スルジャン・スパソイェビッチ『セルビアン・フィルム』感想

A Serbian Film

■「セルビア映画」

セルビアン・フィルム』を褒めるなら、タイトルがよいということに尽きる。
このことを、できるだけ丹念に話したい。

 

なぜこのタイトルにしたのかという問いは、封切り以降世界中で盛んに投じられ、製作者たちの回答も一定の蓄積がある。

かたや、日本あるいは北米では、同時代の『ムカデ男』や『屋敷女』の並びに――もっと雑駁にいえば、パーティで供される「胸糞系」映画として受容されているきらいがある。だが、『セルビアン・フィルム』は、もう少し、監督がタイトルに託した願いを含め、真面目に観られる必要がある。「映画なんて気楽に見るものだ」というのはそのとおりだが、真面目に撮られたものを、真面目に見る礼儀だってあってよい。

 

直訳、「セルビア映画」。

レイプ、殺人、ソドミーペドファイルをえがくこの一作品が、「セルビア映画」という領土まるごとを僭称する。いまも、英語圏の人たちがセルビアにはどういった映画があるのかを学ぼうとし、「serbia movie」などとGoogle検索するなら、トップにこの映画がヒットする。

そんなタイトルを掲げたのだから、監督スルジャン・スパソイェビッチは、祖国セルビアで、特にユーゴスラビア解体後も一定の層を占める愛国・民族主義的な人々から、すさまじく嫌われている。それはかつて、ドキュメンタリータッチで『ザ・テキサス・チェーンソー・マサカー』と称した映画を発表した監督が、テキサスの民から悪魔のごとく嫌われたのと同じように。あるいはそれ以上に。

かつて、『セルビアン・フィルム』が世界46カ国で上映禁止されたうち、しばらくそこにセルビア本国も含まれていた。セルビア人がこの映画を観るようになったのは、他国での圧倒的な流通実績が逆輸入してのことだった。

そんな国内の遺恨もあってか、スパソイェビッチは、長編作品については『セルビアン・フィルム』一本を、短編は『ABCオブ・デス』に寄せたきり、いまだ次回作を作れるに至っていない。プリプロダクションであれば、『Whereout』という長編一本と、『セルビアン・フィルム』が巻き起こした混乱を監督自身がカメラに捉えるドキュメンタリー作品の話が上がっているが、どちらも何らかの障壁によりいまだクランクインできずにいるらしい。

 

■ポルノ

セルビアン・フィルム』は、ポルノ産業を題材としている。

ある伝説的な、しかしリタイヤを近く考えているポルノ俳優であるミロシュのもとへ、ヴクミルと名乗るポルノ映画監督から、「芸術映画」への出演オファーが寄せられる。ヴクミルは、心理学者や幼稚園運営などの経歴を持ち(いわゆる”衆愚”を管理する能力を持ち)、このたび国家から「芸術映画」の製作を委任されているという。

ミロシュは、経済的な不安からオファーを引き受けるが、やがてその「芸術映画」とは、殺人・レイプ・児童虐待を実録させられるスナッフフィルムだと判明する。

 

ポルノとは(男性向けのジャンルで言えば)「勃起させ、射精させる」ことに資するイメージのことを言う。神経科学でよく知られるように、勃起から射精への一連動作においては、男の中で<リラックス→緊張>という本来相反する神経の切り替わりがなされる。

まず、勃起とは、副交感神経(リラックス)が優位な状態下において可能になる。そしてペニスが硬化し、物理刺激への反発力(支持体的な硬度)を持った状態で、強い慰撫が可能になる。この物理刺激によってやがて性的興奮が絶頂に達すると、交感神経(狩りの真っ最中のような警戒心理)へと優位性がスイッチングし、男は闘争状態の様相で射精を迎える。射精のために副交感神経は後方に退けられるため、絶頂と同時にペニスは軟化する。

 

