に視覚や聴覚といった「感官」の結果にすぎない。
見える、聞こえるということをもって、その対象が真であると判断している。
さらに、日ごろから隣を連れ添う人間同士が「ただ共通に信ずる」という事実をもって、日常的確信を一層固いものにしている。
つまり人が何かを信じることは、多くの場合、感覚と共同性の二つに依拠している。
むろんそれは必ずしも科学的な認識ではなく、存外あやふやなものである。

いっぽう、歴史(=地層から読み取れる古代的な地史)を認識する場合、視覚や聴覚といった感覚作用は出番を持たない。
代わりに誰かが提示した研究結果などの「論料」ないし、言語を介して、その歴史が過去実際に存在したことを信じる。
言語に支えられている以上、ある特定の時代のパラダイム、科学技術に依存するため、人々の歴史観というものは「因果の時空的制約のもとに」束縛されている。
これも、認識のあやふやさから完全に自由ではない。
だから、いつか「二千年」もの長い年月を経たとき、現時点では思いもよらない「地質学」が確立していることによって、まったく新しい地球史観が成り立っているかもしれない。
たとえば「気圏」ないし天空に「化石」を見つけるかもしれない。
白亜紀」の地層から、そのころ存在するはずのない「人間」の足あとを見つけるかもしれない。
(過去→現在→未来という単線的な時制秩序が崩壊しているかもしれない)

このように宮沢賢治がユーモラスに示した二千年後の科学像を、劇中劇でガルル演じるプリオシン海岸の大学士が(「白亜紀」「天空の地層」といった言葉の引用を通じて)体現させられている。

つまり、劇中劇の大学士は、現代の科学技術からは想像もつかないような知識体系をそなえたポストヒストリカルな存在として現れている。

そもそも科学者という生き物自体がポストヒストリカルな存在だと言えるかもしれない。
それは、次のジョバンニと大学士の問答にも関連する。

ジョバンニが、化石の発掘に関して「標本にするんですか?」と問いかけるのに対し、大学士は「証明するにいるんです」と答える。
宮沢賢治の原作から、該当の台詞を引用する。

いや、証明するにいるんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらいにできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水か、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい。

この大学士は、ある地層の現状を眺めることで、百二十万年前のありようを見て取ることができる。
また、発掘過程の中で、その証拠も「いろいろあがっている」と言う。
つまり、大学士は地質学を学び修め、研究を深める中、現在の形相から過去も一様に把握することができる能力を習得している。

賢治は、生前アインシュタイン相対性理論を学んでいたと言われているが、特殊相対性理論におけるミンコフスキー空間は、プリオシン海岸の大学士が話す問題に近似している。
(賢治も、自らのノートにMincowskiという落書きを残している)

ミンコフスキー空間とは、通常の三次元で言うところの上下・左右・前後に加え、時間も"方向として"加えた空間のことを言う。
過去と未来は、この三次元世界では「もうない/まだない」ものであるが、ミンコフスキー空間では、ただの方向上の違いとして同一空間上に存在するものになる。

プリオシン海岸の大学士が証明しようとしたものは、自らが「現在の形相から過去も一様に把握する」ことができる中(すでにミンコフスキー空間的に地層を把握できる中)、それが「ちがったやつからみても」同様に見えるかどうかということだった。
つまり、「標本」といった情報の体系構築のためでなく、過去を含む時間のうちに生起する一切のものは永在するということ、時制から解放された認識機能の確立を目指していたと言ってよいだろう。

劇中劇のカンパネルラは、続けて「たくさん勉強すれば、本当の幸せを見つけられますか?」という問いを投げかける。

まず、大学士は「それはどうだろう」と、慎重に留保を踏まえる。
しかし「たくさん勉強すれば、本当の幸せを見つけたときに、それを逃さないかもしれない」と優しく語りかける。

このように、勉強(科学)の力をもって「本当」のものを峻別するという話であれば、おそらく『銀河鉄道の夜』の初期稿でブルタニロ博士(セロのようなやさしい声の人)が語った信仰/科学論が、上記の問答の素材とされているだろう。

