ももいろクローバーZ 舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』感想(第一幕) #DYWD

■プロローグ
で、順に展開を舐めていくと、ファンとしては、まず先に語った交通事故に見舞われるイントロダクションで泣いてしまう。
落差がすごい。
翌日のダンスコンクール決勝を控え、みんな軽い躁状態になっている。
カナコは、勉強ができない。
いわゆる"どや顔"で、『Do you want to dance?』の冒頭部分「Do you want to dance and hold my hand? Tell me baby I'm your lover man.」という歌詞を、荒井注レベルのカタカナ英語で話すんだけど、
「ドウーユーワナダァン? アン…アッポー オン マイハンズ」と、ピコ太郎にあやかる。
くだらなさに4人とも笑う。

カナコはヘッドホンをつけ、ここ(交差点)で練習しようと言い、4人は踊り出す。
ウキウキとしたビートで楽天的な雰囲気に包まれたとき、ふいに暗転する。
ドガン ガシャン
とトラックの前面が派手にへしゃげるような衝突音が真っ暗な空間に響く。
少し間を置いたのち、4人の死亡を告げるニュース音声が流れ始める。
併せて、荘厳なメロディの、ももクロ3rdアルバム『AMARANTHUS』のイントロダクション『embryo -prologue』が流れる。

真っ暗な舞台の正面には、本広克行が『2010年宇宙の旅』から引用したと言っている巨大なモノリスが屹立していて、そこにタイトルロールが映し出される。

本広克行は『幕が上がる』で寺山修司田園に死す』を引用するのしかり、引用対象のセレクトと仕方が映画学科の大学生っぽいんだよな…)

こんなの、ももクロのファンとしては、眼球を取り出されて果汁搾りに押し当てられるように、涙が強制的に絞り出される。
ももクロに、もしこんなことが起きて、こんなニュース音声を耳にしたときには、自分はもう生きていられない」と思わずにはいられないから。
(ただ、これぐらいあざとい冒頭の演出は、決して嫌いじゃない)

タイトルロールが流れ終わると、舞台中央の空洞から床がせり上がり、魂となった4人が『WE ARE BORN』をアンサンブルたちと一緒に歌い出す。

これも3rdアルバム『AMARANTHUS』の収録曲ないしリード曲なんだけど、
イントロダクション『embryo』からシームレスに『WE ARE BORN』へつなげられるアルバムの仕組みが、舞台へとそのまま移植されている。
胎内から不完全な世界へ産み落とされる不安と、しかし胎外から差してくる光に向かい進んでいこうという勇気が歌われる曲だ。
つまりは、死んだ4人が生まれ変わるモーメントがここで表現される。

だけど、先に言ったとおりカナコだけが死を自覚できず、天界を浮遊している。
『WE ARE BORN』のオチサビ前に、カナコ以外の3人は舞台から地下へ消えていくんだけど、
カナコだけ曲が終わると、「れにー、しおりー、あやかー」と3人を探し始める。
そこに魂の転生を司る堕天使ミーニャと、その部下の坂上が現れる。
(ミーニャがシルヴィア・グラブ、坂上妃海風という俳優さんで、どちらも歌劇のマジのプロ。一挙一動すばらしいので、本当に出演してくれてありがとうという気持ちしかない)

堕天使の二人は、あの日4人とも交通事故で死んだこと、そしてまだ生まれ変わっていないのは、死に気づかずにいるおバカのカナコだけであると説明する。
『世界の秘密』という曲を歌い、天界が定める転生の仕組みをカナコに教える。
「生まれ変わりはある。それは過去から未来でなく、壁の向こう側の並行世界」であると。
魂が転生する先は、死んだ直後の同一世界とは限らず、時代はかえってむかしに遡るかもしれないし、場所や、どの並行世界なのかも変わりうる。
そうした転生先は、ミーニャによってガチャポンでランダムに決められると。
確かに並行世界が前提とした世界であることを、ファンは随所で気づかされるんだよね。

