ももいろクローバーZ 映画『幕が上がる』感想(1/3)

俺は、ももいろクローバーZを愛している。

さる昨年10月末、映画『幕が上がる』の制作が発表され、先行的にエンディングテーマ『走れ -Zver-』のPV(パイロット版)が公開されたとき、その美しい映像に涙しながら「俺はこの映画を、本気で、見よう」と心に誓った。

ひとまず理解の手助けになるであろう本を11冊ほど読んだ。

<原作>
平田オリザ『幕が上がる』

<演劇論>
平田オリザ『演劇入門』『演技と演出』『平田オリザの仕事〈1〉現代口語演劇のために』
リー・ストラスバーグ『メソードへの道』
ロバート・H. ヘスマン『リー・ストラスバーグアクターズ・スタジオの俳優たち―その実践の記録』
ステラ・アドラー『魂の演技レッスン22 〜輝く俳優になりなさい』

銀河鉄道の夜
宮沢賢治銀河鉄道の夜新潮文庫)』
見田宗介宮沢賢治―存在の祭りの中へ』
西田良子『宮沢賢治銀河鉄道の夜」を読む』
石内徹(編)『宮沢賢治銀河鉄道の夜」作品論集』

※そのほかにも映画『幕が上がる』を取り上げた雑誌など多数

このうち原作は3回読んだ。
もはやストーリー展開で手に汗握る系の楽しみ方は、初めから放棄している。
映画を見て"楽しむ"のもよいことだが、それよりも「この映画によって、ももクロが何を成し得たか」を、よりよく理解したいと願った。
(得た知識の8割は、作品理解とあまり関係してこなかったけど)

ファンの中では少ないほうだろうが、映画は現時点で3回観ている。

結論から言うと、俺はこの映画にたくさんの不満を抱いている。
ももクロが心血を注いできた映画を手放しに好きになれないことは、いまこうしてタイピングしながら頭を伏せ、「あああああ」とうめくぐらい、つらく思っている。

しかし、誓いのとおり、いまの俺にできる限りの精力をもって見た。
俺は、このブログを遡ると延々と鑑賞記録をつけているようにこれまで何千本と映画を見てきたが、一つの作品鑑賞に対し、これだけ労力を注いだのは初めてかもしれない。

その結果を、「原作の感想」「映画の感想」「この映画がももクロに何をもたらしたか」の3つに分けて記す。
(いちおう言っておくと、"ネタバレ"は一切配慮せずに書く)

4ヶ月以上にわたって全力をついやしたことが、いかなる文章量になるか想像し、そして許してほしい。

というか読まれなくていい。

〜〜〜

■原作の感想

映画『幕が上がる』には、平田オリザによる原作小説がある。
それが元本であるから、映画の理解に原作がいかなるものなのかは欠かせない。

映画『幕が上がる』の公式サイトで平田オリザがコメントに書いているとおり、原作小説は「2011年1月にフランスの子供たち向けに『銀河鉄道の夜』を舞台化するため、パリに長期滞在していたときに、稽古と並行して書いた小説」だという。

この舞台版『銀河鉄道の夜』を実際に見た人のブログを一瞥する限り、その内容はクルミを鳴らすシーンをはじめ、『幕が上がる』内の劇中劇と一致している。
つまり、『幕が上がる』の中の劇中劇は、青年団が上演した『銀河鉄道の夜』をそのまま移植している。

平田オリザによる『銀河鉄道の夜』は、むろん宮沢賢治の原作そのままでなく、文化を隔てたフランスの児童向けに「男の子が友達の死を乗り越えて成長していく」主題を「とてもシンプルに構成」したものだと言う。
参考URL:http://www.aihall.com/drama/24_gintetsu.html

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、光彩豊かな寓意表現の中に、さまざまな主題を読み取ることができる。
「ほんとうの幸い」を巡る倫理問題(自分個人の幸福は、一切衆生を幸福に導けるまで完成しないという菩薩行的な善行観)。
プリオシン海岸で化石を発掘する大学士からうかがえる科学と信仰の問題。
また、物語全体に通底する宇宙論などなど。
そうした中、平田オリザは、孤独と友情に揺れ動くジョバンニの姿から「人は一人かどうか」という主題に重きを置いた翻案を行っている。

「シンプルに構成」したといっても、そこには劇作家として円熟した平田オリザなりの多義的な意匠が込められている。
それを一介の女子高生が書けたとしたら、どのような過程を経るのだろうか?を再現した小説と言える。

