1)『ももクロ 春の一大事』について知っていること/『ももクロ春の一大事 2022』に寄せて

一つ前の記事で、浪江町について書くことの心構えを語ったが(恥ずかしい)、まずは『ももクロ 春の一大事』について――それも特に、『笑顔のチカラ つなげるオモイ』が冠せられた、自治体共催型になったそれについて、自分の知っていることを書いていく。

 

■『春の一大事』その成り立ち

ももクロのファンが100人いたら100人全員知っている教科書的な話を、素描するところから始めたい。

 

◎はじまり~2014 年 国立競技場大会まで

2011年4月10日:中野サンプラザももクロ春の一大事 ~眩しさの中に君がいた〜』

青色担当のメンバー早見あかりの脱退宣言を受け、彼女のラストライブに『ももクロ春の一大事』という名前が冠せられた。

イベントMCの「回す」担当を務め、精神的支柱だった早見あかり脱退すること。それを「一大事」と呼ぶことから、この春のライブは始まった。以降3年後まで、毎年4月に『春の一大事』が定例化されるようになる。

 

2012年4月21,22日:横浜アリーナももクロ春の一大事2012 〜横浜アリーナ まさかの2DAYS〜』

ももクロは、直前の2011年のクリスマスライブに、さいたまスーパーアリーナで初めて万単位の動員を実現する。以降のももクロは、動員数の倍々ゲームを突き進んでいくことになる。そうしたとき、「一大事」とは、彼女らにとって、急激なスケール拡大に伴いのしかかる「試練」のテーマを指すことになった。

Day1は大物芸能人をゲストに多数迎え、エンターテイメントの主体性および、自分たちがプラットフォームになりうることを打ち出した。Day2は360度観客に囲まれるセンターステージにレイアウト替えし、前日とは真逆に、「ももクロそのもの」を集中的に見せる高負荷ゲームを行った。

 

2013年4月13日,14日:西武ドームももクロ春の一大事2013 西武ドーム大会 〜星を継ぐもも〜』

初めて、全編わたって生バンドを迎え入れる。

武部聡志が率いるそのバンドは『ダウンタウンももクロバンド』という名で、成員の入れ替わりがあれど、いまも続く重要なももクロのライブのパートナーとなっていく。

ひいては、ももクロは「自分たちだけでなく、”本物”の大人たちを背中にパフォーマンスする」ことを――そこから喚起されるストイックな態度を、このころ本格始動させた。

 

2014年3月15日,16日:国立競技場『ももクロ春の一大事2014 国立競技場大会』

紅白歌合戦出場につらなる夢、国立競技場でのライブを実現した。

このとき、グラフで右斜めに直線が引かれるような、ある種、単純なビルドゥングスロマンは終焉(あるいはクールダウン)を迎える。

リーダー(百田夏菜子さん)は、Day2終演時のMCで「笑顔を届けるという意味で天下を取りたい」「笑顔を届けることに終わりはない」という伝説的な言葉を発し、思うに、彼女らが生涯を賭すに値するももクロのテーマがこの日、聖火台の前で明示された。

国立競技場大会のことを、本当はこんな安易に、簡潔に書きたくない。次に進める。

 

かつて『春の一大事』とは、ももクロにのしかかる試練のことを指した。しかし、「試練」「全力」といった高校球児的なフレームは、2014年 国立競技場大会で終わりを迎える。彼女らはもっと大事なテーマを持つようになった。以後3年間『春の一大事』は開催無しとなる。

 

◎2017年 埼玉県富士見市以降

以上のブランクを経て、2017年『ももクロ春の一大事2017 in 富士見市 〜笑顔のチカラ つなげるオモイ〜』によって、『春の一大事』がリブートされる。

 

自治体協賛型のライブになり、「ももクロに一大事が起きる」のでなく、「ももクロがその町に一大事を届けに行く」コンセプトへと生まれ変わった。

 

2017年 埼玉県富士見市、2018年 滋賀県東近江市、2019年 富山県黒部市店…と、回を重ねる。そして2020年 楢葉・広野・浪江 三町合同大会が行われることになるが、コロナ禍で延期を余儀なくされ、このほど2022年にようやく開催に至ることになった。

 

ここまでが教科書的な話。

 

■『春の一大事』がリブートするとき、何があったのか

かつては意識されていたが、いまや多くのファンが忘れがちなことを、丹念に確認したい。

 

自治体協賛型『春の一大事』は、埼玉県富士見市から始まった。スタート地点がこの地域だったことの重要性は、強調に値する。

 

富士見市にかかわる2人のキーマンがいた。

富士見市で小学4年生まで生まれ育った(元ももクロメンバー)有安杏果と、かつて市立文化会館『キラリ☆ふじみ』の芸術監督を務めていた平田オリザである。

 

平田オリザが、自らの劇団HPに構えるブログ『主宰からの定期便』で、いかなる交流を経て『春の一大事』が動き出したのか、その経緯を書き残している。

 

先に、端的な事実・結論を言うと、『春の一大事』は、富士見市で有安のソロコンサートを行おうという案があり、そこからのスライドで実現したライブイベントだった。

 

