2-1)偉大なる浪江町(1)/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

浪江町の概要

浪江町は、福島県浜通り(太平洋沿い)にある町――というのは、あまりにもいまさらすぎるとして、まずは、近世~近代の成り立ちを簡単になめる。

 

江戸時代、現在の浪江町中心市街地に位置する権現堂地区は「高野宿」と呼ばれ、宿場町を形成していた。安政 6 年(1859年)大火災が発生し、高野宿はほぼ全焼する。

この大火をきっかけに街並みは抜本的に作り変えられ、宿場町でなくなったことで、新たに「浪江」という名称が定着する。これが、いわゆる名称としての「浪江」の起源にあたる。そこから第二次世界大戦後まで、「浪江」とは、いまの権現堂地区あたりを指す。

 

これが戦後の町村合併促進法により、請戸村、幾世橋村、大堀村、苅野村、津島村らと合併し、いまの町域に至った。(このころ、生産共同体の自然村と合致しない町村併合が行われたため、昭和33年に町域見直しがかかり、南側の大字中野、中浜、両竹の一部は、双葉町編入されている)

 

結果、複数の町村が併合した経緯もあり、東西の中間がくびれた特徴的な町域を形成することとなった。


さらに言うと、大字(併合前の町村、行政区)単位に歴史的・文化的特長を持つため、「浪江町」というくくりに加えて、行政区に帰属意識を持つ町民の方々も多い。

その広さから、山(津島側)と平地(苅宿以東)と海(棚塩~請戸)があり、多様な風土を持つ。特に平地は典型的な太平洋気候で、冬もほとんど雪は降らず、暖かい。この過ごしやすい気候――山から海へ吹く風、青い空、色鮮やかな花々に、浪江町への郷愁の思いを抱く人は多い。

南側に原発立地町、北側に仙台や南相馬市があり、その2つの玄関口を務めるため、双葉郡の中でもベッドタウン的な特長を持つ。人口は周辺地域の中でも多く、東日本大震災時点21,434人いた。それでも、震災前から日本全国の地方に見られた傾向どおり、人口はゆるやかな流出傾向にあった。ちょうど、商工会青年部がご当地グルメなみえ焼きそば」の全国PRに取り組むなど、地方活性化の波に乗り始めていたとき、東日本大震災が発生する。

 

■震災以後

3.11当時のディテールは、これを知らなければのちのちの話の理解の妨げになるようなことに焦点を絞って書く。

 

◎震災直後

2011年3月11日、東日本大震災が発生。浪江町震度6強に見舞われるが、特に深刻な被害は、海沿いの請戸、棚塩、両竹エリアに押し寄せた津波だった。

3月11日の夜、夜間消防隊が上記の海沿いエリアに向かい、津波被災者を確認する。深夜の救出作業は危険を伴うため、翌朝の救出作業が計画され、その日の晩は諏訪神社に取り残された町民の救出等が行われた。

 

翌3月12日、福島第一原発津波により交流電源を喪失。イチエフの建屋は水素爆発を起こし、放射性物質が外部へ拡散する。現町長の吉田数博は、こう振り返る。

ここ(浪江町)では通常、冬から春にかけて、風はすべて山から海へと吹き抜けるのです。でもなぜか、あの日だけは風が海から山へ、津島の方へと駆け上がっていった。

(三浦英之『帰れない村―福島県浪江町DASH村」の10年』P210)

すべては結果と事実でしかないが、もし、この日の風向きがいつもどおり山から海へ吹き、放射性物質の雲(プルーム)が海へ降りて広大な太平洋に希釈されていたら――そう考えると、自然の皮相を感じてならない。

 

この間、町役場には政府や東電から連絡が来ず、町役場はテレビの情報をもとに町民へ避難指示を出した。政府が言う「福島第一原発からの半径10km」を超え、北西20km先の津島地区への避難を決行する(市民・町民への避難指示は、地方自治体が直接の権限を持つ)。

 

通常なら市街地から津島まで自動車片道30分の距離を、渋滞で3時間かけて人々は移動した。人口1,800人の津島に、最低でも8,000人が集まり、山間のその地区にまるで「銀座のように」人々が溢れたという。

この津島避難について、浪江町は東電・政府に深い遺恨を持つ。あらかじめ有事連絡協定が結ばれていたが、町役場に事故発生の連絡はなかった。また、政府は当初避難範囲を原発から半径10kmと発出していたが、実際の放射性物質の拡散は、同心円状ではなく、風向きによる志向性を持つ。3月12日の風向きから、原発の北である浪江町市街地よりも、北西の津島地区のほうが放射線量が高くなることは、東電の緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム『SPEEDI(スピーディ)』が示していた。その出力結果が浪江町へ伝達されなかった。結果、