ポルノでも、まず導入(その商品を手に取らせること)においては、副交感神経的な、人に安心感=既視感を憶えさせ、リラックスをもたらすことが構成上重要になる。男があらかじめ女性一般に対して持っている「こうであってほしい」「こういうものが見たい」という性愛像があり、その期待どおりのシナリオやビジュアルを敷くように努める。

 

ゆえにポルノとは、一義的に、均質性である。

見たいと思う予期状態と、実際に見るものとの間に、質的差異(ノイズ)がないことを、製作者は丹念に確認する。これは、ロラン・バルトが写真論『明るい部屋』で書いた、ポルノとエロティックなイメージの区分説明を思い起こされる。

 

 もう一つの単一な写真は、ポルノ写真である(私はエロティックな写真と言っているのではない。エロティックな写真というのは、かき乱され、ひびの入ったポルノ写真であろう)。ポルノ写真以上に均質的なものはない。ポルノ写真は、つねに素朴で、底意もなければ計算もない。ただ一つの宝石を明るく陳列したショーウィンドウのように、ポルノ写真全体は、ただ一つのもの、つまりセックスだけを見せるように構成されている。副次的な、場ちがいな対象が、セックスを半ば隠したり、見るのを遅らせたり、気をそらせたりすることは断じてない。反対推論によって証明しよう――メイプルソープは、パンティの網目を接写することによって、セックスのクローズアップを、ポルノ的なものからエロティックなものへと変えた。その写真は、もはや単一ではない。それは私が布地の肌目に関心をもったからである。


 ―ロラン・バルト『明るい部屋』(みすず書房)P55

 

ポルノ=均質性という事実を確認し、次に進む。

 

セルビアン・フィルム』について、スパソイェビッチや共同脚本アレクサンダル・ラディヴォイェヴィッチは、本作がセルビアの『国営映画』を戯画的にパロディした作品であると公言している。

 

 このタイトルは、『セルビア映画』のイメージに対するシニカルな言及です。『セルビアン・フィルム』は、セルビアの国営映画のメタファーでもあります。(国営映画特有の)内容が予測可能で、退屈で、それゆれ全く意図しない可笑しさがある。その可笑しさが『セルビアン・フィルム』の中で微妙にパロディされているのです。

 

確かに、よく指摘されるように、『セルビアン・フィルム』のビデオゲーム的な(日本で言えば『龍が如く』のような)シークエンス、カメラワークは、ユーモアに欠いた国営映画のパロディに違いない。ただ、そういった画面の表層上にとどまらず、つまり彼ら製作者は、セルビア映画の政治的状況がこんにちポルノ的なのであると言っている。

 

 東欧では、街で泣く裸足の少女とか、当地の戦争犠牲者の話とかがないと、映画の融資は受けられない。しかし、もちろん、深入りしたり、厳しい場面を見せたり、問題を指摘したりしてはいけません。ただ、大変な生活だ、戦争を経験した、食べるものもない、愛も家族もない、というだけでいいんです。そうすれば、500万ドルを受け取ることができます。東欧で映画の資金を得るには、それしかないんだ。だからヴクミルはその象徴なんです。彼はこのシステムを信じていますが、情熱的で、とことん追求し、本当の被害者を見せたいと考えています。

 また、西側諸国は感情を失っているため、偽りの感情を求めています。被害者を見て、「ああ、私たちはまだ人間なんだ、同情できるんだ」と思えば、より人間らしく感じられるというわけです。ヴクミルはミロシュを崇拝し、ヒーローとして慕っているからこそ、ミロスは被害者ではないと本気で信じているのです。自分が正しいことをしている、地域の経済を支えている、と本気で思っているのです。


以上を、言い直すと、こうなるだろう。

中心たる西側諸国は、東欧に対して、サイードが言うオリエンタリズム的な、「こういう周縁国家が見たい」という欲望を投影してくる。それはたとえば、コソボ紛争ユーゴスラビア紛争によって蹂躙されてきたセルビアの人々の、「街で泣く裸足の少女とか、当地の戦争犠牲者の話」である。だからといって、映画の中で、西側諸国も巻き込む形での、真因的な政治上問題点を「深入り」「指摘」してはならず、「ただ、大変な生活だ、戦争を経験した、食べるものもない、愛も家族もない、というだけ」をえがくことが求められる。それを守れば、映画製作費の「500万ドル」が与えられると。