2016年5月1日、有安は、富士見市PR大使を委嘱される。同日、委嘱式のため富士見市「キラリ☆ふじみ」を訪れた。

その日、委嘱式は前半で、後半は、あるファンイベントがもよおされた。

有安がかつて育った故郷にアイドルとして貢献し返せることの歓び、その記念に、映画『幕が上がる』の無料上映会が行われることとなった。

上映後には、先に述べたつながりを持つ平田オリザと、有安杏果、川上アキラの3名によるトークショーが開催された。

 

この日の詳しいトーク内容は、このファンの方のレポートが詳しい。

http://noelmcz.blog.fc2.com/blog-entry-11.html?sp

このトークショー後半で、有安は来年ここ「キラリ☆ふじみ」で歌いたいと宣言する。

オリザ

「来年も、(有安さんに)ここにきてもらおうと思ってます。

 川上さんにもさっきお願いしてね」

 

有安

「(来年はここで)歌いたいです!」

 

会場から大歓声が沸き起こります!

 

オリザ

「演劇で使ってるし、音響もばっちりだしね」

 

おそらくこの日、劇場を熟知するオリザさんを質問攻めし、詳しく音響の話も聞き、

杏果さんは心の底から歌いたいと思ったんだと思う。

“歌いたい”って杏果さんの言葉を、初めて真正面から聞いたような気がした。

 

「歌いたいです!」

 

このときの有安の宣言は、いっときの高揚による軽口に留まったりはしなかった。

平田オリザが、後日ブログに続報を書いている。

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2016/05/30/5199/

 さて、すでにファンの皆さんがお書きくださったように、来年の市政45周年、キラリ☆ふじみ開館15周年イベントとして、有安さんのソロコンサートの開催を検討しています。有安さんの「ここで歌いたい」という強い希望がありますので、実現のハードルはさほど高くありません。今回、富士見市もチケット発売のノウハウを得ましたので。

 

この時点での仮組みは、こうである。

・来年2017年、有安杏果が「キラリ☆ふじみ」でソロコンサートを行う。

・2017年は富士見市政45周年、「キラリ☆ふじみ」開館15周年があり、その記念事業として開催する。

 

約3ヶ月を経て、2017年 富士見市で、”ももクロが"、"野外で"、コンサートを行うことが発表される(この時点では『春の一大事』と呼ばれていない)。

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2016/08/14/5335/

 すでにモノノフの皆さんはご存じの通り、私が市政アドバイザーを務める埼玉県富士見市でのももクロの野外コンサートが決定しました。

(…)

 そして、1年後の今年4月の富士見市PR大使就任。このときは有安さんのソロコンを来年にという話でしたが、すでに楽屋では、荒川河川敷でできたらいいねという話が夢のようには語られていました。

 その後富士見市サイドからは、「45周年記念事業で、本当に野外でできそうだ」という話は聞いていたのですが、もちろん今日まで公表はできませんでした。申し訳ありません。

この証言によると、かつて『幕が上がる』上映後トークショーを終えたとき、楽屋では、荒川河川敷でライブをしようと盛り上がっていたという。

すなわち、上で書いた仮組みに加えるべき一点は、やはり「キラリ☆ふじみ」ではなく、「富士見市の野外」でコンサートを行うよう見直された。よりキャパシティがスケールアップした。

あとはただ、パフォーマンスの主体が「有安杏果」単体から「ももクロ」に切り替わっただけである。

(このころ2016年の有安は、横浜アリーナでの初回、大分県ビーコンプラザでの第二回とソロコンサートが活性化し始めた年だった。一つ一つのライブがドラマティックにつながっていく論理的展開の中、あえて富士見市を途中に挟み込む必要もなかったこと。自治体協賛という規模的に、ももクロ本体のほうが対応しやすいと判断したことは、容易に推察できる)

2016年の『ももいろクリスマス』で『ももクロ春の一大事2017 in 富士見市 〜笑顔のチカラ つなげるオモイ〜』が正式発表された。再始動する『春の一大事』は、サブタイトルに「笑顔のチカラ つなげるオモイ」を冠するようになった。

 

確認すると、自治体協賛型『春の一大事』は、「ももクロがその町に一大事を届けに行く」というコンセプトが先にあったのではない。

まず「富士見市の野外でライブを行う」ということが先行し、そのフレームの中に『春の一大事』のリブートが――自治体協賛型という新たなコンセプトが差し込まれた。むろん、その差し込みは極めて創造性が高く、のちのももクロ活動を指針づけてくれた。

 

かつて『幕が上がる』を通じて出会った有安と平田オリザが、富士見市という共通の土地を通じて"出会い直す"ことがなければ、『春の一大事』が(少なくともいまのような形態で)リブートすることはなかっただろう。

 

富士見市の文化的成熟

ここまでは、ただのきっかけに過ぎない。

春の一大事がいまのような創造的なコンセプトをもった原因には、深掘りを要する。

 

有安とトークショーが行われたのが2016年5月。その3ヶ月後には、富士見市政45周年事業にももクロの野外ライブを行うと、自治体が決定したスピード感の裏には、富士見市の文化芸術アドバイザーを務める平田オリザの仲介がある。

上に貼ったトークショーのレポート記事にあるとおり、平田オリザは『幕が上がる』上映会のトークショーの時点で、前もって有安および川上マネージャーへソロコンのオファーをしていた。

