映画を観るようになったいきさつ
俺は、物心がついたときから映画を熱心に観てきたような人間ではない。
7〜8年前だったか、一回り年上の女性に恋をした。
その女性は文化に明るかった。
漫画、音楽、小説、映画、演劇あらゆるジャンルにわたって通暁している“サブカルのリベラルアーツ”だった。
俺は、その女性の文化的な話に全然ついていけなかった。
その女性は友だちがとても少なく、抑圧的かつ孤独な人生を送ってきたようで、文化に「幸福」の可能性を一点突破的に見い出している倒錯的な人だったので、俺が彼女の文化的な話についていけないことは、そもそも恋路に橋が架かっていないに等しかった。
焦った。
漫画の話は、ある程度付いていける。
しかし、ほかのジャンルが全然フォローできていない。
全然ダメだった。
文化的に“足りなかった”。
彼女が詳しいジャンルのうち、小説や音楽などに比べて映画は敷居が低く感じられたし、既存の興味関心(視覚文化全般)とも噛み合っていた。
よって、
目的⇒「好きなあの女性と交際するため」
目標⇒「映画に詳しくなろう」
という意識を持った。
焦った。
思春期を迎えて人格形成に支障をきたしながら多くの時間を割いて諸文化に触れはじめて10年経つ中で、また新たな文化に「詳しくなる」ために「最低もう10年必要」ということぐらいは手応えとして容易に理解できた。
好きな女性に10年待ってもらえるわけはないので、通常のペースでは間に合わない。
そう自覚した瞬間、食べかけのパニーニと馬糞を壁に投げつけて、レンタル屋に走って20本ほど映画を借りてきた。
当時は柏で家賃3.5万の安アパートに住み、健康保険と年金の支払いを拒絶しながら生活費を切り詰め、コンビニで週4の夜勤をするだけで極力社会と接点を持たない生活を送っていた。
よって映画を観る本数は、
平日:2本×4日=8本
休日:4本×3日=12本
足して
週間:20本
というのが「観ようと思えば観れるはず」な本数だった。
この時期ほど時間の使い方に細かく配慮していたときはない。
平日は労働に(移動・休憩込みで)10時間拘束されるとして、睡眠や家事も差し引けば、1日に自由に用いることができる時間はおおよそ5時間だ。
映画2本に4時間割くとすれば、残った1時間で別の用事をすべてやりくりすることになる。
イコール複数の用事に対し、分単位で厳密に定めた時間を分配しなければいけない。
「コンビニに行って、木曜発売分の雑誌を立ち読みして、カフェオレを買って帰り、それをレンジでチンする」のに最速で15分ぐらい必要だ。
こうなってくると「いまここで麦茶を煮出しすると映画を一本観れなくなる」ぐらいの意識が芽生えてくるし、「駅前に出てブラつく」といった漠然かつ1時間を軽やかに消費する過ごし方は、社会主義国ばりの道徳観で明確に「悪」と断じられた。
それでも凡ミス的なタイムロスは頻繁に生じるので、結果的には「週15本は下回ることがない」程度の状況が続いた。
当時たまたま別ジャンルを通じて四方田犬彦の著書にハマりだしたところだったので、それの映画論を道先案内に採用し、「映画史を理解する」というクソみたいな教養主義の意識を持ってレンタル屋に足を運んだ。
たとえばベルイマン『沈黙』を見て、作品の意味がビタイチ分からなくて「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」「つらい…」と100分間ずっと感じていたこともあった。
自分にとって難解な映画を観ながら「こんな一般には意味が分からないとされる文法で映画が作られた社会的・芸術的・政治的意味とは」みたいな思考が始まるときは、自らに黄色信号を送った。
そういう思考は足場もなく空転し、自分の精神をどこにも移動させないまま精神衛生を濁らせるばかりだった。
できる限り、目のハイライトを失いながらであっても、無心で映画を観るよう努めた。
目的は女性との交際であり、そのために必要なことは映画を「楽しむ」ことではなく「知る」ことである。
作品を観ながらファニーな気持ちになれないことは、その行為を中断する理由に値しない。
ことの是非はどうであれ、観た。
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以上の生活を始めて2ヶ月ほど経ち、意中の女性からフラれた。
あまり多くは語りたくない。
フラれ方から察するに、「映画に詳しくてもこの恋愛に1ミクロたりとも影響はなかった」と確信することができた。
恋をしている最中、人の理知性は著しく低下する。
もう一度載せよう。
よって、
目的「好きなあの女性と付き合うため」
目標「映画に詳しくなろう」
という意識を持った。
頭がおかしい。
知能の低い人間は、他人の視点を推し量れない。
ないし他人の痛みが分からない。
そういった人間はクソである。
よって恋は、倫理にのっとればクソである。
話は逸れたが、映画は3つの考えにより、引き続きそのままのペースで観ることにした。
(1)現実逃避
(2)テレビの代わり
(3)人は成熟後に新しく「好きなもの」を作れるかどうか
