リドリー・スコット『悪の法則』感想

サド侯爵のソドミーな文学について語られるとき、ラカンドゥルーズ、あるいはアドルノ&ホルクハイマーにおよぶまで、いつも厳格な道徳法則を説いたカントが援用される。

サド文学では、通常なら「悪」と判断される変態行為に関して、主人公にあたる人物が「なぜこの行為を自分が行うのか」を、真理に即すればむしろ社会全体よりも私個人のほうにこそ妥当性があるという論法で延々と語り続ける。

これがカントで言うところの規定的判断力(すでにまかり通っている通念的法則にもとづく判断)でなく、反省的判断力(個別事態をきっかけに、その事態および、それ同様の事態に適用できる普遍的法則を新たに導き出す判断)を実践していることに相当する。

よって、サドとカントは密接に関連すると考えられてきた。

サド文学の中で説かれる「この変態行為には実は妥当性がある」という主張は、多くの場合、以下のような論理を根幹に据えている。

(1)私は自然に付与された感性に従っているまでである
(2)自然とは神が規定したものである
(3)よって私は(私こそが)神に従順であり、ひいては真理に即している

ここで注目したいのは、サドが物事の妥当性を「自然=神」に準拠させたということは、「真善美」のうち、変態行為を善悪の問題としてでなく、真理の問題として取り扱っている点である。
さらに言うと、サドは悪徳文学の中で、実は善悪を説いていない。
むしろ善悪を「積極的に無視する」ことを遂行している。

カントは理論的整理の一つとして、伝統的な問題系統「真善美」の三項を、それぞれ独立して考えることを必須とした。

たとえば真理の例を挙げると、水素2つと酸素1つを化合すると水になる。
このことに善も悪も、快も不快もない。端的な“真理”である。

同様に原子爆弾の原理を得ることは、その発見自体に関しては真理に属する。
のちのち問われる善悪の是非は、真理とは別の次元で、人々が付与する問題に過ぎない。

むろん原子爆弾の原理が「真理」に与するからといって、原子爆弾を実用することが「善」であると判断することも、問題の混同ないし誤った接続である。

このように科学的に正しいことが悪を併存させたり、あるいは誤ったことが快である場合もあるが、真善美の三項は一元的に溶融されない、各レベルが独立して考えられるべき問題である。

たとえば考古学者は、土の中から発見したいまだ見たことのない生物の骨に対し、科学的実証を経る前から、旧約聖書にのっとった自らの宗教観(善悪の問題)を適用させてはならない。
こういった区別が守られることが、近代という枠組みを可能にしている。

サドが真理と快のレベルのみに準拠し、徹底して善悪という枠を無視しながら小説内の背徳的行為を説明することも、真善美の厳正な区別という近代的なルールにのっとっている。
その結果論として、作中で無視された人類の善悪が目も当てられないほど蹂躙されていく。
読者は、「語られなかったもの」こそ注視せざるえなくなる。

実は善悪を直接取り扱うよりも、このように真理や美など別のレベルに滞留し、善悪を徹底して「取り扱わない」ことでこそ、カタストロフィなりソドミーな描写なり、真に絶望的な様相を描くことができる。

『悪の法則』のオリジナル脚本を荷った小説家、コーマック・マッカーシーもこの認識を持っているだろう。

彼の作品は、何が善で何が悪かを定義しながら、見る者に安定した視座を与える勧善懲悪的な構造を一切採用しない。
悪が駆動し始めれば、あとは自動律で人々が物理的に損壊されていく流れをただ淡々とえがくだけである。

『悪の法則』では、金が必要になった主人公の弁護士が、数百キロの違法ドラッグの輸送を巡って、裏社会の人々に加担する。
すると思わぬ外敵の介入により、A地点からB地点に運ぶ途中だった違法ドラッグが略奪される。

結果、B地点に空白が生じる。
もはや金銭の形で取り戻すことは叶わない。
すると、その空白は復讐なり見せしめなり、事業で失敗をおかした者たちに暴力を働き、残された面々にカタルシスを憶えさせることでしか補填されない。

以上のコーディングをもって、後はただ自動的に、玉突きのアルゴリズム数を増やしたに過ぎない構造で、人々の凄惨な生き死にが展開されていく。

『悪の法則』では、一部を除いてアクションシーンがほとんど展開されず、プラトンさながらの対話劇でほとんどの時間が埋められていることも、「玉突きのアルゴリズム」を曇りなく解説する手続きだった。
(大事なのは、その手続きだけなのだ)

ここで善悪は問われていない。
ただ単に、真空が生じたらそれを埋めるため何らかの気体が流れ込むなど、端的な運動や化学反応ないし、「真理」のレベルが解説されているに過ぎない。