そして、平田オリザは『春の一大事2017』当日を迎えて足を運んだときも、ライブを見たことについて、文化芸術アドバイザーとしての「あくまでも仕事」であると言っている。つまり、平田オリザは『春の一大事2017』にとってコンダクターであり、裏方の一員であることを自認している。

 

このころ、平田オリザももクロを取り次いだ仕事で印象的なのは、岡山県奈義町への推され隊(高城れに有安杏果のコンビ名)訪問である。

 

平田オリザは2015年から岡山県奈義町でも、教育・文化の「まちづくり監」を任命され、文化・教育政策のアドバイザーを務めていた。

春の一大事in富士見市が差し迫った2017年1月、平田オリザの取り次ぎのもと、推され隊が奈義町文化センター大ホールへ、映画『幕が上がる』無料上映会に登場した。

momoclonews.com

 

(その日、奈義町現代美術館のシーソーに乗っている推され隊)

f:id:ganko_na_yogore:20220415200303p:plain

ここで確認したいのは、このころ、ももクロはそこまで自治体と交流するスキームを持っていなかった。ももクロ自治体と「ともに何かを作り上げる」ことは、富士見市奈義町パイロットケースにし、平田オリザからインストールされたエートスだった。

 

埼玉県富士見市は、かつて平田オリザが先進的な文化行政のあり方を”インストール”した町でもある。

ももクロ富士見市と協賛し、単なる場所貸し/貸されの関係でなく、コンセプトのレベルから一緒にライブを作り上げたこと。その過程で、間接的に平田オリザの文化芸術行政の精神が、ももクロへと流入していった。

 

■「新しい広場をつくる」

平田オリザの文化・芸術行政および、それによって地方活性化をはかることの発想は、著作『新しい広場をつくる』に詳述されている。

ももクロ運営がこれを読んでいるとは考えづらいが、それでもある種、間接的な、『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』の理論書として読むことができる。

 

本書はまず、宮沢賢治が岩手の農民たちに『農民芸術概論網要』で説いた「誰人もみな芸術家たる感受をなせ」というメッセージの重要性を説明する。

農民(あるいはいち市民)にすぎない人々へ、芸術の精神を説く。芸術家になれと言っているのではない。アートをアーティストの個性に委ねるのでなく、市民・社会が自律性を確保するための方法として取り入れること――つまり、『農民芸術概論網要』は全員参加型アーツマネジメントの古典として読み解くことができると言う。

 

平田オリザが地方活性化あるいは、文化行政において、これこそが必要だと説くのは「文化の自己決定能力」である。それを、このように定義している。

私は冬の芦別に、地元の方の案内で連れて行っていただいた。人っ子一人通っていない閑散とした風景の中に、大観音や五重塔が林立する姿は、地獄絵図のようであった。要するに、自分たちの愛するものは何か、自分たちの誇りに思う文化や自然は何か、そして、そこにどんな付加価値をつければ、よそからも人が来てくれるかを自分たちで判断する能力がなければ、地方はあっけなく中央資本に収奪されていくのだ。

私はこのような能力を、「文化の自己決定能力」と呼んできた。

平田オリザ『新しい広場をつくる』P100

 

『新しい広場をつくる』でも、まさにこの「文化の自己決定能力」を富士見市へ注入していったプロセスが、「富士見市」の章で語られている。

 

 続いて、私自身が関わった埼玉県富士見市の事例を紹介する。

 埼玉県富士見市は、東武東上線沿線、池袋から急行で35分、人口約10万人の典型的な近郊都市である。ここに、市政30周年を記念して市民待望の公共ホール、富士見市文化会館「キラリ☆ふじみ」ができることとなった。縁あって、私は、市主催の開館準備のための会議に呼ばれ、講演を行った。最初は一通り、ここに書いてきたような「社会における劇場の役割」について、市民に向けて説明した。するともう一度来てくれと声がかかり、そこではアウトリーチやワークショップの考え方についての話をした。さらに、もう一度来てくれと言われて、三度目には、開館記念事業や開館1年間のプログラムの立て方について具体的な話をした。

 そのうちに、市民の間から「こいつを呼んでしまった方が早いのではないか」という話が持ち上がった。当時の開館準備室長(後の館長)が、市民の声に押されるような形で市側と協議し、急遽、私が芸術監督して呼ばれることとなった。2002年10月の開館を前にして、私の就任が決まったのが2002年2月のことだから、行政としては異例のことだったと思う。

平田オリザ『新しい広場をつくる』P152

 

平田オリザがいざ芸術監督に就任した時点では、「キラリ☆ふじみ」の開館を間近に控えているにもかかわらず、演目をめぐって「第九をやりたい」「歌舞伎も呼びたい」「劇団四季も」と、ただ市民の散漫なリクエストが集積し、どう処理したらよいか分からずにいる状態だったという。

 

