ももいろクローバーZ 舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』感想(導入) #DYWD

いま、ももクロが舞台というか、ミュージカルが絶賛やっててさ。
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』っていうタイトルのを。
舞浜アンフィシアターっていう本来シルク・ドゥ・ソレイユ用に作られた劇場で。
9月下旬〜10月上旬にかけて、合計19公演やるわけなんだけど、そのうち9月分の7公演を見てきたんだわ。
俺が。好きだから。ももクロが。
あと今週末も、もう何回か見て、合計11回見ることになるのか。
ヤバいな。幸せだな。とんかつ食べながらAV見るよりずっと楽しいわ。

いやさ、おもしろいんだよ。
何度も涙するし、笑わされる。
俺はもはや、ももクロを客観的に評価する視力を完全に失ったファンだけど、それでも頭の中で丹念に形式を追う限り、おそらくコンテンポラリーな枠組みから見ても、非常に美しく作られているんじゃないかと思う。

で、この舞台作品なんだけど、あーりんっていうももクロのピンク担当の子、まあアイドル用語でいう俺の"推し”の子がね(こういうことを言うの恥ずかしいけど)
パンフやいろんなインタビューの場で、この作品を観終わったらぜひ、友だちや家族と感想を語り合ってほしいって呼びかけてるんだよね。

佐々木彩夏
私は映画を観たり、演劇を観たり、美術館に行った後、思ったことや感じたことを話すのが大好き。だから、この舞台を観た後、お友達や家族で、わいわい話して盛り上がってほしいな。転生とか、パラレルワールドとか?正解がないことについて、それぞれの想いをみんなで話してほしい。その時間が楽しいなって思うので。
そしてみんなの話が盛り上がって、また明日からがんばろうって思ってくれたら最高。

引用元:
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』パンフレット P25

もともと『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を観ても、感想を書いたり、誰かに話すつもりはなかったんだけどさ。
というのも『幕が上がる』っていう、ももクロが以前主演した映画や舞台作品で、新書相当40,50ページ分ぐらいの感想を書いたことがあって。
俺が。好きだから。ももクロが。
そんで、またももクロの舞台作品が出てきたからって同じことをやったら、そのジャンルを監視してる、芸術に一家言あるやつみたいになるし、キモいじゃん。
俺も自覚と節度はあるんだ。

でも、ももクロのファンとしての基本方針の一つに、
「メンバーにお願いされたことには従う」
というのがある。
あーりんが「思ったことや感じたこと」を「わいわい話して盛り上がってほしい」と呼びかけた以上、そうしたい。
俺が人にキモいと思われるかどうかなんて、もはや些末な問題になった。
唾棄する。

が、しかし。
俺にももクロの話ができる友達はいない(理由:性格に問題があるので)
Twitterに書こうにも、獣姦にも劣るとされるネタバレという禁忌を衆目に晒すことになるし、2ちゃんのネタバレ感想スレに名無しで書くにしても、おそらく文章量的に「荒らし」になる。

なので、ブログを選ぶことにした。
こうやって、気心の知れた友人相手にファミレスや居酒屋で語る口調で、だらっだらと『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の感想を書こうと思う。

話を聞いてくれるお前のことは、こう設定する。
まず、ももクロに興味のない、外野の人間である。
しかし、俺がいかなるADHD崩れであるかをよく知っていて、どれだけ長時間かつ独りよがりなジャーゴンを駆使されても、何ら文句を言わない(=自我の薄弱な)友だちだ。
ないし、そんな存在を"ブログ"が担っていると言えるのかもしれない。

俺はももクロのライブやイベント、あらゆる文物の感想というものは、人に話す・話さないにかかわらず、いつもEvernoteにダラダラ書き留めている人間なんだけどさ(ブログにたまに載せているのは全体の5%にも満たない)。
『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』については、そんなチラシの裏を、他人が読んで分かる程度に書き起こしてみようと思う。

まあ、人間って、あらゆる生物のうち、言語を特質とした生き物じゃないか。
だから、ヒトは思ったことを言葉にしないと健康を害するようにできている。
ラカンが言うように、言葉とは、赤子が母の乳房から引き剥がされる代わりに与えられる、おしゃぶりのようなものだ。
その程度の戯れでダラダラと感想を語りたい。
それに、ももクロの楽曲では、"言葉に対する勇気"がさまざまに歌われている。

『走れ!』 −キミの前じゃ素直でいたいんだ
労働讃歌』 −難しいことは掘り下げないとわかんないんだけどね
『Re:Story』 −あるだけの言葉をもってして君と話してたいんだ

こんな精神で、思ったことを思ったままに、全部語る。
長くなる。

ごめんね、ありがとうって。

これも『笑一笑』っていう曲の歌詞なんだけど。

■オーバービュー
まずは、そもそもこの舞台ってどういう作品なんだよってところからだよな。

この舞台の形態は、ジュークボックス・ミュージカルと言って。
つまり、世間に元から流通している歌謡曲を劇中で歌うミュージカルのことなんだけど(わかりやすいのは『マンマ・ミーア!』)、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』では、ももクロももクロ自身の曲を使い、それを行う。

ももクロって4人組のグループでさ。
この舞台では、とある高校のダンス部の4人として現れるんだ。
4人はダンス部の立ち上げメンバーなんだけど、部室も与えられないまま日々練習に励み、高校2年にして、なんと全国のダンスコンクール決勝へ勝ち上がることになった。

で、コンクール前日、渋谷区の交差点で、いよいよ明日だね〜〜〜!!と4人が盛り上がって、思わずその場で練習しはじめる。
すると、交通事故にあい、全員死亡する。
(この死ぬくだりを、こないだ紫担当の高城れにという子がラジオ番組で「ちょっとしたアクシデントで」と説明してて笑った)

