3)女性は人間ではない

俺は社交性に欠いているが、それでも生涯通して会話をしてきた女性は何百人といる。

一度は性に絶望した人生だったが、ある時期「もしかしたら自分もやはり恋愛できるのではないか」という望みを胸に、女性と交際したことだってある。
セックスは気持ちがいい。

しかし、経験的に得られた結論は、女性はことごとく「人に支えられるモデル」を採用して生きているということだった。
男に頼りがいある男らしさを求め、「女の子扱い」されることを望む。
ペニスがヴァギナを埋めるセックスの凹凸構図と同様、非対称型によるセクシズムにのっとっている。

こうした非対称型のジェンダー構造を、上野千鶴子は『家父長制と資本制』の中で資本制になぞらえて図式化している。
(本がスキャナーにうまく収まらないので、一から絵に起こしたズラ)

産業革命以後、市場経済が際限なく拡大を推し進めるにあたり、二つの外部――すなわち自然と家庭から限りある資源を搾取してきたことを、この図は指し示している。

ここでの「市場」は公共性を、「家庭」は共同性をつかさどる。
旧来の社会は、公共性に参与する者(その多くは男)だけを「人間」と見なし、その範疇から漏れて「家庭」をつかさどる役目に押し込められた女性たちは「人間以外」という扱いを受けるため、労働法などの市場ルールから隔絶された人的搾取を受ける。

これはマルクス主義フェミニズムが指摘した経済的構造であり、克服されるべき家父長制の様態である。

フェミニストたちは理論的言説を通じて「家庭」の脱神話化をはかり、女性と家庭の規範的結び付きを解体してきた。
家事労働のコストを削減する家電製品の発達あるいは、男女雇用機会均等法の施行は、まだまだ進歩の余地を残しながらも女性の市場参加を促している。

こうした波を受け、いち市民として、言葉を司る主体として、公共圏に飛び出していく女性は立派な「人間」に違いない。

現代とは、もはやそういう時代なのだ。

にもかかわらず、"ふわっふわな私を、優しくて時にはガツンと言ってくれる男の人が包み込んでくれるべき"というふざけた被保護的セクシズムに毒された女性ばかりじゃないか、世の中には、というのが俺の抱く不満だった。

もっと言ってしまえば、家父長制を内面化し、自らが「人間以外」であることを受け入れた女性ばかりが世に溢れている。

コミュニケーションするときは論理よりも感性を重んじ、文化には形式的なダイナミズムよりも様式美を求める。
共同体の外側に出るときに必要になる普遍言語を用いるのでなく、閉じた輪の中で親密さや序列を確かめ合うことに、時間と、金と、言葉を費やす。

むろん、それが単なる趣味の話であれば問題ないが、市民社会において甘やかされる側に立とうという経済的・政治的チートの姿勢をそこに見い出すたび、「女性は人間ではない」という思いに打ちひしがれる。

女性の多くはユーモアを持ち合わせていない。
ないし、それは自分の負うべき役割だと思っていない。

ユーモアはベルクソンが説くように、社会にメンテナンスを施す批判力を潜在させている。
弱い者が抵抗の姿勢を持ったときに生じる、主体化の意志である。
(たとえばTwitterで人気取りの作法を励行して力を蓄えようと努める人たちよりも、むしろそうした権勢に抵抗の意志を示す人たちにこそおもしろさが宿っているように)

あらゆる局面において客体であらんと志向する女性が、ユーモアを持たないことは必然的な事態と言える。

ときには知性(よく学び、よく考えること)すら、女性は男の役割であるように考えている。
例示として、ナミキさんのこのツイートは分かりやすい。

自らの性あるいは様式美を高度に洗練させている女性ほど、何ごとかに詳しくなるような知性と遠い位置に落ち着く。
このツイートについている160以上の「お気に入りに登録」は、おのおのが自らの経験則を参照したうえで実感した「うむ、確かに」のオーケストラである。

俺がこの文章の中で使用している知性・倫理・ユーモアという言葉は、古典的な哲学の問題系「真善美」に対応させている。
その三項は密接に連関する。
いわば、女性が「自分はすべて自分が生かすべき」という倫理的要請を持たないことが起点になり、知性とユーモアが欠落するという事態は起こりうる。

あいにく非対称型のセクシズム(ないし異性に魅力を憶える仕組み)は、倫理と関係しない。

女性は、男が「私を守る力ある存在」であれば魅力を感じる。
小学生のころは足が早い男子が、中学生のころならバスケやサッカーがうまい男子が、たとえ頭が悪かろうが、あるいは学級内のイジメに加担していたとしても、女性は「力」が宿っている一点に魅力を憶える。