このように仮定(コード設定)を踏まえて、世界を構築していくことは、リアリズム演劇の歴史的指導者ステラ・アドラーが提唱し、平田オリザ自身も自著でしばしば重要なタームとして用いる「想像力」の実践と言えるだろう。

主役である演劇部の部長にして演出・台本をになう高橋さおりは、芝居にのめりこむ前の時期、ある苛立ちに揺らいでいた。

中学二年生くらいから高校一年生くらいまで、だからえっと、十三歳から十五歳くらいまで、たしかに私は、何かに苛立っていた。
それはみんな、そういうものなのだろうけど、でも、いまならその苛立ちの所在が分かる。
私は、何ものにもなれない自分に苛立っていた。
本当は何かを表現したいのに、その表現の方法が見つからない自分を持て余していた。
もう少し勉強すれば、地域で一番の進学校にも行けたのに、通学の長さを理由に、行きやすいいまの学校を選んだ自分が嫌いだった。
演劇は、そんな私が、やっと見つけた宝物だった。
でも、その宝物を大事にしない演劇部の先輩たちに苛立っていた。
いや、その苛立ちが、自分の身体のどこに巣くっているのかさえ気がつけない自分のことを嫌っていた。

人は、然るべき努力を経れば、目指す結果を得られるようになっている。ないし、その経路に開かれている。
にもかかわらず、努力にセーブをかけることで何にもなれずにいるという、深刻な悩みとは言いがたい"ふつうの女子高生"ならではの緩慢な「苛立ち」を持っていた。
緩慢がゆえ、苛立ちは当初、無意識下に潜在されていて、のちのちそれが氷解されていったとき、事後的に自覚される。

このあたりのことについて、まだ曖昧な認識のもとで書かれた『銀河鉄道の夜』の台本は、凡ミスを連発しながらギリギリ通過した地区大会の講評で「高校生らしいオリジナリティがない」と言われ、さらに「なぜ銀河鉄道の夜なのか、モチベーションが分からない」と指摘される。
(指摘の方向性は異なるが、吉岡先生からも「ラストの台詞が足りない」と言われていた)

いっぽう他校の演劇作品で、イジメや受験戦争など高校生の問題をわかりやすく取り扱うものが、括弧付きの「高校生らしさ」をえがいた芝居として高い評価を受ける。
さおりは、そうした「等身大のふりをして高校生の問題をわざと深刻に描くような芝居」が好きでないことを自覚していく。

だから、かつて吉岡先生に「等身大の悩みや苦しみや喜び」が書けないことを相談した際、「そんなものは私に聞かされても困る」と小気味良く一蹴したこの人を信用しようとすら感じたのだった。

では、大人が一方的に投影してくる「等身大」でなく、本当に自分が大事と思う「現実」とは何か?
これがさおりの核心的な問題意識であり、その答えを得ることが、台本の最終的な完成(ラストの台詞の追加)につながっていく。
それは次の難関、県大会に控えている。

平田オリザは、原作の執筆について、こう言っている

トラウマとかイジメとか、ネガティブなものが何かの行動の原因になったり、きっかけになったりするようなことがないように、自分を律して最後まで書き続けました。普通の高校生が普通に成長していくという物語を書きたいと思いました。

ここで「律する」ことの対象と言われているとおり、「ネガティブ」な問題にさらされた高校生をえがくことは、安易であると前提されている。
いわば、「ふつうの高校生」の多義性をあつかうことの宣言だと受け取れる。

さおりは自らが抱くフラストレーションをそれとして自覚できない、フラストレーションの二重体として存在している。
「トラウマやイジメ」といった明示的な問題が露見している状況は、むしろ物語の構造としては「普通」の二重性よりも、ワンランク単純だと言える。

さおりが自分にとっての「現実」とは何かを解消するよりも先立ち、演劇部の精神的支柱だった吉岡先生が、女優の道を選び直し、突然退職する。

部員全員にあてた別れの手紙では、「自分はどこまでも女優だった」ことを率直に語り、いっぽう重責を残されたさおり個人宛ての手紙には、宮沢賢治の詩『告別』を書き添える。

これは宮沢賢治が農学校の教師を辞めるとき、絶対音感とオルガンの才能を持った生徒に向けて書いた詩だった。
その生徒は農家の子で、家業を継がなければならず、いずれ音楽の道を諦めなければいけない。
賢治は彼の非凡な才能を称賛しながら、しかし「おまへの素質と力をもってゐるものは 町と村との一万人のなかになら おそらく五人はあるだらう」と言い、「それらのひとのどの人もまたどのひとも 五年のあひだにそれを大抵無くすのだ 生活のためにけづられたり 自分でそれをなくすのだ」と憂う。