冒頭、おたがいハイソサエティに属するキャメロン・ディアスハビエル・バルデムカップルが、ペットの豹に兎狩りをさせているさまを楽しみながら会話する。

ハビエル・バルデムが自らの不安な感情(不合理と知りながらどうしても抱いてしまう感情)を持ち寄るのに対し、キャメロン・ディアスが冷然と突き放し続けていると、たまらず彼は「冷た過ぎないか?」と問う。
キャメロン・ディアスは彼に一瞥もくれず「真理に温度はない」と一蹴する。

これは『悪の法則』が何をしようとしているのか――すなわち情緒的な「温度」を伴う善悪の問題を排し、真理のみを禁制的に取り扱う物語なのであるというマニフェストを発している。

その後の2時間にわたって、これほど終始戦慄させられた「暴力」映画は久しく観ていない。

以上はコーマック・マッカーシーの偉業と言える。

次にリドリー・スコットを褒めたい。

コーマック・マッカーシーの原作を映画化し、成功を収めたものと言えば、言うまでもなくコーエン兄弟ノーカントリー』だ。
これはこれで面白い。

ノーカントリー』では、画面に赤みと黄色みの強い陰影を当て、南部の陰鬱として渇いた空気をえがいている。

しかし同じ南部を舞台としている『悪の法則』は、コーエン兄弟が行ったような陰影に対し、むしろ禁欲的な画面を作り出している。
つまりリドリー・スコットのキャリアの出発点――高級車のCMのように、曇りのない極めて鮮明な映像に仕立て上げられている。
(何か映画内の事物が影に落ち、ディテールが分からなくなるという事態がほとんどない)

登場人物の多くが上流階級の人々であり、コスモポリタンな近代建築に住んでいることも関係し、いかなる様式(ジャンル)も受け入れず、事物の鮮明さと、均整の取れた構図を確保することだけに執心したプレーンな映像になっている。

それらは映像内の事物一つひとつが持つ情報量を、曇らせることなく観客に届ける。
鼓舞する音楽やアクションシーンが大変限られるのに、ほとんど退屈に感じることがなかったのは、一見静かな場面でも細かなディテール、情報量に満ち溢れているおかげだろう。

これは、少ない字数の台詞に膨大な情報量を詰め込むコーマック・マッカーシーの脚本と、形態的に反復した映像だと言える。

ようやくここで引き合いに出せば、コーエン兄弟は『ノーカントリー』の中で、悪を悪らしい色合いで「演出」していた。
リドリー・スコットは、そんな加工作業を愚鈍と笑い飛ばすように無性質な映像を作り上げている。

思うにそもそも「映像的」とは、こういうことだろう。

色味に偏りや精彩をつけ、巷のブスどもに「スタイリッシュ」だとか「雰囲気が好き」と言われる(しかし作品の構造自体は極めてシンプルである)ようなものが「映像的」なのではない。

たとえばロベール・ブレッソンジャンヌ・ダルク裁判』で、その監督が金科玉条と定めているとおり、ジャンヌ・ダルクをはじめとした俳優たちは機械的な棒読みのみで、表情の起伏もなく淡々と物語を演じていく。
観るものに感情移入を認めない。

しかしいざジャンヌ・ダルクが火刑に処されるとき、観客たちは何の感情的準備も施されなかった中、唐突に「この人は殺される(殺されるに至るまでのしかるべき手続きが、気づかぬ間にこれまで進められてきた)」という事実に直面させられる。

すると火刑で映される火と、処刑人たちが打ち鳴らすドラムロールは、引き続き情緒に欠いた簡素なものにもかかわらず、それらが一挙に(画中でなく)観客の精神の中で精彩を帯び始める。

つまり、その物語が真に「無残」な構造を有しており、かつその無残さを理解するための「情報」を滞りなく与えれば、音や表情で観客の感情を喚起しなくても、ことの深刻さは論理的に人の頭の中で構成され、強烈な映像性が実現される。

これはバスター・キートンドン・シーゲルの映画でも確認できるし、あるいは、アキ・カウリスマキは『ル・アーブルの靴磨き』という悲劇とは逆の物語で同じことを再現してみせた。

いっぽう表層的なビジュアリストとして通説まかり通っているリドリー・スコットは、その印象を徹底的かつ児戯的に『プロメテウス』で体現してみせた。
彼は表層的であることをアイロニカルに否定したりせず、一手に引き受けた。

これは観た当時、ヨボヨボの亀仙人が突然筋肉を肥大させ、かめはめ波で月を破壊した場面を思い起こさせられた。
(老人とは本来、身体が衰え、蓄積した知識が人物の核を形成するはずなのに、老いてなお、物質的な強さを体現してみせる脅威)

しかし、リドリー・スコットは次作『悪の法則』において、まるで逆の芸当、すなわちブレッソン的な映像性を実践してみせた。

もうじき死期を控えている老人が、この不可解と言ってもよいほど軽やかなフットワークを見せている事実には、ただただ驚嘆するほかない。
もはや意味が分からない。

本当にすごい映画を観た。