1〜2が目的の8割を占めていたが、3について語る。
ふつう「好きなもの」の多くは、自我が確立する前、もしくはその前後に“所与の前提”として隣を付き添ってくれたような文化だと思う。
(これは非人間的な形をとった「友だち」である)
俺にとって漫画や美術が、それにあたる。
たとえば思春期の入り口で楳図かずおや杉浦茂に出会わなければ、パウル・クレーやカラヴァッジオの絵を模写しようと思い立たなければ、冗談でも何でもなく、きっと俺は自殺していた。
これらの文化・作家たちが取り組んだ問題や、見る側に投げかけてくる謎は、我が身のように血の通った問題として考えることができる。
いっぽう芸術や哲学、さらに政治・経済といったことなど、あらゆる諸問題に対してクリティカルな問題意識を持ったいわゆる「知識人」というものが存在する。
「知識人」に対し、むかしからよく分からずにいることとして、彼らは「我が身のように血の通った問題」を複数所有しているのか、しているならどのようなプロセスで複数も所有できたのだろう。
幼少時にすべての問題に関心を持つことは、おそらく難しい。
もはや原風景・原体験から遠ざかった成人後に「我が身のように血の通った問題」を意図的に新しく設けることはできるか――ということは極めて下衆ながら、21〜22歳あたりに直面する高次的な成熟を目前に控え、興味のあることだった。
一種の自傷行為も兼ねていた。
意図して「映画を好きになろう」と努めることの浅ましさを100%理解しながら、その浅ましさに没入することにした。
金がないことと、あくまでも映画というジャンル総体の外延をなぞることを優先したため、劇場に新作を観に行くことは滅多にせず、DVDやVHSのレンタルでほとんどの鑑賞をまかなった。
「現実逃避」が何よりの動力源となったので、その後の1年は並行して映画関連の本を読むことにも時間を割きながら、合計500本ぐらいの映画を観た。
俺にとっての映画の原体験は、幼少期でも思春期でもなく、誰とも会わずコンビニに行く時間も惜しみながら、真っ暗な部屋でベッドに体育座りし、テレビに映る光をボーッと眺め続けるこの21〜22歳のときだった。
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平均的なレンタルビデオ屋はおおよそ4万本のソフトを備えているらしい。
俺が観た500本なんて、レンタルビデオ屋のバイトがバックれるときに万引きしていっても管理責任の追及をおそれる店長が「荷崩れで紛失」の一筆で揉み消せそうな本数だが、それでも極めて教科書的な映画史の大枠を知るには事足りた。
得られた結論は、「別に映画がなくても生きていける」ということだった。
誰かはよく憶えてないが、キネマ旬報の元編集長だったか
「映画が好きであるとは、面白い映画があるから観たいということではなく、それが映画であれば、作品の質がどうであろうと観たいと思い、結果としてつまらなかったとしても『映画を観た』という最低限の行為性に愉悦を覚える人種のことであり、名作だけを追うような人間は外部からの搾取者であり、又吉イエスが地獄の火の中に投げ込むものである」
みたいなことを言っていた気がする。
1年を経ても、俺は全然、面白い作品“ばかり”観たいと感じられた。
かけがえのない好きな作品はたくさんあるけど、つまらない作品を観れば「最悪だ」「後悔した」「時間の無駄だった」と素朴に思うし、制作者への殺意も容易に抱く。
当然の帰結として、
1.成人後に意図して「映画が好きな人」になることはできない。
2.諸分野に通暁した「知識人」は、努力と無理をふんだんに駆使してそうなっているだけである。
という見解を得るに至った。
これは挫折のようで、しかしそれ以降、映画を観ることに一種の安心感を憶えられる心地よい諦観でもあった。
鑑賞者である自らを「映画史」に内属させるような理念は換骨奪胎された。
観るものをかなり動物的に選ぶようになったし、もともと美術や思想哲学が素朴に好きなので、そっちの問題を考えるにあたってのカンフル剤ぐらいに映画を受容する。
シネフィルが見たらブチぎれるような文体・理屈での感想も平気で書く。
観るペースも落ち着いた。
週4〜5本借りて、観れずに返却するものがあったり、たまに借りない週もあったり、せいぜい「月20本に満たないぐらい」になった。
(このブログに記録している月ごとの鑑賞本数はだいたい20本を超えていると思うけど、これはTwitterで俺に構ってくれる人たちに、たまたま映画の話が通じる人が多いせいで、恥ずかしながら「人に触発されて」的な要因でここ1年ほど映画に割く時間が微増しているため)
観る本数は人より多いと思われるだろうけど、そもそもの目的として「テレビの代わり」ということがある。
ゴールデン番組を1日2本観る人よりも、俺が映画に割いている時間のほうがずっと少ないはずだ。
映画はとても広大なジャンルで、それに対して俺という人間はとても小さい。
その気持ちを忘れないよういつも自分に言い聞かせているし、映画を腐す思いは一切ない。
しかし、いまでも「映画が好き」だとは言えない。