結果、西側諸国の人々がそういった「国営映画」を観て、「『ああ、私たちはまだ人間なんだ、同情できるんだ』と思い、より人間らしく感じ」られる。こうした均質性によって保障される快感供給の構造は、極めてポルノ的なのだとスパソイェビッチたちは指摘する。

 

作中の映画監督ヴクミルは、国の支援下でポルノ映画を撮る。そのポルノが迎える酸鼻極まる顛末をえがくこと、紛れもなくこれこそが「セルビア映画」なのである。そして、こんにち西側諸国が期待するとおりの国営映画を撮ることは、いかに清貧ぶった画面であっても、人々の死と性虐待が底に敷かれた「ポルノ」なのだと批判する。

 

「ヨーロッパの映画基金や映画祭の中には、東ヨーロッパからそういった映画を募集しているところもあります。それは搾取です。あのような映画は本当の搾取です。精神的なポルノです」と言うとおり、スパソイェビッチは、セルビア国家と西側諸国――その二者の映画産業における結託関係に、憎悪に限りなく近い軽蔑心を持っている。

その軽蔑心をもって、タイトルで「セルビア映画」を僭称する。結果、その名が汚損されることが、スパソイェビッチたちの切に願うところである。

 

思えば、スパソイェビッチが『ABCオブ・デス』に寄せた5分間の短編『Removed』もまた、映画産業として西側諸国から搾取される東欧の問題を、強烈な暴力描写でえがいていた。

 

ある医療機関に監禁されている男がいる。彼の肌は全身くまなくメスで剥ぎ取られ、ケロイド状になっている。それでもいくぶん硬化し、整ってきた皮膚は、再び医者にメスで剥がされる。

医者たちがその皮膚を現像液にひたすと、そこから数コマのフィルムが現れる。やがて、フィルムがつなぎ合わさって、映画作品としてリリースされる。

映画の配給者(監禁する組織のオーナー)は、ディオール・オムを思わせる端正なスーツ姿からして、シネフィルかつカンヌ映画市場のオーナーであるフランス人と推察される。

監禁された男は、車いすで映画祭に連れ出されると、観衆から熱狂的に取り囲まれる。柵を外して接触が解禁されると、ドレスを着た高貴な女たちは、彼のケロイド化した皮膚を舐めて性的恍惚の表情を浮かべる。

ある政治的に傷ついている者がいて、中心国家たる西欧の映画界が、その皮膚を<フィルム=ポルノ>として搾取する。なんと『セルビアン・フィルム』から、いっぺんのズレもない題材だろうと思う。

 

■政治の映画

以上を眺めればあきらかなとおり、『セルビアン・フィルム』は、政治のメタファーの映画である。ただ、セルビアにおいて政治とポルノがイコールで結び付けられるにすぎない。スパソイェビッチは口酸っぱくして、『セルビアン・フィルム』は、こんにち受容されているような「ショック」を目指した作品ではないと訴える。

 

 製作を計画したときも、撮影中も、観た者にショックを与えたいという意図も欲求もなかった。この映画で僕らがやりたかったことは、心の奥底に潜む感情を解き放ち、スクリーンに映し出すことだった。
 ―Blu-rayセルビアン・フィルム』ブックレット

 

 衝撃的な映画を作ろう、物議を醸そう、世界記録を更新しよう、などと考えたことはありません。そんなことは全く考えていなかった。ただ、できるだけ正直で直接的な方法で自分たちを表現したかっただけなのです。生まれたときからレイプされ、死後もそれが止まらない、それがエンディングのポイントでした。