彼女らは生まれ変わる。
が、一人だけ、ダンス部のリーダーであるカナコ(百田夏菜子っていうももクロのリーダー且つ、赤担当のお方が演じてらっしゃる。この作品、全員、実際の下の名前を役名に使っている)は、死を理解できず天界を浮遊するんだ。

カナコが転生を拒否したまま、霊魂として他3人のもとを経巡り、また再び4人でダンスをしようとするファンタジー作品であると。
この『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は。
タイトル『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』はその誘い文句であり、同時に本作のキーとなる楽曲名でもある。

表題曲『Do You Want to Dance?』だけ、ももクロの内製物じゃなくて、外部から供給している。
Bobby Freemanによって作られた、50年代アメリカの雰囲気をよくよく表現したロックのクラシックナンバーなんだけど、映画『アメリカン・グラフィティ』に挿入歌として使われている。
(個人的にはロジャー・コーマンの最高傑作『ロックンロール・ハイスクール』で、カメオ出演したラモーンズが歌う場面のほうこそ思い出深いけど)







アメリカン・グラフィティ』自体が、50年代後半〜60年代前半の古き善きアメリカを象徴するナンバーを流しまくる、ジュークボックスのような映画になってるんだよね。

たとえば、『アメリカン・グラフィティ』の影響下で撮られた『グリース』は、ピンク担当、あーりんの2018年ソロコンサートの世界観に援用されたし、『アメリカン・グラフィティ』に登場した伝説的ラジオDJ、ウルフ・ジャックマンは、その影響力から日本に小林克也およびスネークマンショーを生み出した。
小林克也とは、ももクロが毎年バレンタインにやっているイベントの直近回で共演していてさ。
小林克也ももクロにウルフ・ジャックマンのDJ精神を伝授していたりする。
ももクロとの遠縁な関係はこんなところか。

で、『Do You Want to Dance?』に戻ると。
この曲のポイントは、まったくメッセージ性などないということだと思う。
女の子をダンスに誘う甘ったるいナンパ文句を3パターンほどリピートするだけ。
日本の文化で喩えれば、「キミ、カワウィーネー」ぐらいのことしか言っていない

Do you want to dance and hold my hand?
Tell me baby I'm your lover man
ダンスしよう ぼくの手を取ってさ
聞かせてよベイビー 恋人はぼくだって

Well do you want to dance under the moonlight?
Squeeze me baby all through the night
月明かりの下で踊ろう
キミを夜通しギュッと抱きしめるから

Do you do you do you do you want to dance
ミキミキミキミ ダンスしようよ
Do you do you do you do you want to dance
ミキミキミキミ ダンスしようよ
Do you do you do you do you want to dance
ミキミキミキミ ダンスしようよ

見ての通り、ただキミとダンスがしたい!という指向性だけが示されている偏差値5の楽曲だ。

死んで天界を浮遊するカナコは、幸せの絶頂にいたあの仲間たちとまた踊りたい。
その気持ちを表明する曲で、『Do You Want to Dance?』は舞台の節々で歌われ、踊る。
(俺は『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を観るたび、シナリオや時系列をExcelに整理してるんだけど、そこで数える限り、8回歌われてるな)

同時にこの曲は「幸せだったあのころ」を象徴している。
アメリカン・グラフィティ』の場合、当時冷戦やベトナム戦争アメリカは国家不信に陥っていた。そんで、かつて50年代のアメリカはただただ楽天的で幸せだったなーということを、アイロニカルに振り返る構造の映画になっている。
楽天的な楽曲だけど、楽曲と自分との間には、アメグラなら<ベトナム戦争>、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』では<交通事故>といった「死」の切断線が引かれている。
単純にブギウギイエイ!な曲ではない。
この曲をビーチボーイズラモーンズがカバーするときもだいたいそう。
楽天性への再帰」として歌われる。
だから、舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』で、楽曲『Do You Want to Dance?』を「<幸せだったあのころ=前世>を取り戻そう」というメッセージ媒体として用いるのは、アメリカ本国の流儀をちゃんと踏襲していると言える。

話の本筋に進むと、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』は、作品の冒頭、ダンス部の4人はすでに完成された幸せの絶頂期にいる(ふつうの青春ドラマならここがクライマックスになる)。
それが、開始2〜3分で、たちまち死によって打ち切られる。

驚くべきは、アイドルのミュージカルなのに「希望に満ちた世界を生きていても、物質として壊れたら全部おしまい」という事実を見せつけるところから始まるのが、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』の特色なんだ(いざ字に起こすとひどいね)

魂として天界をさまようカナコは、また4人で集まりダンスがしたい!という強烈な欲望を持っている。
しかし、転生を拒み、肉体を持たずにいる以上、現実世界において再びその願いを実現させることはできない。
だから、カナコは<非現実としての夢>の世界を仮構し、そこに他3人を呼び込んだのち、<欲望としての夢>を実現しようとする。

見ての通り、それなりに倒錯的なことを試みている。
だから、何らかの事由をもって現実から引き剥がされた者たちにとって、「夢はいかにしか可能か?」という問題と格闘する物語になっていると思う。

ここまで語っておいて何だけど、作品自体は、至って明るい。
たとえば宮崎駿のアニメ作品も、つねに死を重要なファクターに据えつつ、子どもたちの鑑賞に耐えうるように。
この舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』も、ついこないだ、子どもが泣いたり大声を挙げたりしてもOKなファミリーデー公演が設けられ、終演後には、子どもたちがドゥユドゥユドゥユドゥユワーナダーンス?ってロビーや帰り道で踊っていたという話があるぐらいなんだよね。

作品のざっくりした輪郭はそんなところか。

(続く)