平田オリザは、文化会館のリアルな財政を説く。

イニシャルコストに60億円の建設費がかかった。そして年間10万人の来館目標を掲げている。では、来館者に一律2千円(と多め)の観賞補助金をかけたとして、イニシャル60億円とは、30年分のランニングコストに相当する。この施設の30年後を思い描ける人は誰もいない。なのに、それだけの後戻りできない金額を、すでに使ってしまったと、走り出しているハコモノの意義をゆさぶる。そして、悲しいことに、市民たちが思いつくままに挙げる演目に従い、鑑賞事業のゴージャスさで勝負しようとするなら、敗北は必至である。なぜなら、市民らが池袋や銀座に出かければ、富士見市が太刀打ちできない競合で溢れかえっているからだ。

 

こうして、平田オリザ主導のもと、「キラリ☆ふじみ」は、鑑賞事業でなく、”交流事業”をメインコンプセトに据えることとした。その活動と成果を列記する。

 

  • 公演を買い取った上演団体には、必ず富士見市民に対するワークショップやアフタートークをやらせた。
  • 池袋や銀座に出かけることのできない、小さな子供を持った家庭。あるいは障がい者。高齢者を包摂する裏テーマを持った。いわば『弱者のための劇場』だが、よりマイルドに『子供のための劇場』と銘打ち、親子で楽しめるプログラムを半数以上にすることをルール化した。
  • アウトリーチにより、学校への出前授業を行い、平田オリザの在任中5年間で2千人の子どもに授業を行った。このことが観客増加につながった。
  • 15歳の中学生は20歳になると恋人を連れて劇場に来る。初年度から5年後で『子どものためのシェイクスピア』の観客数は250人から800人になった。
  • 市民巻き込み型を志向した。もっとも劇場に来づらい中高年男性をターゲットに、「舞台写真ワークショップ」を催した。演劇の模様を撮影させ、ロビーに写真展示する。すると、彼ら”お父さん”の多くは、家族連れで演劇を見に来るようになった。
  • 池袋から電車35分の地理を活かし、劇団に無料で稽古場を貸し出した。その代わりに市民向けワークショップや公開リハーサルを行ってもらう。劇団の公演チラシには「協力:富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ」と入れてもらうことで、市民の誇りにつながった。すると、富士見市民の中から、新宿や下北沢まで本番を観に行く観客が出てきた。

 

かくして、「キラリ☆ふじみ」は、施設自身はもとより、市民の文化的成熟にも貢献する稀有な公共施設になったという。最終的な成果をこう語る。

 

 こうして、キラリ☆ふじみは少ない予算ながら、地道に成長を続け、開館六年目には全国の優秀な劇場に贈られる総務大臣表彰を受賞した。この受賞は、埼玉県では初、県立劇場にも先んじての受賞となった。七年目には、待望の来館者十万人を突破。市の基本計画の中に、小学校で二回、中学校で一回は生のすぐれた舞台に触れることを保証するといった文言を入れていただくことにもなった。

 この間に、劇場に関わる市民の意識も大きく変わった。会館前は劇場への希望ばかりを述べていた準備委員のメンバーが、劇場運営に主体的に関わるサポート委員となり、チケットの売れ行きが悪い公演のときには、自主的に沿線の駅頭に立ってチラシを配ってくれるまでになった。劇場ボランティアは、アテンドなどの簡単な業務から始まったが、技術講習のワークショップを繰り返した結果、その中から館の非常勤職員になる市民まで現れた。

平田オリザ『新しい広場をつくる』P162

 

有安杏果

ここいらで、有安杏果である。

有安が富士見市に住んでいたときと、平田オリザが「キラリ☆ふじみ」の芸術監督で足繁く通っていた時期は、重複している。その町を去ったタイミングも近い。

 

1995年3月  有安杏果生誕、ほどなく富士見市へ移住

2002年2月        平田オリザ「キラリ☆ふじみ」芸術監督 任命

2002年10月      「キラリ☆ふじみ」開館(有安杏果7歳)

2004, 05年          有安杏果小学4年生、市外へ転居

2006年                平田オリザ「キラリ☆ふじみ」芸術監督 離任

2008年                キラリ☆ふじみ 総務大臣表彰を受賞

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2016/03/31/5023/

 『幕が上がる』のキャンペーン期間中にいろいろ話すうちに、私が芸術監督だった頃に、有安さんが市民文化会館キラリ☆ふじみの舞台に立っていたことも分かり、たいへん盛り上がりました。ちなみにマネージャーの川上さんも富士見市の出身です。

 

有安は、「キラリ☆ふじみ」でのトークショー時、小さいころよくダンス発表会でステージに立ったあの「キラリ☆ふじみ」に、いまアイドルとして立っていることの驚き、感動を語っていた。

「キラリ☆ふじみ」は、家族ぐるみで市民文化に参入することを大事にしていた。「キラリ☆ふじみ」で行われる子供の発表事を親が見に行き、帰りには、子どもと目の前のららぽーと富士見で外食・買物をし、家に帰る。

そんな富士見市民の文化的営みのフレームに、有安一家も参加していた。0歳から芸能活動をしていた彼女は、富士見市の文化的成熟のもとで育っていた。

 