  1. 津島へ避難した人々をかえって高線量下に移動させた
  2. 津波被害者の救助機会を逸した

これらの悔恨の念を、馬場有町長をはじめとした浪江町の人々にもたらした。

(1については、浪江町はその後、独自に町民の健康観察をスキーム化しているが、津島避難による急性・中長期的な健康被害は確認されていない)

 

原発事故による強制避難指示を受け、津波被害者たちの救出活動は、撤退を余儀なくされた。津波被災地への立ち入りが行われたのは、被災から34日後である。

被災直後から浪江町役場は、救出活動を検討するため、現地の線量を東電に問い合わせていたが、一向に回答を得られなかった。そうした中、本来立ち入りが禁じられている浪江町に入ったあるカメラマンが、海岸沿いエリアの瓦礫から遺体の写真を撮り、役場に届け出た。そして「県警にも通報する」と。救出活動の対象である人が現在「遺体」であること、その場所まであきらかであれば、町の消防隊ではなく、県警が動かざるをえなくなる。この出来事がきっかけで、請戸を中心とした浪江町の”遺体捜索”が決定した。実行に伴い、原発からまっすぐ北の請戸地区の線量はそれほど高くないことも判明した。これらの動きがなければ、何ヶ月というレベルで捜索は一層遅れていただろうと、当時の請戸南行政区長は断言する(NHK製作『証言記録 東日本大震災 第12回 福島県浪江町』)。

 

◎暗中八策

2011年5月10日、町長の馬場有は、被災地の窮状を訴えるため、町の消防車を使い東京へと移動し、首相官邸を訪問した。奇しくもこの訪問をきっかけとし、浪江町の「復興」モデルの祖型が生まれることになる。

 馬場の証言によると、総理大臣である菅直人への陳情は極めて「残念」なものだった。執務室の隣の長いテーブルのある応接室に通され、菅に面会こそできたものの、会話はまったくと言っていいほど噛み合わなかった。菅はよほど疲れていたのだろう。馬場が何を尋ねても「はあ、はあ」と返事をするだけで、目が泳いでしまっている。馬場は「自分が話したことは何一つ伝わっていないのだろうな」と失意を抱えて官邸を後にした。

 ところが、時間を浪費しただけのように思えた東京出張がその後、馬場の意識を根底から変えた。馬場は私の口述筆記に当時の心境を「中央の現実を知って逆に力が湧いてきたのです」と証言している。

(三浦英之『白い土地』P137)

 

ときの首相菅直人は、たとえば東電の社長や、あるいは馬場有自身がそうであるように、日本が近代以降例を持たない未曾有の災害に対し、そのときたまたま首長であっただけで、解決のための答えを持っているわけではなかった。

菅直人の力ない様子に、町自身が自立的に動かなければいけない――町独自に動けばよいのだ、という割り切りを馬場有は持った。

 

馬場有は、帰った先の二本松市内の保養施設の便箋に、これから浪江町が復興のために行うべき課題を、8つの大項目に手書きし、総務課にコピーさせ、役場職員全員へ配布した。

その文書は、かつて坂本龍馬が日本近代化の骨子をしるした「船中八策」にあやかり、「暗中八策」と題されていた。

 直後、それまで重苦しい雰囲気に包まれていた浪江町の町役場に微かな変化の兆しが現れ始めた。文書を受け取った町職員たちが片足をグッと一歩前に踏み出したように感じられたのだ。不思議なものだな、と馬場はその変化を見て喜んだ。公務員は普段自主性がないと批判されがちだが、いちど方針が示されるとおのおのが自分の役割を正確に理解し、計画を着実に前に推し進めようとする。それはこの国の行政組織が持つ優秀さであり、何度戦災や震災を経験してもそのたびに立ち上がってきた粘り強さの証明でもあるように思えた。

 国に頼れないのであれば、自分たちの手でやるしかない。

三浦英之『白い土地』P138

この「暗中八策」以後、浪江町は、本来なら国の責任下に求めるべき施策を、それを待たずして独自に次々と実施するようになる。

 

放射線の測定:

町役場機能を二本松市に移した直後の2011年6月には、早々に町内の放射線量の測定に着手。町内のどこが線量が高く、どこなら安全に活動できるか。その地図を町で自主的に作成した。

・町民の健康管理:

馬場有が専門家から、内部被ばくを把握するにはホールボディカウンターが必要だと指摘されると、その場で購入を即決。(ちなみに、このホールボディカウンターを擁する車両は、浪江女子発組合の定期大会のとき、いつもサンシャインなみえのすぐそばにあったし、十日市祭りでも会場の隅で、町内外問わず訪れた人々の測定を無料で受け付けていた)

 

「暗中八策」の原文は、以下である。

浪江町『震災・復興記録誌――未来へつなぐ浪江の記憶』P45)

これを文字起こしするとこうである。(不可読部は”*”)

浪江町復興 暗中八策(パートⅠ)