セルビアでは、1980年代中盤以降、排外的な民族主義者スロボダン・ミロシェヴィッチセルビア共和国内の実権を握り、その独裁政権下でユーゴスラビアが解体される。やがて、ナショナリストたちの民族対立をきっかけとし、コソボ紛争ユーゴスラビア紛争が引き起こされ、20年近くにわたって想像し難い暴力が東欧の地を穢していく。

 

 セルビア人は、この20年間恐ろしく不利な立場に置かれてきた。スロボタンミロシェビッチセルビアの独裁的民族主義指導者)がユーゴスラビアを解体したせいで、国民はみんな落ち込んでいたし、脅えていた。セルビアという国が機能するのは絶対に不可能だと思っていた。なにが起こってもおかしくない環境だったし、状況はどんどん悪くなるばかりだった。絶え間ない弾圧の中で、自分の運命を自らの掌中に収めるのは不可能な話だった。この映画を通じて、僕らが抱いてきたそんな思いを表明したかったんだ。国民と国家がいかに暴力にさらされてきたか。国民がいかに自国の政府に虐待されたかという文字通りのメタファーなんだ。
(…)
 映画の主人公の職業はポルノ俳優だけど、これは今セルビアで就くことができるあらゆる職種を表している。みんなが、邪悪で歪んだシステムによって搾取されているんだ。結局、みんな同じ運命を辿ることになる。レイプされ、殺されるんだ。
 ―同ブックレット

 

スパソイェビッチがこう語るとおり、いわゆる「ゴア映画」を目指したのではない。セルビアの政治的暴力をメタファー化しようとしたとき――それにただ忠実であろうとしたとき、結果論的にゴア的な画面ができあがってしまったに過ぎない。


監督の意思としては、祖国政治の寓話化である。作品が狙った効果から見るなら、(人々が同列に見る『ムカデ男』『屋敷女』『マーターズ』…etcよりも)たとえば、テオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』や『ユリシーズの瞳』などに近い。


ただ、政治的寓話であると言っても、セルビア政治史の具体的な出来事が扱われることはない。上述した監督のひと言「レイプされ、殺される」のインパクト、その強烈さの定着だけが志向されている。この直接性が、セルビアの政治的状況を指し示すにもっとも効率的であると考えられた。あるいは、西側諸国が期待する「街で泣く裸足の少女とか、当地の戦争犠牲者」をえがく文化官僚的な画面への軽蔑心も当然あるだろう。

 

作中、ポルノ俳優のミロシュは、ヴクミルによって性的・人格的に搾取されるが、同時に彼もセックスドラッグを投与されたとき、その恍惚の中でレイプと殺人を行う。それは、かつてセルビア兵たちが民族主義政権に鼓舞され、コソボ紛争アルバニア人のジェノサイドに加担した事態によく似ている。

 

上で、ポルノとは、「勃起と射精」に至るためのイメージだと書いた。

男は副交感神経が優勢なリラックス状態のうちに勃起するが、やがて絶頂を迎えると、交感神経へとスイッチングし、かつての安寧な心はどこへやら、首に血管を浮かべ、瞳孔が収縮し、顎を震わせながら射精する。すべての男は、ポルノを見て射精するとき、わざわざ実際に声に出さなくても、心の中では最後怒号している。

セルビアン・フィルム』の終盤、幼児の息子に肛門姦をするよう仕向けられたことに気づいたミロシュが怒り狂い、叫びながら(屈強なハゲの政務官の)眼孔にファックした姿は、ポルノを見る男たちの結末の高度な戯画化に映る。


■映画における暴力

当然のことを確かめると、映画のうちに「暴力」など存在しない。

 

私自身含め、ホラー映画、バイレンス映画、ゴア映画…といった暴力の刺激を約束するジャンル映画を見漁る人間はつねに、むしろ反対に、その鑑賞体験によって、映画における「暴力の不在」を噛みしめる。