平田オリザは、『春の一大事2017』を見届ける前日、ブログにこう書いた。著作では名が伏せられていたが、かつては右も左もわからず相談してきた、しかし富士見市の文化行政の雄へと生まれ変わった初代館長 関繁雄への追悼の言葉である。

http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2017/04/08/6117/

 私ごとですが、亡くなられた関繁雄初代館長にだけは、明日の富士見の風景を見せたかったと強く思います。誰よりも、キラリ☆ふじみと富士見市民を愛した方でした。

 富士見市の皆さんはもちろん、この機会に、近隣の皆さんも、もっとキラリ☆ふじみにお立ち寄りください。ここが、一番の「聖地」です。

平田オリザは、『春の一大事2017』を、富士見市の文化行政の一つの到達点であると考えたのだろう。だから、いまは亡き関繁雄に、「明日の富士見の風景を見せたかったと強く思います」と言う。

同時に「キラリ☆ふじみ」がなければ、その施設を通じた富士見市の文化的成長がなければ、『春の一大事2017』も実現しなかったと考えている。だから、『春の一大事』にとって「ここが一番の『聖地』です」と結んでいる。

 

『春の一大事2017』が開催された富士見市は、かつて「キラリ☆ふじみ」を介して、このように平田オリザの文化行政の薫陶を受けていた。

『春の一大事2017』に足を運んだももクロのファンたちは、星野市長はじめ、あの町がいかに柔軟にももクロとモノノフを受け入れ、東武鉄道まで巻き込み、多角的に『春の一大事』を盛り上げてくれたかを知っている。

そして、5年間経ったいまも、市政50周年記念に、富士見市を通る東武東上線各駅のオルゴールにももクロ楽曲を使用してくれている。

natalie.mu

 

かつて『春の一大事』が、『笑顔のチカラ つなげるオモイ』として、自治体協賛型へリブートしたとき、その始まりを富士見市が務めたことは、重要な意味を持っている。

 

■コンセプト再確認

自治体には、ただ場所を貸してもらうだけではなく、地域の商工業・インフラごと、一緒にライブを作らせること。ただの傍観者であることは許されず、自治体自身がライブの成功にコミットしてもらうこと。それが『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』の特長である。

 

富士見市以降、そのバトンを毎年、次の協賛自治体へつなげることが定式化した。

これは、『幕が上がる』の以下のテーマが、ももクロ×自治体の文化施策へ読み替えられたものに見える。

ジョバンニは、たくさんの人と出会って成長をしていく。『みんなで卒業をうたおう』の主人公が、先輩を一生懸命好きになることで、他の友だちや学校を好きな気持ちが広がっていったように。

平田オリザ『幕が上がる』(講談社文庫 P326)

 

富士ヶ丘高校 演劇部の高橋さおりは、副顧問の吉岡先生からの卓越した演出指導(スタニスラフスキーさながら)を受け、どんどん演劇にのめり込んでいく。そして、吉岡先生に対し、尊敬の念から、同一化欲望を持つ。

しかし、吉岡先生が女優の道を選び、退職ひいては演劇部顧問からの撤退を告げることで、彼女らをつなぐ緒は切断される。

高橋さおりはそのことを、「母からの拒絶」として受け止めるのではなく、吉岡先生への尊敬感情(好き)を、演劇そのものへと転化させた。そして台本執筆や部員のみんなといった、演劇を通じて接するすべてものを愛するようになる――という「愛」の転換劇だった。

 

同じように、『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』は、ファンたちがももクロに思う「好き」という気持ちが、協賛する自治体、そして、ももクロを受け入れようとしてくれるそこに住む人たちへの「好き」へと広がっていく連鎖構造を持つ。この構造を指して、サブタイトル『笑顔のチカラ つなげるオモイ』と呼ぶ。

 

さらに具体的には、来年へとつなげられる自治体間においても、「春の一大事マニュアル」がリレー形式で継承されるという。ケイパビリティの継承という具体的なレベルで、「笑顔のチカラ つなげるオモイ」が実現していく。

 

『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』は、面的に楽しめる。

ももクロのライブを見に来ているのに、その前後に開催地を歩き回り、メンバーが足を運んだ「聖地」に自らも立つと、やがて、ももクロのライブと町全体が明確な境界を失い始める。

町全体が、ライブ開演前のロビーのようになる。いわば会場の一部になる。その町を遊び回ることが、すでにももクロのライブのゆるやかな始まり、準備であるように感じられる。

ももクロが好きだという気持ちが、町を歩き回ることでどんどん他へと広がっていく快感を憶えるとき、これは、平田オリザを介して生まれた『幕が上がる』という劇作品の、別様の胚胎物なのだと感じてならない。

 

『春の一大事』というライブは、国立競技場大会をもっていったん切断されたと見られているが、ここに補足的な解釈を挟みたい。

国立競技場大会を終えた直後、ほぼ時間を空けず2014年5月にももクロが取り組んだことは、映画『幕が上がる』に向けた、平田オリザのワークショップだった。

翌2015年3~4月は『幕が上がる』のPR活動および同舞台作品の準備に、前年まで『春の一大事』に充てられていた時期が使われる。

翌々2016年には有安の富士見市大使委嘱があり、『幕が上がる』および平田オリザとのコネクンションから、2017年に『春の一大事』が富士見市でリブートする。『春の一大事』が停止していた3年間、丸ごと埋めるように『幕が上がる』が存在していた。

 

『春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』は、『幕が上がる』の延長上にあり、あの芝居のテーマを実際的な活動へと変換した営みだった。

