ももいろクローバーZ 映画『幕が上がる』感想(3/3)

■この映画がももクロに何をもたらしたか

前提に立ち返ると、俺はこの映画を"ももクロのため"に見た。

大事なのは、この映画が作られたことが、ももクロにとって良かったかどうか、でしかない。
俺が映画を心から楽しめなかったことなど、本来些末な問題に過ぎない。

結論から言えば、ももクロにとってかけがえない作品になっている。
だから、この映画は断固として「成功」している。

まず映画『幕が上がる』のオフィシャルフォトブックから、百田夏菜子のインタビューを抜粋したい。

百田夏菜子
今までももクロは、ひとつの作品を短期集中でぶわーっと作ってきて、お客さんに見せて、また次のライブに取り組む……それをずっと繰り返してきました。本当にその一回一回、一瞬一瞬が勝負で、だから余韻に浸る間もなかった。『幕が上がる』はその一瞬っていうよりは、なんだろう……ももクロの進み続ける時間とは別に、『幕が上がる』のこの作品だけはずっと時間が止まっていて、いつ戻っても、あの時間が常に流れる。そんな風に感じるんです。

月刊TAKAHASHI 2月号のLVに備え、食事を摂っていた六本木のマクドナルドでこの一文を読んだき、泣いた。

ももクロは、"現在"を何より大事にしている。

それは、17世紀の啓蒙主義者たちが、芸術をめぐって古今論争を展開したとき、ウェルギリウスなど古代の偉大な詩人よりも、この現代に書かれた詩のほうが(作品の質どうこうでなく)"現代に位置する"という一点で重要性を持つと主張した論理に、どこか似ている。

たとえば、パッと思いつく限り『CONTRADICTION』の「今日しかない気持ちで勇気を試そう」、あるいは『未来へススメ!』の「振り向かないで突き進むんだ」など、さまざまな曲の歌詞で、過去よりも"現在"にだけ目を向けることが歌われている。

ももクロのメンバーたち自身も、さまざまな試練や新機軸の活動を課せられ、日々成長し、変容していく。
いまのももクロは、いましか見ることができない。
ヘーゲルが言うように、歴史とは反復されないものを指す。
(反復されるなら、それは科学技術である)

この意味で、ももクロも極めて歴史的なアイドルグループだと言えるし、ファンたちが「無印時代」「××新規」というさまざまな時代区分を(特に、新規をめぐって細分化されすぎだろうというぐらい)設けていることからも分かりやすい。

ももクロの大規模なライブは、約半年間を経てDVDやBlu-rayになるが、それを後で見ることは、当時の現在性(アイドル用語における"現場")の再現には決してならない。
この「現在を取りこぼす」ことへのオブセッションが、ライブアイドルとしてのももクロの強さの一因を担っているように思う。

俺も、こうしたももクロの在り方にいつも胸を揺さぶられているが、しかし、穏やかならぬ思いも内心抱いている。
"現在"は時間が続く限りいつまでもあるが、そこに立つ物質は有限であり、いつか終わりを迎える。
生命のレベルで言えば死であり、(明美ちゃんが言うように)演劇部の学生には卒業がある。

だからこそ、百田夏菜子が言うとおり、映画『幕が上がる』が「ずっと時間が止まっていて、いつ戻っても、あの時間が常に流れる」作品になったことは、ある種、ももクロが"現在"への抵抗を初めて打ち立てることができたと言える。
それは一つの「達成」である。
だから、六本木のマクドナルドで泣いた。

あーりんも、そういう問題を『幕が上がる』の明美ちゃんを演じた中で考えてきた。

佐々木彩夏
明美がさおりに言うんです。「このまま時間が過ぎれば、さおさんがいなくなる日は絶対来る」って。私自身、ももクロに入ってからその終わりにあるものに対してあんまり考えたことはなかったんです。ももクロがいつまであるかは誰にも分からない。とりあえず前に前にってことだけを考えて今までやってきたけど、確かにすべての物事に終わりがあるんだよなっていうのはあらためて考えさせられましたね、ここで。
だから明美ちゃんとしても、ももクロのあーりんとしても、そして佐々木彩夏としても、『銀河鉄道の夜』から受けた影響は大きいのかもしれない。あの作品には「今はたまたま一緒にいるけれど、本来は一人なのかもしれない」みたいな意味も込められてるじゃないですか。

何か生産的な活動をしても、いずれすべて無に帰すと考えたとき、生産の意義はどのように確保されるか。

それは、劇中で(ももクロのメンバー中)自分だけ2年生の役であり、さおりを始めとした3年生の努力に感動しながら、しかし"さおり無き後"の問題に目を向けざるえない明美ちゃんに課せられた問題だった。

たとえば、ももクロはアイドルグループとして来たるべく解散の可能性に無縁でない中、国立競技場ライブの2日目のMCで、れにちゃん、あーりん、しおりんの三人が「いつまでも、ももクロを続けられるように」といった永続宣言をし、締めくくる百田夏菜子が「笑顔を届けることにゴールはない」という伝説の言葉を残した。

いわば、可能な限り、死(=解散)の遅延をはかり続けるという誓いによって、これからも続くアイドル活動の意義を暫時確保した形式になっている。
しかし、それはメンバーがファンのことを思い続けるという真摯さに、すべてが託されている。

この宣言に励まされ、生かされているファンは俺を含めたくさんいるだろうが、永続的な活動とは別途に、たとえいつかももクロが無に帰すとしても、なお残り続ける何かを作るという活動軸はないかと、うっすら期待してきたところがある。