交通事故のニュース音声が流れるとき、ダンス部の4人は富士が丘高校の学生であると言われるけど、これは『幕が上がる』の演劇部がある学校名なんだ。
後に、あーりんがまさに『幕が上がる』の演劇部へ転生していることが分かるんだけど、そこでは、前年の高校演劇のブロック大会で敗退したことになっている。
『幕が上がる』では、高橋さおりという部長の奇跡的な台本・演出でブロック大会はもとより全国大会まで勝ち進むことになっているので、『幕が上がる』とは設定がずいぶん違っている。
そもそも転生したあーりんの役名も『幕が上がる』の"加藤明美"でなく、『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』では"渡辺あやか"になっている。
渡辺あやかが転生した先の富士が丘高校には、前世で所属していたダンス部は存在しないことになっている。
別に時代が大きく異なっている様子もない(どちらの時代でも、YouTubeの存在が自明に語られている)
こんな具合に、ファンなら瞬時で分かる世界のねじれが節々にある。なるほど、並行世界なんだなと。

やや拙速にあーりんの話へ逸れちゃったけど、カナコは、さあ、転生するわよとガチャポンを回そうとする堕天使たちの説明を受け入れられず、さまざまな並行世界を自由に行き来できるという球体<時空の鍵>を奪い、その場から逃げ出す。
慌てて堕天使たちが追いかけようとすると、ミーニャがまた悪そうな笑顔で、急ぐ必要はない。カナコを泳がせてみようと言う。
退屈しのぎとして、カナコを試してみようと言う。
(ただし、カナコを泳がせる動機付けは、物語の後半で重要な訂正が入るんだけどね)

■再会
カナコが<時空の鍵>を使い、しおり、あやか、れにの元へ行くと、3人は生まれ変わった先でそれぞれ冴えない日々というか、不全感を抱えて生きているんだよね。

しおりは、結婚を来月に控え、ウエディングサロンでマリッジブルーになりかけている。
親がお膳立てした縁組を受け入れる「いい子」な自分について、その規範を内面化している自分と、空虚に感じる自分とで分裂し始めている。

あやかは、富士が丘高校演劇部の部長を『幕が上がる』の主人公高橋さおりから引き継いでいるんだけど、さおりのような求心力を持てずにいる。
部員たちが演劇にシリアスになってくれないことに苛立っているし、そんな状況に押し流されそうになっている自分の弱さにも懊悩している。

れには、看護師としてオーバーワークの日々に明け暮れている。
仕事にいい加減な同僚たちから、つい率先して面倒事を巻き取ってしまう。
昼ごはん(なぜかフリスビーぐらいの大きさの肉まんを持っている)を食べる時間も取れずにいる(デカすぎるからでは?)
そんな献身的姿勢は、彼女の自信のなさ、弱さに由来している。

こうした3人との再会が、各々のソロパートの歌唱とともに演じられていく。
ももクロのライブをいつも見ている人間としては、玉さん(玉井詩織)、あーりん(佐々木彩夏)、れにちゃん(高城れに)の3人ともが、本当に丁寧に歌ってくれているのが分かる。
バイオリンの音のように、実にきれいに声が伸びていく。

で、3人それぞれのもとへ突如現れたカナコが「久しぶり〜〜〜〜」「また一緒に踊ろうよ〜〜〜〜〜」と駆け寄ると、彼女らは当然、何だこいつは?とめちゃくちゃ怪しがる。
もはや彼女らに前世の記憶、カナコの記憶はないから。

なのにカナコが『Do You Want to Dance?』を口ずさみながら踊ると、3人とも、体が勝手に踊りだす。
踊りながら、自らの手足を眺めて「????」と戸惑う(あーりんだけニヤニヤして、何これウケんだけど、ってなってるのが良い)。
また、なぜかカナコが口ずさむ『Do You Want to Dance?』を聴くと、胸の奥がポカポカしてくると言う。

3人はその言い知れぬ心地よさに、直感的に、いま苛まれている不全感から抜け出す光のようなものを感じ取り、つらい現実(ウエディングサロン、演劇部、病院)を置き去りにして、カナコを追いかける。

個々人パートの最後にあたるれにちゃんが走り出したところで、ももクロの楽曲『LOST CHILD』が歌われる。
直訳して「迷子」。
後々暗示されるけど、このタイミングをもって、3人はカナコが作り出した夢の世界に入り込む。
彼女らが<いつ・どこ>性を失い、(存在感覚的な)迷子になることが歌われているんだ。