『春の一大事』における冒頭で示した「2014年 国立競技場大会まで/2017年 埼玉県富士見市以降」という2つの区分は、切断されていたのではなく、国立競技場の直後から『幕が上がる』によって潜在的に、連綿と続いていた。

 

■東北・福島との先見されたつながり

『春の一大事』がリブートするにあたり、最初に得た「笑顔のチカラ つなげるオモイ」とは、富士見市有安杏果を通じて、ももクロ平田オリザと”出会い直した”ことである。その縁で、ももクロは、地方活性化に参画するスキームを構築していった。

 

平田オリザは、ちょうど映画・舞台『幕が上がる』で、ももクロと接点を持っていたころ、ある福島県の学園に対し、支援的な関係を取り結んでいた。

3.11によって休校を余儀なくされた双葉郡の高等学校機能を集約的に補完するため、2015年4月、福島県広野町に開設されたふたば未来学園である。

 

平田オリザふたば未来学園の演劇部を指導し、特に、彼ら・彼女らが「3.11」と向き合う芝居を推進した。以下のサイトは、ふたば未来学園演劇部が、平田オリザのホーム「こまばアゴラ劇場」で公演したときのものである。ここから部活紹介を引用する。

http://www.komaba-agora.com/play/5303

 

ふたば未来学園高校演劇部

 

ふたば未来学園高校は2015年4月、福島県双葉郡広野町に開校。震災と原発事故に伴い現在も約8万人が避難生活を送る双葉郡の復興のシンボルとして、地域の未来を自らの手で創造する人材の育成を目指し、平田オリザ氏らの指導のもとコミュニケーション教育にも力を注いでいます。演劇部は、同好会として1年生5名により結成後、2016年4月から演劇部として各大会に参加。内外から注目を集める新設校に通う自分たちの葛藤や生まれ育った地域への思いを率直に表現する舞台を創作し、今年度は福島県高校演劇コンクールで優秀賞を受賞しました。現在の部員は16名(2年生6名、1年生10名)。

 

福島県双葉郡の高校生たちが演劇を通じて、3.11の体験とアイデンティティの問題を、自分たち自身の言葉で思考し直すことを促している。ひいては、それが「地域の未来を自らの手で創造する人材の育成」へとつながる、「平田オリザ氏らの指導のもとのコミュニケーション教育」であるとしている。

 

※ちなみにふたば未来学園の演劇部の様子(その部活動の壮絶さ)は、広野町ドキュメンタリー映画『春を告げる町』で見ることができる。『春を告げる町』に、ももクロ春の一大事に向けて歓迎ムードを出してくれている居酒屋元気百倍( @uFx6ib8KtLcKrUw )さんが、まだそのコンセプトが立つより前の時期、原発作業員の人たちの憩いの場所として登場している。PrimeVideoで見られるので、『春の一大事』開催地の風景を知るためにも、未見の人はぜひ見たらいいと思う→ Amazon.co.jp: 春を告げる町を観る | Prime Video

 

このように、福島県および双葉郡の「文化的な自己決定能力」をはぐくむための手段として、平田オリザは自らの職能である演劇を採用している。

 

ふたば未来学園2015年4月の開校に向け、平田オリザが福島を往復していたとき、彼が同時期に行っていた仕事が、舞台『幕が上がる』(上演2015年5月)の台本執筆だった。

 

舞台『幕が上がる』では、(有安演じる)中西さんが東北の被災者であるという設定が(半ば唐突に)差し込まれていた。平田オリザが台本執筆しながら、近く控えていたふたば未来学園の演劇教育を念頭に置いていたことは、想像に難くない。

舞台『幕が上がる』については観劇した当時、ここのブログに長い感想を書いたが、かいつまんで言えば、まず、「何の理由もなく助かった自分と、何の理由もなく被災した友だち」その偶有性の耐え難さに、中西さんはさらされていた。そんなサバイバーズ・ギルトを克服するために、演劇が――友を失う『銀河鉄道の夜』のジョバンニの葛藤を反復することが、重要に作用するという回復の物語だった。

こうした演劇の問題と、東北被災地の問題は密接につながっていると平田オリザは考えたのだろう。本広克行は、舞台『幕が上がる』に3.11モチーフが挿入されることを反対した。しかし、頑なに平田オリザは譲らなかったことは、その二人の口から後々語られている。

 

中西さんのサバイバーズ・ギルト――被災を直接的に経験せず、いつまでも現在の自制にとどまり反復し続けるトラウマを、芝居として向き合うことにより言語的に外在化し、過去の「出来事」へと変換させる。舞台『幕が上がる』には、ある演劇部の一幕へと隠喩された、被災地「復興」の主題が込められていた。

 

そして、平田オリザは、ももクロとの交流でよく知られる女川町とも接点も持っている。

女川町を、彼の持論「文化・芸術は復興の重要なファクターになる」ことの範例として、著書『新しい広場』や『下り坂をそろそろと下りる』でたびたび紹介している。

 

 人類は共同体を維持するために、文化、芸術活動を、どうしても必要としてきた。それはなぜか?