お前は化学をならつたろう。水は酸素と水素からできているといふことを知つている。今は誰だつてそれをうたがいやしない。実験してみるとほんたうにさうなんだから。けれども、むかしは水銀と塩でできているといつたり、水銀と硫黄でできているといつたり、いろいろ議論したのだ。みんながめいめい自分の神さまがほんたうの神さまだといふだろう。けれども、おたがひにほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それから、僕たちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももし、お前がほんとうに勉強して、実験でちやんと、ほんたうの考えと、うその考えとを分けてしまへば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学も同じやうになる。

科学技術が発展していない世界で、信仰の異なる人々がたとえば「水」の構成を議論するとき、「水銀と塩」「水銀と硫黄」といった考えと、おのおの「自分の神さまがほんたうの神さま」であることを主張する。
それはただの水掛け論でしかなく、彼らが同じ神や教義を共有していない以上、最終的には妥協策のようなものとして、信者同士の行動が比較される。
それなら「おたがひにほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれる」といった情緒的な相互理解が可能になる。
仏教徒捨て猫を拾って助けたことを、キリスト教徒が感心するということはおおいにありうる。
こうした共同性によって、真偽の議論に決着をつけることが、日々この世界では行われている。
むろん、それは人間同士の問題(「僕たちの心がいいとかわるいとか」)に終始するだけであり、結局ものごとの真偽に関して「勝負」がつくことではない、
だから科学をもって「ほんたうの考え」と「うその考え」を峻別する必要性が生じる。
本来「信仰」とは神に向けられたものでありながら、その構造上、人間同士の共同性に拠らざるえない不確定性を有している。
そうした中、宮沢賢治は、「科学」とはさまざまな問題を共同性の次元から引き剥がし、神=真理のレベルに引き戻す審級であると考え、ひいては「信仰も化学も同じ」ものに収斂しうると言ってみせた。

いっぽう、『銀河鉄道の夜』にはもう一人の科学者がいる。
ジョバンニから「博士」と呼ばれているカンパネルラの父である。

カンパネルラの父の専攻は定かでないが、彼の書斎を通じてジョバンニとカンパネルラが天の川の知識を得ていたことから、天体物理を学び修めた学者であると推察される。

宮沢賢治銀河鉄道の夜を書いていた1920〜30年代にかけて、ハッブルが銀河の光の赤方偏移を観測し、宇宙の膨張を発見した。
宇宙膨張説は、すでにアインシュタイン一般相対性理論によって示されていたため、ハッブルの観測結果はその実証とされた。
アインシュタイン一般相対性理論のさらなる帰結として、宇宙はいずれ収縮することを見出している。
宇宙が拡がる中、その空間内に蓄積していく質量=万有引力が一定を超えたとき、宇宙は収縮に転じ、かつて拡がった時空間の一切が無の特異点へと収斂していく。
これがビッグクランチという説である。

宇宙が拡がり、銀河同士が引き離されている中、万有引力が再びお互いを引き寄せ合わんと潜勢を成していることを、谷川俊太郎は『二十億光年の孤独』の中で、「万有引力とはひきあう孤独の力である」と表現している。

アインシュタイン物理学を学んでいたという宮沢賢治が、こうした宇宙膨張の次の段階を承知していた可能性は高い。
であれば、カンパネルラの父が天体物理を知る「博士」であることと、息子の死をほとんど平然に受け止めたことは、次のように一本の線に結びつけることができるだろう。
つまり、いま引き離されつつあるすべて物質は、いずれ特異点に収斂する。
だから離ればなれになった死者との別れは、ある特定の時制に立脚する限りで「別れ」と言えることでしかなく、本質的には悲嘆に値することではない、と。
そもそもカンパネルラは、ザネリを助けて溺れた川から、そのまま天の川(銀河鉄道)に運ばれ、天体物理の世界へと還元されていった存在だった。

先に述べたように、プリオシン海岸で発掘をしていた地質学の大学士は、一切の過去は同一空間上に現前するものと考える点で、ポストヒストリカルな存在だった。
それは宇宙物理の側に立つカンパネルラの父も同じことである。
その二人は、ジョバンニがカンパネルラとの死別を克服する理路を、別様に暗示する二極の科学者たちだった。

以上は俺が勝手に書いていることなので、当然さおりは、別の形でカンパネルラの父の態度、その解釈をガルルに説明する。

劇中劇『銀河鉄道の夜』は、ジョバンニが友だちの死を乗り越える話である。
その到達点を目指すにあたり、カンパネルラの父が一緒に息子の死を悲しんでいたら、ジョバンニの悲嘆が持続されてしまう。
だから、カンパネルラの父は、ジョバンニの克服をうながす「役割」をまっとうするため、平然とした様子にえがかれる。
さおりは続けて「大人になるってそういうことなんじゃないかな」と問いかける。