町が現在置かれている状況は、原発事故が収束しない緊急対応期・避難期であり、明確に復興・復旧ビジョンを示すことが困難な情勢であるが、将来の町の再生・創建のための礎を構築するため、暗やみの中での施策を次の通り計画する。

①生活支援の充実をはかる

・災害への補償・賠償の確保…「原子力補償相談窓口の創設」

・弁護士等の強化

②経済生産活動の支援強化

農林水産業、商工業の従来の仕事を何らかの形で継続できるよう支援を行い、事業継続をはかる。

・町独自の就労の場を創建する。

③新たなコミュニティの創造

・県内外に避難した町民の方々の「絆」を再生するため、広*・公*のネットワークの強化。

 避難所への情報伝達強化。避難所の自治組織の強化。

④教育・子育て支援の充実をはかる

・どこでも教育が受けられる浪江町立小中学校を避難先に設*する(分校として)

・健康を第一義として「放射能」の線量に得意とする教育理*にする。

・学力格差が生じないよう町として特設の支援を行う。

・心のケアを徹底する。

⑤医療・高齢者福祉の支援

・被災地からの震災において、全国の自治体へ国からの支援強化をはかる。

・デイサービスが受けられる施設**をはかる。

⑥環境モニタリングの実施

・町独自での大気・土壌・海洋水質等を調査し、今後の住宅・商業の再生のため基本づくりをする。

⑦社会的インフラの復旧のための調査実施

・道路、上水道、公共施設等の損壊状況の調査。

・農業の基幹施設等の調査。

・量業の基幹施設等の調査。

⑧行財政運営の指針

・歳入の確保強化(*******、*********)

・不要不急の出費を、ムラ・ムダを削減。

・最小限の行政サービスに特化させる。

確かにこの文書に、いまに至る浪江町の復興設計の骨子がある。

暗中八策が町役場内の内規だとすれば、より綿密に練り上げられた正式な計画書が、『復興計画 第一次~第三次』であり、そこに紐づく『復興まちづくり計画』や『総合戦略』がある。

 

画像抜粋元:https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/8196.pdf

 

いま「暗中八策」と「復興計画」を詳細に見比べて検証するのは、文字数の関係で避けるが、「絆の再生」(うけどんのテーマ)や、町独自の新たな産業創出(イノベーションコースト構想や道の駅なみえ等)をはかること…等、「暗中八策」に書かれたことが、こんにち浪江町内のいたるところで具現化されているのが見て取れる。

 

◎避難指示解除

震災から6年後の2017年3月31日、浪江町の平地・市街地を中心とした東側において、避難指示解除が行われた。面積的には町の2割だが、かつて居住人口の8割が集中したエリアでもある。

国によって2013年4月に再編された「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3区分に従い、浪江町の「避難指示解除準備区域」に当てはまる市街地の除染が完了した。

この避難指示解除は、当時「賠償打ち切りの布石になる」「東京五輪での対外アピールのために拙速に避難指示解除を促している」といった警戒心を持つ左派言説もあったが、浪江町は2012年策定の「復興計画 第一次」の段階で、2017年3月に希望者の帰還を迎えることをロードマップに敷いていた。そのとおり政府に要請し、除染が行われたまでであり、保守政権からの突き上げというよりも、町自身の意思と見るのが適切だろう。

 

避難指示解除前の時点で、浪江町内で再開している商店は、町役場前の仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」やローソンぐらいのもので、医療、教育、交通など、町の生活インフラは震災以前とはほどとおい状況と言わざるをえなかった。

馬場有は、それでもこれ以上、避難町民たちを待たせることは、彼らの中の帰りたい気持ちが折れてしまうと考え、避難指示解除の受け入れを決断する。

 

現在から見れば、帰還の「気持ちが折れる」という観点は決して誤っていない。避難者の帰還率は、避難期間が長引くほど芳しくなくなるという相関関係が、いまやよく知られている。震災の翌2012年に避難指示解除した広野町は、帰還率89%。対して、2017年に避難指示解除した浪江町の場合、帰還率は9.6%(2021年度)である。

 

馬場有は避難指示解除を決断した時期の広報コンテンツ『浪江のこころ通信』で、決断の理由を大きく分けて2つ述べている。

  • 除染と復旧作業により、最低限の生活環境整備ができたこと
  • すぐにでも戻りたい町民(浪江の帰還第一陣となるコアな町民)の気持ちを大事にしたいこと、彼らの心が折れてしまわないようにすること

避難指示解除をするもしないも、選択肢ごとに固有の課題を伴う、答えのない問題に対する政治的な決断だった。

カール・シュミットは、「主権者」(政治的存在の最上級のあり方)とは、例外状態において判断をする者だと言うが、馬場有が特に困難な政治的判断の責任を負ったのは、この2017年の避難指示解除だったのではないか。