続けて、「きれいな音の正しい調子とその明るさを失って ふたたび回復できないならば おれはおまへをもう見ない」と突き放し、しかし彼の楽才がいかに輝きあるものか再び謳い上げたのち、「ちからのかぎり そらいっぱいの光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ」と励ましの言葉で詩を結ぶ。

そこには、生徒を教える立場を放棄するにもかかわらず、音楽の断念を絶対に許さないある種の傲慢さと、それほど彼の才能をかけがえなく感じている痛切な気持ちが、ぐらぐら揺らぎながらつづられている。

さおりは突然の事態に呆然とするが、一晩を経て、吉岡先生を失ったいまも部長として全国大会への道を進み続けたいと部員たちに宣言する。

二日後、現代文の授業で谷川俊太郎『二十億光年の孤独』に触れる。
さおりは、その詩の中の「宇宙はどんどん膨らんでいく それ故みんなは不安である」という一節に直観を得て、台本のラストに台詞を書き足し、最終稿として完成させる。

それは、

吉岡先生から私に、私の戯曲に足りないと言われていたものが、いまはある。吉岡先生が観ることのできない舞台に、吉岡先生が観たかったものがある。吉岡先生に観せたかったものがある。

という自負に結びつく改稿だった。

県大会当日、吉岡先生という神格を失ったことを受け入れた劇部は、まるで臨死体験を経て丘のうえに蘇ったジョバンニのように霊感を得て、一人ひとりが完璧に『銀河鉄道の夜』を演じていく。
中西さんは、新しく書き足された台詞も、もう何年も演じ続けてきたことの反復のように、まるでカンパネルラが、やむにやまれず答えているように肉迫してみせる。

さおりは、そんな部員たちが舞台上へ次々飛び込んでいく姿を見て、「私は、次の出番に向けて舞台袖に立つ俳優の姿が好きだ。(…)こんなに真剣で純粋な眼差しを、普段の人生で、私たちは、あまり目にすることができないから」と思う。
同じ戯曲をミスだらけで上演した地区大会と打ってかわり、県大会の上演中は、この時間がいつまでも続けばいいのに、と感じることができる。

そこでさおりは「あっ」と気づく。
自分がこの芝居で何を書こうとしていたのか、そして自分にとっての「現実」とは何か、数学者のひらめきのように、すべてが氷解していった。

ジョバンニは、たくさんの人と出会って成長をしていく。『みんなで卒業をうたおう』の主人公が、先輩を一生懸命好きになることで、他の友だちや学校を好きな気持ちが広がっていったように。
「大人になるということは、人生のさまざまな不条理を、どうにかして受け入れる覚悟をすることです」
何の授業だったか、ずっと前に滝田先生から習ったような気がする。
ジョバンニは、親友カンパネルラの死を受け入れていく。いや、本当は、夢の中で最初にカンパネルラに出会ったときに、その髪の毛が濡れていたときに、もうジョバンニは、カンパネルラがこの世にいないことは分かっていたんだ。でも、親友を失う辛さ、その理不尽さに耐えるためには、宇宙を一周巡るほどの旅が必要だった。

さおりは「不条理」を受け入れることを、実はすでに体現している。
ジョバンニが直面した「理不尽さ」が、上記引用のとおりカンパネルラの死であり別れであったように、さおりにとってのそれは、吉岡先生との別れである。
吉岡先生は、さおりを、演劇部を裏切った。
しかし、吉岡先生があれほど演劇というものを大事にし、血の通った指導をしてくれるような人だからこそ、女優の道に回帰するということは完全に正しいのだとさおりは理解できている。

それでも、さおりは全国大会を目指す演劇部部長を一任されている。
その立場で、県大会を目前にして演劇部を放棄した吉岡先生を許すことは、たとえ心情的に許したいと思ったとしても、決して認められない。
そう自分を律さなくてはいけない。

その相反する思いを

吉岡先生を許さない。それでも吉岡先生を恨まない、憎まない。

という形で表現する。

この「許さないけど恨まない」は、劇中劇のジョバンニが最後に気づく「一人だけど一人じゃない」という主題と同型を成している。
というよりも、『幕が上がる』の中には、「AだけどAじゃない」図式が幾度となく反復される。

こうしたパラドックスないし二重性のレベルにとどまり、その磁場で思考することが、滝田先生がかつて話した「大人になること=不条理を受け入れること」であり、ひいては、この二重性を体現するトポスが、彼女たちにとっての演劇だった。