たとえば、俺はももクロとは別途に、ボードレールやマネ、あるいは楳図かずおが好きで、それらの作家が取り組んだ現在性のというものの強度を知っている。
彼らは現在というものを、昨日の問題を克服し、そして明日には今日の問題を克服するという弁証法的かつ単線的な時系列の中の、特定の時点として考えたりしない。

むしろ、そうした時制から解き放たれた、絶対零度特異点を確保するということをやっていた。
ここでの特異点Singularityとは、宇宙が膨張から収縮に転じ、ビッグバンが起きたときよりも前の状態――すなわち時間も空間もない無次元に凍結した状態のことを指す。

(簡潔に触れるが、ジョバンニが膨らみ続ける宇宙の中、孤独を感じていたのに、やがてカンパネルラとの共同性を確信することができたのは、宇宙膨張の次に必ず控えているビッグクランチ――特異点への収束が遠い将来控えていることを、銀河=カンパネルラが溺れた川という理解の元、気づくことができたからだ。谷川俊太郎『二十億光年の孤独』も、やがてビッグクランチを引き起こす万有引力のことを「ひき合う孤独の力」と表現している)

楳図かずおわたしは真悟』で、悟とまりんが大人になっていく時間の流れに抵抗し、真悟というノンセクシュアルな子作りを行ったことは、大人でも子どもでもない(そうした時系列から離脱した)特異点を確保しようとする試みだったと言えるだろう。
(さらに言うと、俺が一番好きな映画のスピルバーグA.I.』も同じような問題を取り扱った話だ)

こういった問題であれば、ドゥルーズが『意味の論理学』で説いた「出来事の形而上学」が分かりやすい。
ふつう物語を語るとき、過去(起きた)・現在(起こる)・未来(起こるであろう)の三つで記述されるが、「出来事」の次元で語られるときは、不定詞「起こること」で記述される。

たとえば「水が流れること」と書いたとき、それは過去・現在・未来どの時点にも起こりうる(代入しうる)代数的な記述になる。
歴史的・物語的な記述は、特定時点の状態(例:2015年の加藤茶は妻に殺されそう)で書かれるが、それをむしろ上述のように抽象化された出来事の次元に変換する。

ほかにも同様に「日が差すこと」「蒸発すること」といった出来事の次元の記述を多数用い、化学反応の連鎖のようにつなげあうことで(=セリー化)、ヘーゲル的・弁証法的な歴史秩序から解き放たれる記述の可能性をドゥルーズは示した。

あーりんは「出来事の形而上学」に相当することを、オフィシャルフォトブックの中で、続けてこう語っている。

この夏、みんなで映画を作ったけど、いつかその時間も終わる。だけど、そこで離れ離れになっても『幕が上がる』は残るんですよね。(…)カンパネルラは死んじゃったけど、でもそこにいたことには変わりがない。死んじゃったからもう終わりじゃなくて、カンパネルラがいたからジョバンニが成長した。カンパネルラとジョバンニの時間っていうのは、たとえカンパネルラがいなくてもなくならないんだなっていうこと。

なぜカンパネルラと永別したジョバンニは、なおも一人でないと言えるのか。
それはあーりんが言うように、カンパネルラを、カンパネルラがいた"こと"ないし、「出来事」の次元に転換するからである。
重要なのは、カンパネルラが生きて隣に連れ添うことではない。

これは平田オリザが提唱する現代口語演劇のありかたにも連動している。
著書『現代口語演劇のために』の中で、一例として「歯が痛い」ことの演技について語られる。

「内面と外面の一致」を重んじるスタニスラフスキーシステムやメソッド演技法であれば、悲しみや怒りは、自らが過去に実際体験したさまざまな記憶を呼び起こすことで演じられる。
しかし「歯が痛い」ことは、実際に虫歯にならないと、内面と外面を一致させることができない。
どこか肌をつねったりしても、虫歯特有の「あの痛さ」の質は再現できない。
すなわち、リアリズム演劇は「歯が痛い」ことを取り扱えない。

しかし平田オリザは、リアルな演技というものを、「歯が痛い」ことの再現でなく、「彼は歯が痛いらしい」次元で取り扱うものと考える。
このような観察結果の形式であれば、彼が歯が痛いことが真実かどうか定義せず(言質を負わず)、戯曲を展開することができる。
これは英文なら、ある記述の冒頭に It seems that を置くことになる。
要件をIt("それ"という出来事の次元)でくくり、真理のレベルから宙吊りされた状態にすることで、むしろ対象の意味的な揺らぎを描き出す。
これが現代口語演劇の、まず基礎をなす考え方である。

「真理のレベルから宙吊り」することは、「AだけどAではない」という『幕が上がる』の中枢論理にも結びつく。

あーりんは、『幕が上がる』と『銀河鉄道の夜』から学び得た「一人だけど一人じゃない」形式を、映画の撮影を終えた自分たちにも適用し、「『終わり』はあるけど『終わり』じゃないっていう感覚が今私の中にすごくある」と咀嚼した。

同じく、百田夏菜子も映画『幕が上がる』を「ももクロの進み続ける時間とは別に、この作品だけはずっと時間が止まっていて、いつ戻っても、あの時間が常に流れる」ものとして刻み込んだ。

刹那的な現在主義として駆け抜けてきたももクロが、無時間性の相を確保できたことは、俺が知る限りの活動史において、はじめてと言ってよい。

だから『幕が上がる』が撮られてよかった。
ももクロにとって、なくてはならない作品になったことが、何より嬉しい。

この作品は成功している。