一部の女性「そんなことないよ!」

うるさい。
そんな男子に事実膨大なバレンタインチョコレートが集まっていたことを知っている。

よくインターネットの記事が書くとおり、「いい人」はモテない。
むしろちょっと悪いぐらい――自分本意な「押しの強さ」を持った男のほうが好かれる。
倫理は性において等閑視され、ただ「力」の強弱というファクターが優先される。

よく分からない。
倫理が無視されるとはどういうことだ。
倫理のほかに何が大事だと言うんだ。

ひとえに「性が倫理と関係しない」ことは、カテゴリーの問題、すなわち性と倫理はそもそも異なる位相に属することを意味している。

性とは、つまり遺伝子の指令だ。
生物としての個体は、来るべく死をまぬかれない。
自分がいかに生き、労働であれ創作であれ、さまざまな実りをこの世界に残してもいずれすべて無に帰す。
代わりに別個体の生産すなわち、生殖によって種を保存することで、"引き継ぎ"をはからなければいけない。
だから人はセックスがしたい。異性と付き合いたい。結婚したい。子どもをもって明るい家庭を築きたい。
そう望まなければ、人生は目的因を失い、すべての営みが空転する。
ということになっている。

くっだらない。

しかし、この考えに反発しようといくら言葉を費やしても、多くの場合、空虚でしかない。
性は言語ではないからだ。
つまり、俺がここで書いているように性の下劣さをいかに言葉を弄して暴き立てたところで、性欲は消滅しない。
性は(遺伝子を背後に)物質性を備えている。
俺も毎日シコる。

小中学校のころのつらい時期、男も女性も等しく俺を殺そうとする外敵だった。
しかし時期を経て、俺を水面に引き揚げ、最低限の呼吸を許してくれたのは同性、男たちだった。
彼らはユーモアセンスを持ち、知識を愛し、たとえ俺が不潔でも、俺の「話す内容」だけには耳を傾けてくれた。
そして俺に興味を持ってくれた。

いっぽう女性は、不潔な存在と交流しない。
女性が魅力的な男性の条件を挙げるとき、容姿や社会的ステータスを差し置いて、必ずといっていいほど「清潔感」が重視される。
むかしTwitterでこう書いた。

そもそも不潔であることが、何に支障をきたすのか考えたい。
悪臭を放つなどは、寿司屋での喫煙者が非難されてしかることと同様、公衆悪と言えるが、それ以外の問題であれば、つまり感染症を引き起こすおそれであり、その多くは粘膜と粘膜をこすり合わせる性行為の局面に存在する。

ならば、単純に不潔な異性とは性行為をしなければいい。
しかし女性は、不潔な男との"会話すら"拒絶する。

かつて不潔だったことは俺の自責に違いない。
しかし、女性に「不潔が問題にならない一般的なコミュニケーションすら拒まれる」のに不条理を感じることが、幼いころから、女性観の中枢に深い根を下ろしている。

性的なことが、性以外のコミュニケーション全面を支配する。
このことは、上のツイートに書いたとおり、女性が「男性を性の対象としか見ない『肉』である」という結論を導き出す。
一般的には、「異性を性の対象としか見ない」ことは、男の咎であるように考えられている。
しかし俺が経験的に実感したのは、その逆だった。
「不潔か清潔か」すなわち、粘膜がこすれ合う局面を全コミュニケーションの基準に据えるのは、女性が特権的に持つ発想だった。

その発想は、対象を拒絶するときに用いられる「生理的に無理」という表現に集約される。
「生理的」と口にされるとき、もはや倫理どうこうは検討されていない。
この倫理が等閑視される「生理的」言辞に対する強烈な違和感を、村田似さんはこのツイートで簡潔かつ的確に表現している。

「生理的」な感覚だけを根拠に、その状況すべてに判断を下すなら、当の女性は「生理反応を出力するだけの器官」にすぎない。
「器官」の世界に善悪などあるはずがない。
ならば村田似さんが言うように、「人ぐらい殺してもいい」世界が成り立つという理屈になる。
それがいかに狂ったことか、「生理的」な感覚を何より重んじる女性たちは、少しでも考えてみたことがあるのか。

俺はいまでこそ清潔という作法を習得し、女性がたいして警戒した様子もなく接してきてくれる。
しかし、その事実に「ヤッピー!!事態は改善された!!!!」と思うことはない。

むしろ、目の前の女性が「俺が清潔だから接してきてくれている人」なのだと判断できたとき、表裏一体のように「あのつらかった時期、俺を殺そうとしてきた女性たちと同類なんだ」と判断してしまう。

当たり前のことを言うが、かつて殺そうとしてきた人とは、一緒になれない。

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やはり、女性への軽蔑の念を書き出すと止まらない。
しかし、すでに「生涯結婚すべきでない」ことの土台となる理屈はおおよそ出揃った。

次で、最後の作業に移る。

(続く)