 たとえば、今回の震災においても、宮城県女川町からは以下のような報告があった。

 女川は、入江が入り組んでいることもあり、最大43メートルの津波に襲われ、今回の震災でもっとも被害の激しい自治体となった。家屋の8割が流出し、人口の8.7%が亡くなられた。

 神山梓さんは、東北大学の大学院進学と共に、研究目的のために女川町に移住、今回の震災ではボランティアからそのまま街の復興推進課員となり、女川の地域再生のために奔走してきた。彼女は、文化庁ヒアリングに答えて、以下のように述べている。

 

  女川町の集落にはそれぞれ「獅子振り」という獅子舞の一種が伝わっている。竹浦集落は、地域の伝統文化である獅子振りをいち早く復旧させ、集落の人々が、獅子振りを通じて、励まし合い、団結できたことが、自立的な復興の取組につながったと思う。

  女川町にある15の集落の中で、竹浦集落は、高台移転についてもっとも早く合意形成ができた。これは文化の力によるものと考えている。コミュニティをつなぐものは、これまで培ってきた文化の力とそれを支える人々の心。その心から発せられる復興こそ真の復興であり、本当のコミュニティの再構築なのだと思う。

 

平田オリザ『新しい広場をつくる』P16-17

 

ももクロが東北に行ってきたこと

このように、『幕が上がる』は、東日本大震災の問題を潜在させていたが、ももクロ自身も、もともと同じ問題に接点を持っている。

まず、上にも書いた女川町である。

 

◎女川町

ももクロメンバーが女川さいがいFMのことを、メディアを通じて知り、声をかける。

2013年5月15日に女川町を初訪問し、自分たちと同世代の高校生アナウンサーが務める『おながわなう。』に生出演した。

ももクロは、復興に絡めた大使等の肩書きを持とうとせず、より長いスパンの絆を持ちたいと望んだために「女川町の友だち」という関係を結んだ。

以降、女川町での音楽フェスや『復幸祭』でライブを披露したほか、小中学校の訪問、ラジオ出演等、折に触れていまも女川町を訪れ続けている。あーりんはプライベートの家族旅行でも女川町を訪れ、海鮮丼を堪能していた。

ameblo.jp

 

2015年11月『世界ふしぎ発見!』に出演したあーりんは、「イギリス王室の王子が、子どもたちのために頭を下げた日本の伝統芸能とは?」という問題に、正解を捨てて、女川町応援ソング『さんま de サンバ』で回答した(しかも、スーパーひとし君で)。全国地上波に、女川町の取り組みを見せようとした。

 

スパリゾートハワイアンズ

3.11の震災および風評被害により、福島県の観光業は大打撃を受ける。かつて、ももクロが『ココ☆ナツ』のMVを撮影したいわき市スパリゾートハワイアンズも、被災によって来場者数が1/5に減少した(2010年180万人→2011年35万人)。

しかし、スパリゾートハワインズは、しばしば福島の観光業回復の理想的なモデルとして語られる。震災2年後の2013年には、震災以前を超えるV字回復を果たしたからだ(2011年35万人→2012年170万人→2013年190万人)。

 

いわき市であれば、原発事故による放射線量の上昇はほぼなかったため、原発を囲む双葉郡とは事情が違う。だから、復興は容易なのだと思われるかもしれない。だが、近いエリアの「いわき・ら・ら・ミュウ」や「アクアマリンふくしま」は、震災後の同時期、売上7割までしか回復していなかった。当然、一度離れた顧客は、なかなか戻らない。スパリゾートハワイアンズがこうした引力に勝った要因は、いくつかある。

 

まず、3.11前からの営業努力が、固い基礎になっていた。CMや無料バスで首都圏の顧客を開拓済みだった。

スパリゾートハワイアンズを有名にした映画『フラガール』に描かれる「炭鉱業の衰退→観光地としての再起」物語をベースにし、そこに「3.11の苦難→再起」の姿を率直に重ねた。フラダンサーチームの全国キャラバン、映像配信の強化等々、さまざまな策で、被災と格闘する姿をむしろ全面に出した。

 

このころ、ももクロもこのV字回復の一幕を担っている。

ファンによく知られるとおり、ももクロは、被災後1年を経てグランドオープンを迎えたスパリゾートハワインズで、2012年2月12日、応援ライブ「ももいろクローバーZ きずなライブ2012~がんばっぺ いわき~」を開催した。

かつてMVを撮った場所で『ココ☆ナツ』の衣装を着て、その曲のとおりのただただ頭のネジを外すはっちゃけたライブを行った。

natalie.mu

 

◎「ハレ」を届け、スティグマ化にあらがう

ももクロの3.11被災地への接し方はおおむねこうである。

被災から立ち上がろうとしている人たちのもとへ行き、彼らの抵抗に寄り添う。彼らを受難物語の主人公へとスティグマ化することを禁忌とし、「友だち」や「バカさわぎ」といったフラットな親密性を築こうとする。「ハレ」の気を、あくまでも「笑顔」を届けることを志向する。

 

思えば、震災直後にリリースした『Z伝説 〜終わりなき革命〜』も、被災地のZepp Sendaiで初披露された楽曲だった。この曲を手掛けたヒャダインは、2018年に『Z伝説 〜ファンファーレは止まらない〜』にリファインしたとき、この曲は、ももクロの格闘と同様に、東北被災地の応援も終わらないことをテーマにしていると明言していた。