この場所はどこなのか問い詰めても、カナコはふんわり「それは私にも分からない」「ロビンフッドがいた森かもしれないし、昭和の時代の近所の公園かもしれない」と答える。
しおりが「私達をこんなところに呼び出してどうするつもり?」と詰め寄る。
カナコは「私が呼んだんじゃないよ。みんなが勝手についてきたんじゃん」と切り返す。続けて「4人でゆっくり話す場所がほしかったの。だから、ちょっとカフェに行くみたいに、これ(時空の鍵)を、ヒュッ、と」と語る。
(一応言っておくけど、俺、会場でコッソリ録音して文字起こしとか、そういう違反行為はやってないからな)

つまりカナコは、3人を誘い、この<いつ・どこ>性を持たないトポスを準備するところまでを行った。
3人はカナコを追いかけ、その世界に入り込んだ。

この双方の積極性がペアリングしなければ、4人で再び集まることはできなかった(カナコ一人の強制力で結集されたわけではない)という事実が示されている。

彼女らは、体に染み付いた『Do You Want to Dance?』をあらためて4人一緒に踊る。
すると潜在していた快楽(=振り付け)が噴き出すように、かつての戸惑いが取り払われた調子で、4人の手足が美しい動きを描き始める。
ダンスを共有することを通じて、かつて死で分かたれた4人が再び合一を果たす。

(いまさらだけど、情報をどんどん羅列的に書いていく局面だと、口語体が全然成立してくんないな)

■ダンス
ここらへんでいったん、この舞台作品において、ダンスとはどういう位置づけなのか補助線を引いておきたい。

そもそも舞台『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』とは、「みんなとダンスがしたい!」という情動を扱う話。
では「ダンス」とは何なのか?が常に問題化される構造になっている。
まず、この舞台で『Do You Want to Dance?』は、共同性を取り戻す契機として繰り返し用いられる。

カナコが3人それぞれと出会い、潜在的な記憶を引き出すためのトリガーとして。
また、4人全員集ったときは、面識を持たずアトランダムでしかなった4人から、共同性を持った4人へ再帰する契機として用いられる。

この楽曲の魔力はすごい。
『Do You Want to Dance?』が踊られれば、言葉による説得がされたわけでもないのに、根拠もなく、一緒に踊った人たちは共同体になる。

こうしたダンスの機能は、さまざまな分野で指摘されていることだと思う。

羅列的な知識で恐縮だけど、たとえば、野田勉『ブラック・マシン・ミュージック』。
ディスコ、ハウス、テクノといった20世紀後半の電子音楽が、シカゴやデトロイトのような荒廃した都市の黒人たちによって形成されてきた歴史のダイナミズムを丹念に追う、
まあ黒人音楽の研究書としては、上梓以降、一貫して最重要であり続けている本だけども。

この本が繰り返し訴えるのは、ダンスとは、歴史の異なる者たち(住む街、所属するトライブ、人種、貧富の差)を脱意味/脱歴史化し、同じリズム反復のるつぼの中に溶かし込む機能を持っているものだということだ。
たとえば、チビクロサンボの虎たちが木の下の回転のうちに、一つの溶けたバターになっていくように。
音楽の享受方法にダンスが採用されたことで、70年代以降の電子音楽は、異ジャンルの融合時に本来ありうる調整コストが極めてやすやすとクリアされ、加速度的な発展と拡張を遂げたことを指摘している。

ほかにも、パンコパンダや未来少年コナンを始めとした宮崎駿のアニメにおいて、互いの動きを模し合った者同士は漏れなく"仲間"になることを、ササキバラ・ゴウが『教養としての〈まんが・アニメ〉』で分析してたな。

何よりわかりやすいのは、マイケル・ジャクソンの『Beat it』および、それを参照して撮られたももクロ『DECORATION』のMVだ。
元々対立したチーム同士のチンピラたちが、何も対話はしていないのに最後に大団円のダンスをするだけで合一していく。