ジョバンニ同様、さおりも自分が吉岡先生をはじめ数多くの人たちと出会い、さまざまな本や詩に触れてきたことは、上述のような事実に気づく道のりだったのだと悟る。

この舞台には「等身大の高校生」は一人も登場しない。たぶん、そんな人は、どこにもいないから。現実の世界にも、きっと、いや絶対、いないから。
進路の悩みや、家族のこと、いじめの話も一つも出てこない。
こっちはもちろん、現実世界にはあることだけど、やっぱり私たちの、少なくとも、いまの私の現実ではない。
私にとっては、この一年、演劇をやってきて、とにかくいい芝居を創るために悩んだり、苦しんだり、友だちと泣いたり笑ったり喜んだりしたことのほうが、よっぽど、よっぽど現実だ。この舞台のほうが現実だ。

大人が投影してくる観念的な"等身大"よりも、いま取り組んでいる演劇こそが私たちの現実だという考えは、「現実」をその言葉のとおり、事実性のレベルに還元している。
このように事実性の次元で考えることを、さおりは劇中劇の中で、クルミという道具に託した。

ジョバンニがカンパネルラの死を受け入れたとき、遠い彼岸にカンパネルラの幽霊を見る。
物言わぬカンパネルラは、かつてジョバンニと一緒にプリオシン海岸で拾ったクルミを叩き、音を響かせる。

ジョバンニも慌ててまさぐると、ポケットの中にクルミを見つけ、その物質性に、自分がかつてカンパネルラと一緒だったことの確かさを見い出す。
これをもって「一人だけど一人じゃない」という命題が完成する。

そうだ!思い出した。高校二年生のときの滝田先生の現代文は、夏目漱石の『三四郎』を一学期かけて読むという授業だった。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……、日本より頭の中のほうが広いでしょう」
私たちは、舞台の上でなら、どこまででも行ける。どこまででも行ける切符をもっている。私たちの頭の中は、銀河と同じ大きさだ。
でも、私たちは、それでもやっぱり、宇宙の端にはたどり着けない。私たちは、どこまでも、どこまでも行けるけど、宇宙の端にはたどり着けない。
どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ。その不安だけが現実だ。誰か、他人が作ったちっぽけな「現実」なんて、私たちの現実じゃない。
私たちの創った、この舞台こそが、高校生の現実だ。

この「どこまでも行ける」ことと「不安」の関連を見たとき、最近読んだ八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』に書かれていた中世哲学における自由意志論を思い起こした。

キリスト教世界において、楽園を追放される前のアダムとイブは、神との有機的なつながりのもと全能に包まれていた。
そうした世界では、人間は神的な真理に完全に開かれているため、「AとBのどちらを選べばよいか」という局面がなく、判断や行為はすべて一択で進められる。
つまり楽園という世界では、「自由」という問題構成を必要としない。

しかし、堕落によって神の全能から引き剥がされたとき、人間は自らの脆弱な「理性」をもって物事を弁別しなければいけなくなる。
そこで初めて「自由」という問題が発生する。

近代的な枠組みの中で「自由」とは、ふつう人間が近代的自我として確立する(無限たる神に再び近づく)至上命題のように思われるが、むしろ原義的には、人間の弱さ、有限性に条件づけられている理念だった。

話を戻すと、かつてさおりが無意識下で苛立っていたのは、「自由」にさらされているためだった。
その気になれば、地域で一番の進学校に行ける。
人は可能性に開かれている。
しかし同時に、"果てまで"行くことはできない。
可能性が完全に開かれていても、当の人間そのものは、有限性の次元に立脚する。

その限界に晒されながら、「どこまでも行けるから、だから私たちは不安なんだ」と言う。

「どこまでも行けるのに、どこまでも行けない」という論理は、引き続き「AなのにAではない」図式をえがきだす。
その二重性にさらされることが、さおりの言う「不安」だった。
しかし、さおりは「その不安だけが現実だ」と気づく。

「AなのにAではない」という相反する論理を誤りと見なすのでなく、さおりは滝田先生が言う「大人になること=不条理を受け入れること」のとおり、パラドキシカルな二重性をそのまま「現実」として受け入れた。