解除後の帰還人数は、あらかじめ帰還意向アンケート調査から「5,000人」が見積もられていた。それを解除後5年間で目指した。しかし、ちょうど5年を迎える2022年現在の居住人口が約1,800人であることを考えれば、当然、避難指示解除直後の帰還率も芳しくはなかった。帰還した町民からの「聞いていた話と違う」という批判は、日々町役場に寄せられていたという。

 

馬場有 逝去

2018年6月、馬場有は69歳の若さで逝去する。

死因は、2014年に切除するも、転移した胃がんによるものだった(生前、対外的には腸閉塞と言い、胃がんであることを明かされずにいた)。

馬場有は、がん治療よりも復興の町政業務を優先し、「命がけ」で激務に打ち込んだ。また、避難指示解除の決断の前後に押し寄せたコンフリクトによる心労も大きかっただろうと、奥様や副町長 宮口勝美はじめ、関係者は口を揃える。

 

馬場有

被災後の浪江町の首長だった馬場有その人について素描する。

現町長の吉田数博に引き継がれた町政の基本方針および、「いまの浪江町」の理解にもなるからだ。

 

◎政治家としての来歴

生まれ育った浪江町青年会議所に参加したのをきっかけに、地方政治の道を歩みだす。1989年以降、浪江町の町議・議長や福島県議を経て、2007年からは3期にわたって浪江町長を務めた。自民党から推薦を受けた保守本流の議員である。

 

◎二つの後悔

馬場有は震災・原発事故後、深い罪責の念に駆られていたという(三浦英之『白い土地』)。

一つは、上にも書いた、津波被災者の救助断念・津島地区への避難指示。

一つは、震災以前まで、のちに白紙化される小高・浪江原発の誘致をしていたこと。馬場有もまた、震災以前の双葉郡どの地方政治家にも共通していた、原子力ムラの力学に参加する一員だった。

 

原発誘致は、立地町の財政・産業を一変させるほど多くの経済恩恵をもたらす。

震災直前に書かれた重要書、開沼博原子力ムラはなぜ生まれたのか』(のちに平田オリザの弟子筋にあたる谷賢一の代表作『福島三部作』の底本にもなった)は、原発誘致のメリットを以下のとおり挙げている。

  1. 誘致時点の金品のバラマキ。
  2. 花道開始後の雇用(地域の20〜30%の労働者が原発雇用になる)
  3. 電源三法交付金
  4. 固定資産税が町へ払われる
  5. 動労働者の民宿や飲食業需要

古くから浪江町に住む町議や町民たちも、福島第一・第二原発の立地町になれなかったものの、その設置以降は親が出稼ぎに行かずともよくなり、通年浪江町で家族と過ごせるようになった等の恩恵を語る。

 

小高原発の誘致は、よく知られるとおり、浪江町の活動家たちによって用地買収が阻止された。それは全国の反原発運動の中でも、伝説・模範とされていた。

そうした反対運動のディテールは、(Amazonで「浪江町」を検索すれば上位に出てくる)恩田勝亘『原発に子孫の命は売れない―原発ができなかったフクシマ浪江町』に描かれているが、しかし実際、震災直前の2011年時点、小高原発の反対運動リーダー舛倉隆は、死の直前、相場の倍額を提示されて土地売却の約束をしていたと言う。そこから切り崩しに98%の用地獲得がすでに決まっており、反対運動はほぼ頓挫していた。そのタイミングでの3.11だった。(三浦英之 同書)

 

3.11の原発事故によって、小高原発の計画は2013年3月、正式に白紙化される。やがて使い道のなくなった小高用地を、東北電力浪江町に無償譲渡した。

 

よく知られる通り、東京電力は福島第一・第二原発津波に対する脆弱性をあらかじめ認識しながら、それを認めていなかった(よって原発事故は人災である)。

福島第一原発に準じる安全基準のもと、東電よりも資本力・技術力で劣後に回る東北電力が小高原発を建てていたなら、3.11の浪江町の被害のありようは大きく変わっていたかもしれない。すべては結果論だが、馬場有も、小高原発を後押しする一員だった。それは復興に粉骨砕身しながら、矛盾する出自として強いアンビバレンツを本人にもたらした。

 

◎政府・東電への賠償追及

馬場有は、元来温厚な人物であると関係者が口を揃えるが、政府・東電への責任追及は、町民の代弁者として強い批判的態度をもって臨んだ。

中央政権に対する態度の一例までに、馬場有はほぼ「霞が関詣で」を行わなかったと、当時の副町長は証言している。

 ただ馬場町長はあまり行かなかった。たぶん双葉郡の町村長の中では霞が関にいちばん行っていないかもしれない。でも、本来はそうあるべきなのかなと思ったりもする。今回の震災で勘違いしている首長はずいぶんいる。国に行けば俺のいう事を聞いてくれるという首長が多くなっている。「俺、大臣を知っているから」みたいに霞が関詣でをしているが、初めから結論は決まってるのになと半分思ってしまう。