自らが何を言い、どう振る舞うかは、与えられた「役割」というトポスに従う。
それは誰に与えられたとも言えない――強いて言えば、神や自然が振り分けたとしか言いようのない一種の偶有性である。
それを受け入れることが、「大人になること」ではないかと、さおりは考えた。

その形式は、かねてから劇中劇の中で、りんごと椅子を用いてえがかれている。
ジョバンニとカンパネルラの前に、タイタニック号で死んだ少年が現れ、3人のかけあいになったとき、部員たちが役の台詞をバトン式に引き継ぎあう、あの美しい連鎖を再び繰り広げる。
この場面で、ジョバンニ、カンパネルラ、少年の3人ともがりんごを持ち、椅子に座っている。
元々演じていた部員が、次の部員に役を引き継がせるとき、りんごを手渡し、そして立ち上がって椅子を譲る。
その二つを託された部員は、ジョバンニになりカンパネラになり、タイタニック号と沈んだ少年になる。
その位置、その物質を託されることが、彼女らの人称の入れ替わりにつながる。

部員一人ひとりがこうした入れ替わりをスムーズに演じてみせる姿を見て、さおりは、「みんな誰でもカンパネルラになれる」「もう、みんな、ちょっとだけカンパネルラだもん」と言う。
ここでの"カンパネルラ"とは、「みんな、人のために、少しずつ何かができるってこと」の言い換えであると、さおりは補足する。

カンパネルラとは、そもそも川に溺れるザネリを助けるため自らの命を投げ打った存在であり、そして銀河鉄道に揺られながら、自らの死に際に行おうとした「ほんとうによいこと」を、(我が子との死別で悲嘆に暮れているであろう)母が理解してくれるか懊悩する存在だった。
こうした宮沢賢治が理想とした菩薩行的な善と、部員らが演技で実践する偶有性の受け入れが並列され、結び付けられる。

ある存在が果たす機能を、本質的にでなく、偶有的に考えるのは、構造主義的な発想だ。
所定の言語が何を意味しているかは、時代や文化、あるいは会話の文脈によって絶えず変わりうる。
言葉というものを、さまざまな意味が出入りする空虚な箱、ないし偶有的なトポスと考えるのは、丸山圭三郎の影響下で現代口語演劇を理論化した平田オリザらしい仕事だと言える。
平田オリザがコミュニケーション論の中で「コンテクスト」というタームを使い、人それぞれの語用のぶれを問題化するのも、彼の言語学的な演劇理論が、現実のコミュニケーションの次元へと拡張されたものと見ていいだろう。

最後に、ブラックホールを目前にしてカンパネルラと別れたジョバンニが丘の上で目が覚めたところで、そのまま劇中劇のラストへと、そして舞台『幕が上がる』の締めくくりまで一挙に演じられる。

舞台は暗転し、木のブロックに上体をあずけて眠るジョバンニの後ろでは、オレンジ、黄、青といった色とりどりの星々がきらめいている。
美術室のディテールが一切片付けられた暗い空間は、部活の稽古場というよりも、彼女らが再現しようとした『銀河鉄道の夜』の世界そのもののように見える。
星々は、壁に仕込まれたものから、空中にぶら下げられたものまでがレイヤー状に重ねられ、夜空の立体性を演出している。

この夜空の暗さと立体性にすうっと吸い込まれたとき、直観的な感動とともに、中井久夫が著書『徴候・記憶・外傷』の中で、ヴァレリーの『若きパルク』を引きながら徴候的世界を語るくだりを思い起こした。

すぎゆく ひとすじの風ならで 誰が泣くのか?
いやはての金剛石(ほしぼし)とともにひとりある このひとときに……
誰が泣くのか? だが その泣くときに かくもわが身に近く。

パルクは深夜にめざめる。おそらく夜の半ばだろう。宇宙の地平に明滅するいちばん遠い星がいちばん近くに感じられ、その他はすべて闇だというなかにめざめる。私が泣くという自己所属性の意識はない。すぎてゆくひとすじのような風にまがう。かそかな泣き声。それは誰の泣き声なのか。パルクはおのれを知らない。身体のほとんどはめざめていないのだから。(…)何の予兆とも知らされていないが、しかし、ほとんど現前するもののない世界だ。これは純粋予感だ。あるいは発生期状態 in stato nascendi にある予感だ。