映画の中に暴力がえがかれても、あくまでもSFXやセリフでつづられた「テキスト」であり、そこに暴力の「事実」はないからだ。

暴力を恐れる者たちが、むしろ自ら能動的に暴力を見に行くことで、その恐怖を飼いならしたいと思う。だから、映像作品の中にある暴力を探す。見つけた、見よう。しかし、ここにも暴力はなかった。暴力を真似る戯れがあるだけだった――

…といった諦めをいくたび重ねた者は、多くの場合、”フェティッシュ”に走る。暴力表現のSFX、特撮、血糊、どのレーティングのレベルに認定されたか、あるいは作り手の稚拙な技巧にやどる「初期衝動」…等々と戯れるようになる。すなわち「暴力の不在」で持て余した手を「ジャンル」へ差し出す。

 

当然、暴力が「事実」でなく、「テキスト」にすぎないからこそ、暴力映画が撮られる道義も確保されよう。だが、その恩恵を知りつつも、ついぞ暴力は映像に物質的には定着しえないことの虚しさを、作り手も観客も絶えず憶えることだろう。

 

セルビアン・フィルム』に寄せうる共感は、上述のような暴力のフィクション性、その皮相さへの眼差しを持っているところにある。

暴力は「テキスト」には宿らず、事実性ないし「行為」にしか胚胎しない。『セルビアン・フィルム』の中で、生まれたばかりの湯気立つ赤子にペニスを挿入する場面があろうが、これも「テキスト」にすぎない。だが、この「テキスト」を撮ったうえで、「セルビア映画」を名乗り、その国と産業を貶めることは、事実であり「行為」に違いない。

現実に存在する政治的暴力、その起源たる国家に対して、映画のなかで「反暴力」の有効性を担保しようとする。このとき、撮られた映像=テキストは、弾倉に仕込まれた火薬であり、暴力(人に銃を向け、引き金を引く行為)における副事物でしかない。

 

いち観客として、こうした態度には見覚えがある。

ひと巻きの映画が、祖国を勝手に代表しようとする態度。それによって祖国の威信を汚損させようとする態度。『セルビアン・フィルム』の画質から容易に察せるように、その直接的な影響源はギャスパー・ノエだろう。

ギャスパー・ノエは自作の冒頭で、よく「これはフランスの由緒正しい芸術映画です」などと大きなテロップを表示させたうえで、近親相姦やレイプやドラッグの連続絵巻を開始する。

ギャスパー・ノエもまた、それはゴダールからの影響であると公言している。

ゴダールは作品の冒頭で、フランス国旗のトリコロールカラーのゴシックで、「これは映画である」という宣言を叩きつけてから、本編を始める。いかに映画史上かつて採用されなかった可読性の低い手法を駆使しようが、「これは映画である」と宣言してしまえば、それは「映像」一般ではなく、ジャンルとしての「映画」の歴史に組み込まれざるをえなくなる。

ゴダールがジャンルをリプレゼントする態度をノエは真似て、自らの映画でも「これはフランス映画です」という字幕で祖国を僭称する。そして、彼ら作家は、<ジャンル=国家>に対して挑発・攻撃を仕掛ける。

 

スパソイェビッチは、「セルビア映画」と名乗り、世界中にセルビアの政治的状況を伝えようとしたうえで、さて、何を撮ろうかと考える。何をどのように撮ることが、もっとも効率的にセルビアの説明になるだろうかと。

こう思考して映画が撮られるとき、作品の主題は、つづられるテクスト(過激な暴力・性描写の一つひとつ)でなく、リリースの行為性のほうにこそ宿る。言ってしまえば、『セルビアン・フィルム』は事実記述的 constativeでなく、行為遂行的 performativeなのだ。

こうした態度は、ジャンル映画の枠組みからは説明がつかない。ここに、一見してジャンル映画のようで、しかしその隘路をくぐり抜ける『セルビアン・フィルム』のユニークさがある。

 

以上の称賛をもって、あらためて最初の言葉に立ち返る。

セルビアン・フィルム』は、タイトルがよい。