とりとめないけど、再三確かめておくべきは、ダンスとは<根拠なき合一>であるということだ。

■起点としての「バカ」
もう一つ、この物語の重要なファクターとして、すべての始源にカナコの「バカ」さがあるということに触れておきたい。

それは、カナコが自分や他3人はもう死んでいることに気づかなかったバカさであり、
また堕天使たちが歌う生まれ変わりのルールを少しも内面化しようとしないバカさが、物語に奇跡を起こすすべての契機となっている。
このフレームは台本の鈴木聡によるものだって、本広克行も語っている。

本広克行 ミュージカルだし、夢の話だから、歌うことも踊ることも何でもやれるんだけど、できあがった脚本を読んで、素晴らしいと思ったのは、それらを結びつけるのが「バカの力」だということ。鈴木さんのすごいアイデアですよ。死んだことも生まれ変わることもイヤだといって、4人が一緒にいる夢を見続けるカナコの物語。僕はやっぱり何かを作り出すのはバカだと思うんです。

引用元:
https://trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1008498/091401454/?P=3

なんなら、この舞台の時間の8割ぐらい、カナコは「あは〜」な笑顔というか、彼女の頭上に小学生がよく描く花弁が放射状の花が一輪咲いているのが、ありありと目に浮かぶ。

ここらへんで急にお硬い言葉を使い始めるけど、そんな姿を見て否応なく想い起こされたのは、エラスムスの『痴愚神礼讃』だな。
2〜3年前に読んだとき、俺には、この中世に書かれた本が"ももクロ礼賛"、それも特に"百田夏菜子礼賛"にしか読めなかった。

痴愚神礼讃』っていうのは、中世の人文主義エラスムスカトリック教会や、それを理論的に支えるスコラ神学を批判した諷刺書として知られている。
痴愚女神moriaが、自画自賛の弁舌を奮いながら、対称的に硬直しきったカトリック教会やそれに関連する人々をこき下ろしまくる。
この本がルターに共感を与え、宗教改革起爆剤になったことは有名だね。
むろん、ここで検討すべきは宗教史的・文学史的意義のどっちでもない。
痴愚を礼賛する理路を一瞥する必要がある。

痴愚女神は、自らの良いところ、痴愚の美徳をいくつも挙げる。
うぬぼれ(ピラウティア)、追従(コラキア)、忘却(レテ)、怠惰(ミソポニア)、快楽(ヘドネ)、無思慮(アノイア)、逸楽(トリュペ)、お祭り騒ぎ(コモス)、熟睡(ネグレトス・ヒュプノス)…
と、ふつうは一蹴されるべきこうした痴愚の要素を丹念に、これがあるから人は生殖ができる、これがあれば人は若返る、とその効能を訴えていく。

ここで大事なのは、人間の感覚的回路はきわめて分裂的で複数化していることを、ひたすら痴愚女神が説いていくところだ。

主体を統御的・単一的にまとめあげる理知性よりも、情念や快楽のほうが感覚回路のレパートリーが多種多様に開かれていると。
エラスムスいわく、理知性が1だとすれば、情念の種類は24個あるとすら言っている(内訳はあんまり説明されないけど)。

もちろん、エラスムスは素朴に反知性主義を唱えているわけではない。
合理性批判とは、漏らさず合理性のアップデートをはかることを本義としている。
知性や敬虔といった狭い回路に閉じるよりも、歓びを軸とすることで、より人間は広く世界に開かれる。
大局的に見れば、そのほうが知的・合理的ですらあると。

これを現代の用語で説明すれば、痴愚神礼讃は、リダンダンシーの古典的理論書であると言えるだろうな。
リダンダンシーとは冗長性のこと。
おそらくIT開発とか、なんかの業務プロセスを設計している人とか、ビジネスの畑でこそよく使われる言葉じゃないか。
たとえば機構Aと機構Bはそれぞれ維持コストがかかる別個のシステムなのに、もし一部の機能が重複しているとしたら、それは冗長であると言える。
ふつう合理的に考えれば、システム全体の中で、一機能は一機構にのみ与えることが最適とされる。
でも20〜21世紀のエンジニアリングが気づいたのは、一見合理的に捉えがたい冗長な構造のほうが、往々にしてサステナビリティ(持続可能性)に優れているということだった。
機能を複数化させることで、一つの機構が潰れたときに即時補完ができる。
一個のアンテナが潰れても、別のアンテナの角度調整をするだけで、完全機能停止という最悪の事態を防げる。
また、同じアウトプットであっても、異なる回路・アプローチから得られた結果を相互参照することで、より精度の高い反証的判断が得られる。