 そんなこともあり、ずっと後になって、避難指示解除のときには町に「復興推進会議」をつくって、国も県も役場に来てもらい、問題をまとめようという会議にした。あれはすごい。いままで我々が霞が関に行って省庁回りしてきたのに対して、国の担当者に来てもらえるので、そのおかげでどんなに楽してるかわからない。今こういうことに困っているんだということを国の担当者に直接いえる会議になっている。

(今井照/自治総研編『原発事故 自治体からの証言』P204,205)

このように、霞ヶ関コネクションのステータス化を――ひいては「中央>地方」構図の強化を回避した。そして、県や国の担当者を町役場に来させ、職員の移動コストを回避しながら、中央との対等な関係を指向した。

このように、自民党の推薦を受けた保守政治家でありながら、自らの地域社会のために中央政権に批判的に接したこと。そして、闘争の末に60代のうちにがんに倒れたことは、前沖縄県知事翁長雄志とも似ている。

 

◎若手職員ファースト

生前の浪江町の広報物をはじめ、いまも多く残されている馬場有の言葉を読めば、町民への慈愛と思慮に満ちている。町役場の内部に対しては、町の未来を担う若手職員の意向を特に大事にしていたと宮口勝美が証言している。

 馬場町長は、自分で決めてこれやれというよりは、みんなの意見を聞きながらいい方向に行こうというスタンスだ。自分ではこうしたいなと思いながらも、やっぱり町民やら国や県やらに押されてやらざるを得なくなってきているのかなというところが正直ある。

 また若い職員と話をしたくてしょうがないので、よく、若い職員を集めては懇談会をやっていた。係長や課長といった役職についた職員は同席させない。我々からするといろいろ我々の悪口をいわれそうで警戒するのだが、そういう意図ではなくて、「これからの町、どうしたいんだ?」「どういうことを自分だったらやりたいんだ?」ということを若い職員から引き出そうという意欲がすごかった。震災後も機会あるごとに職員を集めてやっていた。「会議室で集まってもみんなしゃべられないべ」といって、酒飲みの会に町長が来て若手としゃべったりもしていた。

(同書 P220)

 

◎子ども主義

避難指示解除の直後、帰還町民は、特にふるさとへと郷土愛を持つ高齢者が多かったため、一挙的な少子高齢化が発生した。(いまも浪江町の居住人口平均年齢は55歳)。

 

もともと日本全国共通の傾向として、地方はどこも少子高齢化が進行している。地方には、郷土愛を持ち地元コミュニティと深くつながる年配者がとどまり、未来を志向する若者は都市部へ進出(流出)する。3.11はそのように元々あった日本の地方病を、被災地に一挙に進行させる力学を持っていた。

馬場有は、そうした避難指示解除後の町から、数が少なけれど、子どもの声が聞こえてくることを何より喜んだ。避難指示解除後はまっさきに、なみえ創生小中学校と浪江町にじいろ保育園の創設に着手し、2018年4月1日に開校・開園。浪江町を子どものための町にすることを目指した。

 当日の午前中、馬場は七年ぶりに町内で授業を再開させる「なみえ創成小・中学校」の開校式に出席した。久しぶりの公務にあたり、いつ病状が急変しても対処できるよう、町の保健職員が見守る中での出席だった。

 馬場は壇上で次のような祝辞を述べた。

 「我が故郷・浪江町にもついに子どもたちの笑い声が戻ってきました。嬉しくて仕方がありません。今日は記念すべき浪江町の復興の、大きな、大きな第一歩です」

 入学した児童生徒の数は小中学校を合わせてわずか一〇人。それでも馬場はよほど嬉しかったのだろう、式典後、報道陣に囲まれると「今はまだ児童や生徒の数にそれほど意味はありません。子どもたちがこの町に戻ってきてくれた。その事実こそが大きいのです」と目を細めて宣言していた。

三浦英之『白い土地』P97,98

 

ADR 集団申し立て

馬場有は、復興施策の方針を巡っては、町民の声に耳を傾けることを重んじた。馬場有が推進した「町長の声を吸い上げる」の最たるものとして、ADR裁判外紛争解決手続)の集団申し立てがある。

東電は原発被災者への精神的賠償に月10万円を提示した。民間の自動車事故の自賠責保険の相場が、ふるさとを奪われた人々へ適用された。2013年5月、これに不服を覚える町民たち17,000人に代わり、浪江町代理人となり、東電相手に賠償増額を求める裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てた。

ほかの町村にも声をかけたが、他自治体はむしろ東電との関係悪化の危惧から、そんなことはやめろと止めてきたという。結果的にこうした動きを取ったのは浪江町だけだった(今井照/自治総研編『原発事故 自治体からの証言』P229)。

 

◎町のこし

避難指示解除を決断した2017年ごろから、馬場有は「町のこし」という言葉を頻繁に掲げるようになる。「町おこし」ではない。それよりもっと基礎中の基礎、このままでは「ふるさと」が消えてしまうということの焦りが率直に込められた言葉「町のこし」を、喫緊の使命として繰り返し掲げた。