ここでさおりは、「どこまでも行けないけど、どこまでも行ける」という命題から感じていた「不安」を、その表裏一体の反面、「自由」の位相へと転換し、再理解する。

また、さおりが導き出したように、
不安=自由
不安=現実
かつ、
現実=舞台
というとき、そこで得られる結論は「舞台=自由」ということである。
こうして、

私たちは、舞台の上でなら、どこまででも行ける。

という『幕が上がる』の中核を成す台詞に結びつく。
自分にとっての「現実」とは何かを見つけ出したこと、その論理的な転換が、彼女にとっての成長だった。

この転換は、世界の切り替わりでもある。
見田宗介宮沢賢治銀河鉄道の夜』を、「転回」の物語であると言った。

ジョバンニが銀河鉄道から帰り、丘を走って下りたときから、彼を取り巻く世界の色調は180度転回する。
かつて冷たい言葉を投げかけてきた友だちは、ジョバンニに「走り寄って」きて話しかけてくる。
とりつくしまもなかった牛乳屋には、いまや親切な男の人がいる。
そして、母親の待つ熱い牛乳はいまやこの手にある。
カンパネルラのお父さんによれば、長らく不在にしていたジョバンニの父はもう家に帰ってきている――あるいは明日には帰ってくるはずだと言う。

ある状況を肯定したいとき、無条件に肯定的なシチュエーションをあつらえるという童話の特権が『銀河鉄道の夜』では実践されている。

これと同じことが、『幕が上がる』の富士ヶ丘高等学校の演劇部にも起きる。

銀河鉄道の夜』上演のラストで、さおりが最後に書き足した台詞が語られる。

ジョバンニ:カンパネルラ、僕は今日の学校での最後の時間、本当は眠っていませんでした。いや、眠っていたのだけど、君の声に起こされた。
君は僕をかばってくれたけど、でも君は、君と僕は一つではないと言った。僕は、とても悲しかった。悲しかったけど、本当にそうだと思った。
どこまでも、どこまでも一緒に行きたかった。でも、一緒に行けないことは、僕も知っていたよ。
カンパネルラ、僕には、まだ、本当の幸せが何か分からない。
宇宙はどんどん広がっていく。だから、人間はいつも一人だ。
つながっていても、いつも一人だ。
人間は生まれたときから、いつも一人だ。
でも、一人でも、宇宙から見れば、みんな一緒だ。
みんな一緒でも……みんな一人だ。

遠くの高く積み重ねたキューブの上に、カンパネルラが立って手を振っている

ジョバンニ:カンパネルラ!

カンパネルラ:…………(クルミを叩く)

ジョバンニ:クルミだ!(ジョバンニも、ポケットの中からクルミをさがし出す)このクルミは、たしかに僕の手の中にある。カンパネルラ、僕も、ずっと持ってるからね。

カンパネルラ、手を振る。

ジョバンニ:カンパネルラ!
また、いつか、どこかで!

この台詞には、さおりの成長が寓意的に集約されている。
それをジョバンニ演じるユッコも理解しているから、最後の台詞は、ただの台本の読み上げではない血が通った演技になりえた。

終演した瞬間、それまで聞いたことのない量の拍手が鳴り響く。
緞帳が下りた後、反対側の舞台袖にいるがるるがガッツポーズし、舞台上の(かつて溝を抱えていた)ユッコと中西さんは抱き合い、わび助は泣いている。

さおりは、鳴り止まずどんどん大きくなる拍手の中、ヘッドホンを外して舞台袖から飛び出し、奇跡を終えたばかりの舞台空間に駆けていく。

その後のエピローグで語られるとおり、富士ヶ丘高等学校の演劇部は県大会および、次のブロック大会も1位で通過し、翌年の全国大会への切符を勝ち取ることになった。
(その全国大会は、卒業後のさおりたちが出られる幕ではない)

以上のように、かけがえのない存在との別れにより心痛に暮れた後、世界が「転回」するという流れは、『銀河鉄道の夜』を反復した構造に違いない。

つまり、さおりと吉岡先生の二人は、ジョバンニとカンパネルラの関係を模している。

東京合宿の夜、遅く合宿所に帰ってきた吉岡先生からタバコのにおいを嗅ぎとった流れは、吉岡先生が高校演劇とは異なる大気(女優回帰の道)に飛び込んでいたという事実を示し、ひいては、ジョバンニがカンパネルラが濡れていること(すでに溺死し、冥界に属している痕跡)に気づいたくだりに似ている。

『幕が上がる』は、さおりを巡る物語と劇中劇が絶えず往還し、互いに参照しあう二枚貝の構造を持っている。
劇中劇のジョバンニとさおりは、ともに歩んで答えを見つけ出し、「転回」を果たす。
そして祝祭的な結末へと向かっていく。

原作が持つ並々ならぬカタルシスは、こうした構造的な美しさが導き出したものに違いない。

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