同じように人間の身体感覚も極めて冗長に組織されているというのが、アフォーダンスをはじめとする20世紀の認知科学の気づきだったと思う。
人間の知覚・動作を観察すると、デカルト的な心身二元論(脳=知性が身体を統御する)では説明できない様態が数多く発見される。
手足は手足自身が考え、皮膚は皮膚として記憶を持ち、内臓や細胞ですら脳の統御に抵抗し続けている。
こんな具合に、人間身体とは分裂的な一種の闘争の場であるというのが、20世紀以降の生態学の基本的な理解だと思う。

考えてみれば、ダンスというジャンルそのものが、人間は認識の回路がさまざまに分裂していることに対し、極めて自覚的なジャンルだと言えるんじゃないか。
他者に披露したい(視覚的に把握された)動きと、それを生み出すダンサー自身の身体イメージは往々にして一致しない。
つまり、ダンスをビデオテープによって客観的に記録し、それを振り付け情報として人を与えても、そんな視覚的理解でただちに人間は踊れるようにはならない。
必ず、併せて身体感覚への翻訳が求められる。
逆に、一度身体が憶えたダンスは、目をつむりながらでも再現することができる。

カナコたちが死によって、生前の出来事や友人知人の名前といった海馬的な記憶を失っても、身体性を持った魂が直接感覚を保管していた。
そんな前世の感覚を引き出す鍵がダンスであるということが、この舞台作品では執拗に描かれている。
ひいては、おバカのカナコこそ、他の3人よりもリダンダンシーの強度が突出していた。だからこそ、4人を再びつなぎ合わせる契機になりえたということだと思う。

これは現実のももクロにおいても日々認識されていることだ。
本広克行は『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』を巡るインタビューで、あーりんが「百田夏菜子がいなかったらももクロなんかできないから」と話していたことを語っている。

ともあれ押さえておきたいのは、痴愚やダンスといった劇中用いられるモチーフはすべてが論理的に結びつき、ストーリーで起きる奇跡を下支えしているということだ。
作劇を務めた鈴木聡は、やれ並行世界だとか、やれおバカといったフレームをなんでもありのマジックワードのようによく自嘲しているけど、全然胸を張ってよいと思う。

■ヘヴン結成
話を『ドゥ・ユ・ワナ・ダンス?』のあらすじに戻すと、再び結集した4人は、<時空の鍵>をかざすと誤ってアイドルのオーディションに飛び込んでしまう。
なし崩しに課題曲を踊り、面接で「あなたたちにとってのダンスとは何か、一つの言葉で説明しなさい」と振られたとき、彼女らは自分にとってのダンスの定義を明言していく。

しおりは「自由」
あやかは「大喝采
れには「勇気」
カナコは「仲間」

各々が自らに欠けていると感じ、欲望していたものを宣言するというのはオズの魔法使いのようだけど、すなわちダンスとは、人間が欲望するところの「夢」である。

オーディションに受かった他メンバーを含め、9人で『Do You Want to Dance?』を踊る。
Bobby Freemanの原曲どおりの曲構成で、大人数によるフォーメーションの広がりはミュージカルの醍醐味をはつらつと見せてくれる。
曲が終わって全員が決めポーズをした瞬間、アイドルグループ「ヘヴン」が結成される。

ここでも楽曲『Do You Want to Dance?』は、異なる歴史を持つ者同士を一つの束に収斂させるものとして呼び出される。

この舞台には、夢はいかにして可能か?という問いがあった。
であれば、<ダンス=夢>という構成のもと、その多幸性・冗長性を描くことで夢は可能であるとアファーマティブに示される。
この楽天性へ回帰するところでもって、舞台前半である第一幕が終わる。

(続く)