 

◎「どこにいても浪江町民」

浪江町は「復興計画 第一次」のときから、復興の基本方針の一つに、「すべての町民の暮らしを再建する ~どこに住んでいても浪江町民~」を掲げている。この基本方針の倫理は特筆に値する。

 

馬場有は、2017年に避難指示解除を行うにあたり、これは必ずしも「帰ってきてください」というメッセージとイコールに結びつくものではないことを強調した。

https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/8097.pdf

 町は、一部避難指示が解除になったからといって、「すぐに帰ってきてください」ということを言うつもりはありません。帰れる方、帰りたい方が帰ってきていただけるように、そのための生活基盤をきちんと整備します。いつ帰ってきていただいても大丈夫な状態にします、という考えの下に復興に取り組んでいます。

 いつかは町に戻りたいと考えていらっしゃる方でも、いろいろな事情で、すぐには動けない方も多いかと思います・お子さんが避難先の学校に通っていたり。避難先にかかりつけの医療機関があったり。仕事の関係もあるでしょう。浪江町は町民の皆様が暮らしていた思い出の地であり。先祖のお墓がある方もいらっしゃると思います。避難先で生活を続ける中で。たまに浪江の空気を吸いに来る、浪江の復興の姿を見に来るといったように、行き来しながら、いろんな状況を踏まえて戻れると判断したときに、浪江に戻ってきてくださればいいと考えています。そのために町は、いつでも浪江に戻ってくることができる環境を準備しています。

避難生活を行っている人たちには、定期的に復興庁からの帰還意向アンケートが実施される。アンケート結果の推移を観察するという性格上、震災以降継続的に行われているが、同時に多くの批判も寄せられている。

選択結果が「戻りたい」「戻らない」でも、個別のボイス分析をすれば、多くの人が揺れ動く事情の中で"強いて言えばこれ"という非確信的選択をしていること、今後の状況次第で解答が変わり得ることが見えてくる。

 

「帰還する/帰還しない」どちらかを答えるよう要求する二項対立は、その決断をできない人たちに劣後感を強いる。線量の推移、インフラの利便性、家族の理解合意を得られるか。それらが今後どうなるか。決断にかかわる変数がいまだ社会から示されないために、揺らいでいる中間層が一定いる。

 

現行の「避難」に関わる法制度は、洪水や地震など自然災害を前提としているため、最長1年スパンほどの避難生活しか想定されていない。原発災害特有の何年何十年というスパン、「一年後がどういう状況になっているかもわからない」という状況にフィットした避難スキームは、行政的に未確立である。

そうしたとき、避難者の意思の中でも一定を占める「判断保留」という選択肢を守り、その状態でも問題なく生活が送れるようにすることが重要である(たとえば、避難先でも行政手続きを簡便化するための二重住民票等)。

 

大事なのは「帰還、移住、判断保留。あなたなりに決めたそこにいてもいい」という視座である。話を戻せば、馬場有をはじめとした浪江町が掲げた「どこにいても浪江町民」は、まさにこうした視座だった。

 

浪江町は帰町宣言(帰ってきてくださいという避難町民へのメッセージ)を、除染やインフラ改善で全域避難指示解除ができるまで、発さないと指針づけている。

 

「どこにいても浪江町民」と言うのは、被災者の中に起こりうる「分断」への抵抗でもある。

 

「暗中八策」には「心のケアを徹底する」や「絆の再生」という方針があったが、それと紐づく施策を一つ挙げるなら、町報誌「広報なみえ」の中のコンテンツ『浪江のこころ通信』がある。

外部委託の編集に、浪江町民へのインタビューをしてもらい、たとえネガティブな――町政に対して批判的な内容であっても無検閲で載せる。町民の"生の声"を可視化する施策である。

その監修およびリーダーを務める櫻井常矢(高崎経済大学地域政策学部地域づくり学科・教授)は、「帰還する/しない」をめぐって、本来ありうる町民同士の軋轢をこう語る。

https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/143668.pdf

 もう一つ、県外避難者の立場から言うと、宮城県岩手県と違う特性として、あの土地に帰ってこない町民が多いという現実です。

 浪江町では、「どこに住んでいても浪江町民」という復興計画の理念がある。九州に住んでいる人も、全国どこにいても浪江町民であると。これは私たちの県外避難者の支援事業の常に根幹にあります。

(…)

 しかしながら、一方において、(浪江町に)戻って復興に直接携わっている人たちと、戻らない人たちとの間には様々な軋轢がある。浪江町に戻らない方々に対して「町に戻らない者は町民じゃない」などという厳しい意見もお聞きしたことがあります。逆に、県外にいる方には「仲間を裏切った罪悪感を覚える」という声もある。何の罪も無い福島の被災者たちが、いま置かれている現実を私たちは直視すべきだと思います。

