4)-総論- 私は生涯結婚すべきでないことの証明

定義1.私は、「自分は自分が生かすべき」という倫理観を強固に有している。

定義2.女性はごく例外を除き、「結婚」が代表する非対称型の人生設計モデルを採用している。

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定理1.「定義1」と「定義2」の不一致につき、私は女性の大半を、自らと同一線上に立つ「人間」と見なせない。

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定義3.「定理1」は倫理の不一致である。倫理の不一致は、知性やユーモアの不一致にもつながる。ほとんどの女性と会話をしても「おもしろい」「ためになる」と感じることはなく、当たり障りのない上辺程度のやりとりしか成立しない。それは社交上、責務としてやらざるをえない営みである。

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定理2.「定義3」につき、私にとって女性の大半は、自らと同じ「人間」と感じられないことにとどまらず、交流することで心労を負う存在である。

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定義4.私は自らの幸せを確保することに全精力を注ぎ、そこから他人の幸せに労力を割きうる余裕はほとんど得られていない。

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定理3.「定義4」と「定理1」の複合につき、男性に保護者性を求める前提のもと、恋愛の営みを望んでくる女性を目にするなら、それは私が自らの幸せを確保するための限りある人的資源を略奪してこようとする「盗賊」であり、「敵」である。
女性は「定理1〜2」につき、「無関心あるいは心労の対象」であるが、さらに「敵」としての認識が加わり、「憎悪の対象」へと格上げされる。

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定義5.私にとってすべての女性は性欲の対象である。

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定理4.「定理3」と「定義5」の複合につき、ほとんどの女性は「性欲の対象かつ、憎悪の対象」である。

定理5.性欲は自慰行為でおおむね解消できるため、女性唯一の功利性は不問とされる。

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結論.以上をもって女性は「憎悪の対象」でしかないため、私は結婚をすべきでない。

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<仮説1>
すべての女性が「非対称型の人生モデル」にのっとっていたり、「知性やユーモアに欠けている」わけではない。
探せば、同じ「人間」と認めうる女性に巡り会えるかもしれない。
であれば、非婚と決め込まず、引き続き理想の女性を追い求めるべきではないか。

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定義6.「理想の女性」と巡り会うことは、まず現実的に見て叶わない。一人の男が、女性の人となりを深く把握できるほど交流をはぐくめる人数は、せいぜい10人前後と見ていいだろう。その分母に対し、「理想の女性」と巡り合い、しかも恋愛関係を築ける可能性は限りなくゼロに近い。人生は有限であり、実現可能性の高いことに優先的に時間と労力を注がなければいけない。

定義7.自分にとって都合のよい女性像を、空想の中でなく、現実において求めることは、審美的に見て「醜い」ことである。童貞の男が自らの尊厳が崩れないよう現実の女性に処女であることを求めたり、あるいは40代のブスが結婚相談所で年収1000万以上身長180cm以上を求めるといったよくインターネットの記事があげつらうパターンを想像すればよい。それと同質のことである。

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定理6.「定義6〜7」につき、確率論的かつ審美的に見て、私は「理想の女性」を求めるべきでない。

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<仮説2>
そういうことであれば、無理に理想の女性を探し求めることはない。
これまでどおり変わらぬ社会生活を送っていればいい。
しかし、その中で、もし偶然に同じ「人間」と呼びうる理想の女性と出会えたなら、その女性とは結ばれるべきではないか。

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定義8.私は、自分以外を保護することへの強い忌避感情を持っている。「定義4」にあるとおり、自分一人を生かすこと以外に割ける余裕は持ちあわせていない。妻あるいは子どもといった「守るべき」関係を作ることは、認知的不協和やプレッシャーから心身に失調をきたす。その失調を回避しようとすれば、保護責任を放棄しなくてはならない。すなわち家庭内別居なりネグレクトなりが行われる。それは女性や子どもを不幸にする。

定義9.人を不幸にしてはいけない。

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定理7.「定義8〜9」につき、理想に敵う女性が現れたとしても、私は結婚をすべきでない。

定理8.「定理7」をもって、すべての局面において私は結婚すべきでないという全称命題になるに至ったことを、ここに宣言する。

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これだけ話せば、
「ああ、お前は結婚すべきじゃないな」
「その遺伝子を金玉に閉じ込めたまま死んでくれ」
と思ってもらえるだろう。

ありがとう。
ようやく分かってもらえた。

俺は生涯結婚しない。