夜空の星々と、それを感じる不完全な知覚の事実があるだけで、その知覚主体が"私"であるという明瞭な認識や、夜空の下のここがどこなのかという気付きは存在していない。
銀河鉄道の夜』の天気輪の柱あるいはジョバンニが目覚める丘のうえこそ、まさに『若きパルク』のような徴候的世界がえがき出される場面だった。
丘のうえで眠るジョバンニないし玉井詩織の姿に胸打たれながら、そういうことに気付かされた。

そして、この夜空に吸い込まれることが、ひいては玉井詩織の演技に引きこまれていくことへとスライドしていく。
平田オリザ本広克行は、舞台稽古が始まったときから、メンバーの演技力が「映画のときよりもうまくなっている」と評していた。
実際、完成した作品を観劇しながら全メンバーの成長を実感することができたが、それをもっとも確信させられたのは、ラストの玉井詩織だった。
映画のときよりも声が瑞々しくなっているのに、ジョバンニが心に整理のつかないままカンパネルラへの別れの言葉を絞りだす痛切さを、かすかな喉の震え方一つで再現しきっている。
20メートルほど先に壁がある劇場内にもかかわらず、さらに何光年も向こうの夜空を覗き込んでいるように見える。
映画では、これほど切なくジョバンニを演じられていなかった。

舞台の奥、上段に中西さんが(カンパネルラの衣装を着る暇もなく制服姿で)現れ、クルミを叩く。
木のブロックのセットでなく、暗転された階段のうえに立っている。
部活に復帰したという生の現実よりも、むしろ宙に浮かぶ幽体のカンパネルラの分身として現れたように映る。

手を振るカンパネルラにジョバンニが「また、いつか、どこかで!」と叫び劇中劇が終わったとき、中西さんが舞台へ駆け下り、さおりと抱き合う。
その多幸的な空間を祝うように部員全員が壇上に集い、そのままカーテンコールへとつなげられていく。

中西さんが東日本大震災のとき岩手にいて、いまこうして生きていることは偶有的でしかない。
いっぽう吉岡先生を失った後、「大人になる」ことを求められたさおりたちが稽古の最中に気づいたことは、まさに偶有性を受け入れることの必要さだった。
中西さんとて、"たまたま"生きているという事実を、(因果性というオブセッションを抱えず)そのまま受け入れればよい。
偶有性を受け入れることとは、まさに自分たちが作り上げた芝居の、絶えず入れ替わって明滅する役柄(人称=言語的主体)と同じである。
カンパネルラの父が、息子の死に際して内面を空虚化して立ち現れることも、偶有性の受け入れの一つと言える。
さおりらは、稽古しながらそのように思い至った。

以上の意味で、ガルルが自らの役について投げかけた問い(なぜカンパネルラのお父さんが息子の死に平然としていられるのか)は、中西さんが抱くサバイバーズ・ギルトと一本につながる問題だった。

むろん、中西さんは数日部活を休んだだけであり、さおりたちの観念的労力に立ち会ったわけではない。
カラオケボックスで涙した以外に、心のくさびを取り除く契機は与えられていない。
なぜ彼女が明るく部活に復帰するに至ったのかは、明確な説明が欠けている。

しかし、さおりたちが考えた偶有性を受け入れようという命題が、いま生きている中西さんの存在肯定を"暗示"していることは、あきらかである。
さまざまな暗示がひしめき合い、論理構成に多元的な広がりをもたらしながら、最後に、童話ならではの無根拠な合一を果たすというこの構造こそ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に共振した作りに違いない。
伏線回収だとかシナリオの整合性だとか、そういうものは名探偵コナンにでもまかせておけばいい。

舞台『幕が上がる』には、映画や原作とは異なる、独自の質の感動が確かにあった。
それは先行する『幕が上がる』の諸作よりも、むしろ宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に感じた歓びにこそ近いものだったと思う。

カーテンコールでスタンディングオベーションをするとき、それが毎公演で恒例となっているからでなく、心から感動したからという気持ちで参加することができた。
本当によい作品だった。

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以上をWordで文字数カウントした結果、1万3千文字だった。
俺は狂っている。

明日の千秋楽LVのチケットを発券してこよう。