 

馬場有は2015年3月4日に、池袋で浪江町の復興に関する講演を行っており、そのときのスライドをいまも読むことができる。ここに馬場有の成熟的な「復興」定義が伺える。

 

馬場 有『浪江町の被災状況及び復興への課題』

http://mayors.npfree.jp/wp-content/uploads/2015/03/20150314_namie.pdf

P22抜粋

 

まず、「復興とは何か」という問いは、「判断が割れやすい問題」であると説明している。その最たるものが「帰る/帰らない」であると。

そして、「無理な同一化によって相互が苦しむ風景」すなわち、「分断」を問題化する。

「『復興』の定義づけからスタートする町」を標榜し、「帰る・帰らない」を復興要件から宙吊りにしたうえで、「〜ではなく、暮らしと命が第一」「〜ではなく、皆の宝を、引き継いだ責任、引き継ぐ責任」と言う。

 

いわば「分断」を、原発災害(あるいは、その責任主体の東電・政府)によってもたらされた二次災害と見る。被災者たちはこれを強いられているのに、あたかも"自らの意志で分断を選んでいる"ように錯覚させられることを回避しないといけない。

町が「選択の自由を保障する仕組み」を提供することで、「分断」を回避する。

町は「戻ってください」とは言わず、ただ粛々と「戻ってきたくなる町づくり」を行う。そこに最大限のエフォートを注ぐが、最終的な住民各々の自由選択(結論の導出)が行われることを「復興」の一部と見る。

 

行財政よりも、「町民」個々人の幸福に根ざした、なんと成熟した復興観だろうと思う。

 

このような浪江町の復興像は、馬場有が基礎的な指針をつけた。

浪江町 震災・復興記録誌―未来へつなぐ浪江の記憶―』の冒頭、町長からの挨拶に、吉田数博は馬場有への哀悼の言葉をこのように寄せている。

 末筆になりますが、今日の復興の礎を築かれ、志半ばで逝去された馬場有前町長に対し、改めて感謝申し上げるとともに、心から哀悼の意を表します。

 町の復興には未だ課題が山積しておりますが、議会並びに町民の方々と力を合わせ、将来にわたり安心して暮らせる「持続可能なまちづくり」に全力で取り組んでまいります。

令和3年6月吉日 浪江町町 吉田数博

 

いまも浪江の町内を歩けば、さまざまな場所に、馬場有の意思を見つけることができる。

枚挙に暇がないが、たとえば、大平山霊園に植えられた「宇宙桜」には、馬場有の碑文が添えられている。

道の駅なみえすぐそばのホテル「双葉の杜」(私は春の一大事でここに連泊する)も、広野町で「ホテル双葉邸」の実績を持つ運営会社フタバ・ライフサポートの志賀崇社長が、馬場有の嘆願を受け、(馬場の逝去後に)浪江町へ進出したホテルだ。

https://www.minyu-net.com/news/sinsai/serial/0905/FM20200811-526032.php

 

■吉田町政(現在)

2018年6月の馬場有逝去から数ヶ月は、副町長の宮口勝美が町長代理を務めたが、町長選を経て2018年8月、吉田数博が現町長に就任した。

ももクロ浪江町に接点が生まれたのは、すべて吉田町政下の出来事である。

 

吉田数博は震災当時から浪江町議会の議長として、馬場有と並走してきた同士だった。本来は政治引退の意向を持っていたが、晩年の馬場有から「あとは頼んだ」という声を受け、馬場町政の継承を掲げて町長選に立候補した。

対立候補は、過激な反原発運動家であり、スローガンに「さようなら浪江町」(大意:浪江町民は全国に避難し続け、中央の安倍政治に立ち向かおう)を掲げた吉沢正巳だが、大差の票数で吉田数博が勝利した。

 

言うなれば、馬場有は、震災直後の対応から避難指示解除までを走り抜けた。そして「町のこし」の礎を敷いた。

吉田は、「町のこし」が一定果たされた浪江町に対し、復興期(≒復興予算)を終えたときまでをスコープに据えた、「持続可能なまちづくり」を行うことを自らの課題に掲げている。

 

■偉大なる町役場

むろん、浪江町が成しえたことは、<馬場有→吉田数博>ラインの個人の意思でつづられるものではない。それを支える、成熟度の高い議会や町役場があった。

 

浪江町役場における議会改革

以降の記述は、帰還困難区域からの避難者の「二重住民票制度」提言などを行い、福島復興に関する社会科学の中でも特に重要書とされる、今井照『自治体再建――原発避難と「移動する村」』にほとんどを負っている。

 

3.11における被災地自治体の多くは、しばらく町議会の開催を停止させた。議会とはつまり要人たちが集まる会議の繰り返しだが、そのために役場職員のリソースを割かせる場合ではないと考えられたためだった。