 

私は、『MomocloMania2019 -ROAD TO 2020- 史上最大のプレ開会式』で『春の一大事2020 in 楢葉・広野・浪江 三町合同大会』が発表されたとき、嬉しさに泣いた。

 

たとえば、『新しい広場をつくる』は、『春の一大事 2017』を楽しんだその年のうちには読んでいたし、ここまで書いたような話は、2019年時点すでに頭の中にあった。

平田オリザ、女川町やスパハワイアンリゾート、といったさまざまな文脈やテーマが、福島県双葉郡の『春の一大事』に収斂していくありようを感じ、「このときが来た」という感動に震えたことを覚えている。

 

ももクロが季節ごとに置く三大ライブ(春・夏・冬)のうち、個人的には、『春の一大事』をもっとも愛している。

『夏のバカ騒ぎ』は、ももクロアファーマティブ楽天性(頭のネジを外す)を、冬の『ももいろクリスマス』は、パフォーマンスのクオリティに対する挑戦(その年の総決算)を、それぞれ標榜する。

そして、『春の一大事』は「笑顔」の連鎖をはかろうとする。

ほか二つのコンセプトももちろん素晴らしいが、「笑顔を届ける」ことがもっとも、ももクロのハードコアであり、可能性の中心であると思うからだ。

 

■『楢葉・広野・浪江 三町合同大会』の経緯

富士見市で『春の一大事2017』が成功を収めたそのころ、福島県浪江町は、(故)馬場有町長を中心とした決断のもと、避難指示解除が行われた。

このころの避難指示解除をめぐる浪江町の葛藤やコンフリクトは、いまもさまざまな媒体で伺い知ることができる。

 

浪江町が『春の一大事』に参画することになった時系列を追う。

 

2018年12月26日に、(前町長 馬場有の急逝からその座を継承してまだ間もない)吉田数博町長が、ももクロへ『春の一大事』開催応募の手紙を送付した。

 

※2020年3/13(金)『はまなかあいづTODAY』のニュース映像から

f:id:ganko_na_yogore:20220415203525p:plain

f:id:ganko_na_yogore:20220415203540p:plain

 

浪江町を代表しての手紙であるから、名義は吉田町長だが、実質的にももクロを浪江町につなげた企画実行者は産業振興課の大柿光史さんである。2011年に大学卒業し、復興にたずさわるため浪江町役場に就職された方で、現在も、ももクロと浪江女子発組合の窓口役を務めておられる。

このレター文面を見る限り、手紙は他町(楢葉・広野)との連名ではないし、町のPRは浪江町にフォーカスされていて、合同大会を想定した文面にもなっていない。

 

J-VILLAGEでの開催に関して、(富岡・大熊・双葉の帰還困難区域を挟んで)広野・楢葉から30km隔てた浪江町が連名にあったことは、おそらくこうである。つまり、『ももクロ春の一大事 in楢葉・広野・浪江 三町合同大会』の起点は、むしろ位置的に離れた浪江町にある。

 

吉田数博からレターが送付された翌2019年の3月11日、東日本大震災の周忌日に、ももクロは、避難指示解除後に浪江町内で唯一稼働中の学校、なみえ創成小・中学校を訪れた。

 
 
 
 
 
View this post on Instagram
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

A post shared by なみえクラブ (@namie.club)

www.instagram.com

体育館で、放課後スポーツクラブの子どもたちと遊び、歌とダンスも披露したという。

この日、浪江町訪問時のサインは、いまも浪江駅に併設の「なみえまるみえ情報館」に飾られている。

f:id:ganko_na_yogore:20220415204545j:plain

 

桜咲くころの2019年4月6日「なみえ春まつり」では、(下記ツイートで指摘されているとおり)ももクロはメッセージ動画を寄せ、浪江町との今後の交流を宣言した。

※ファンにとっては言うも恥ずかしい基礎知識だが、この「なみえ春まつり」は、請戸川リバーラインで夜桜を見ながら花火を打ち上げる、毎年春のお祭りであり、このほど『春の一大事2022』Day1のあとに行われる『夜桜を見る会』の原形であり、浪江女子発組合『なみえのわ』や『つながる、ウンメイ』が歌う春花火のモチーフである。

https://www.730.media/harumatsuri/

 

以降は、ファンたちがよく知るとおり、2019年の夏ライブ『MomocloMania2019』で、『春の一大事 in楢葉・広野・浪江 三町合同大会』が発表された。

2019年11月には、ももクロ浪江町の十日市祭りのステージに出演し、このときあーりんがプレイングプロデューサーを務める浪江女子発組合が結成・お披露目された。

 

このように、2019年の最初から終わりまで、徐々に徐々に、ももクロ浪江町は交差し始めていた。

 

以降の浪江女子発組合の活動や、コロナ禍によって延期を余儀なくされた『春の一大事』のことは、ファンたちが毎秒噛み締めてきた時間であり、いまここに書くまでもないだろう。

 

以上、自分なりに知っている『ももクロ春の一大事 笑顔のチカラ つなげるオモイ』のことを書いてきた。

 

次は、浪江町のことを書く。

 

(つづく)