しかし浪江町議会は、もともと吸収していた「議会改革」のパラダイムから、議会は有事のときにこそ活動すべきと考え、二本松市東和支所に町役場機能を移して間もない2011年3月30日には、早々に緊急議会を行った。

 

議員個々人をミニマルな活動単位にし、職員の帯同は最小限に、議員たちが自らの足や声を使い、対外的(永田町や他地域自治体)なコミュニケーションを行っていく。こうした町議会の動きは、浪江の他に例がなかったという。

浪江町議会のHPに公開されている『議会はどう動いたか』に、当時の柔軟な議会の動きが事細かに書き残されている。

www.town.namie.fukushima.jp

 

震災当時の浪江町議員たちは、選挙で選ばれた時点から、特別委員会(議員の半数が所属)を組織し、以下のような取り組みを行っていた。

 

議会改革の基本発想は、「議会と市民が直接向き合う」ことである。

議会の目的は、市政策の決定にあり、それを実行するのは首長から任を受けた役場職員である。このとおりの旧来的なスキームであれば、議会は市民との直接的なコンタクトチャネルを持たない(それは役場職員に委ねられる)。この考え方の打破が、議会改革の中心課題にある。

だから、浪江町議会(議員たち)は、町民避難先を行脚するキャラバンを組み、懇親会をただちに実行した。避難先に行けば、避難生活のストレスにさらされている町民たちから強い非難・無理難題を投げられる(そんなことは行く前から予想がつく)が、それでも、懇親会が終わるときには「来てくれてありがとう」「また来てほしい」といった思いを数多く寄せられたと言う。

 

議会改革には、さらなる上流に「分権改革」がある。

1993年宮澤喜一内閣の末期に、国会で地方分権推進決議が全会一致されたことに端緒を発する。集権型行政システムの制度疲労が政界に自覚され、地方分権すなわち、地方自治体の自己決定力を従来よりも高めることについて、意見が一致した。

いわば「分権改革」とは、地方自治体が国や県から自立した政治単位(小さな政府)であることの合意および推進である。自治体の自律性にあたって理論的に要請されたのは、政治的決定権の起源はどこなのかという問いである。それは「国からの信託」でなく、「市民からの信託」を受けることである。そして、市民とより直接的な接点――市民の生命を守るための信託関係を持つのは、地方自治体であると。

 

思い起こせば、馬場有が書いた「暗中八策」の核心は、浪江町が町民に対し、(国や県からのトップダウンを待たず)直接的かつ自律的に意思決定・支援を行うことの指針表明にあった。

すなわち「暗中八策」は、もともと分権改革・議会改革の考え方と親和性を持っていた。

「暗中八策」が早々に浪江町政へと浸透したことは、町長のみならず、議会や役場自身にもあらかじめ成熟の素地があったためと見るべきだろう。

 

大前提、浪江町はいわゆる「中央」の平均的な地域以上に成熟した自治組織である。

 

◎個人的な思い出

極めてカジュアルな個人的思い出で、いったん締める。

 

浪江女子発組合の結成から間もない2020年1月の定期大会は、町役場そばの「サンシャインなみえ」で開催された。このとき浪江町役場の職員さんが対応した事前整列、そのやり方は、多くの組合員(浪江女子発組合のファン総称)を感心させた。

養生テープを地面に貼り、蛇行状の整列導線を引くとともに、貼り紙で整理番号10人ずつの立ち位置をセグメンテーションする。

この10人刻みがちょうど、「ファン同士が声をかけあい、あるいは手に持つ整理券をチラ見しあい、適切な並び順に立つ」ことのできる数だった(15人ぐらいになると厳しい)。これができない整理番号順のイベントでは、並び順をめぐる不正の疑念から、ファンたちはストレスを抱く。

ももクロがしばしば行う整理番号順のライブの、それ専用の警備会社が敷く事前整列よりも、はるかにスマートだったことに多くのファンが称賛した。

 

いざ入場開始したときも、「番号呼び出し→該当者たちが入る」という小分けの整理を行う必要はなく、並んだ人たちをそのままダ~~~ッと入場させればよい。町役場職員さんによる整理番号のチェックも、音ゲーのバーをリズミカルに視認する要領で行われ、たちまち入場が完了した。

 

アイドルのライブの入場整理など、「町役所の人間がやることではない」という気持ちを持ってもおかしくない。

それでも、浪江町役場の職員さん一人ひとりが、このように大挙するファンたちをどう整理すればストレスなく迎えられるか、自分たちがどう動けばよいか、を柔軟に考えながら笑顔で対応してくれているのがありありと伝わった。

 

この「浪江町役場の人たちは優秀だ」という当時の尊敬感情が、ここに書いた文章の出発点になっている気がする。

さまざまな資料から読み取ってきた、浪江町の”成熟”は、そんな出発点の裏付けのように感受してきた。

 

それは端的に楽しいことだった。

 

(つづく)