2)文物主義

上述のとおり、俺は中学生のとき精神の危機に瀕していた。

あのときの孤独感は、骨折したときの痛みに近い。
毎分毎秒、自我を崩落させるほどのつらさが希釈なく襲いかかってくる。
このつらい時間を埋めてくれる何かがないと"死ぬ"と感じたとき、細かいことは忘れたが、気が付くと図書館に通っていた。
何か情報を取り入れている間は、外部のことを忘れられる。
それも多少難しいぐらい、全神経を注がないと読み進められないような堅い文物ほど、その目的に適っている。
この時期、人生でもっとも本を読んだ。

パウル・クレーの『造形思考』、あるいは思索ナンセンス選集『杉浦茂のおもしろ世界』は、絵において理知的であることと自由であることは無矛盾に両立することを教えてくれた。

漫画の棚に向かうと、図書館に置かれている漫画作品の多くは手塚治虫なので、まずそれを読み漁った。
次に漫画史の本を読み漁ったことが、生まれて初めて何がしか「歴史」というものを意識しながら文化に触れる機会になっていった。

定期的に手に入る小遣いは手を付けず、すべて貯金箱に納め、1万円を超えるたび、順次まんだらけ中野本店に持っていってすべて漫画に変える生活を送った。
特に楳図かずおのエッセイ『恐怖への招待』に収録されている短編漫画『Rojin』に心が打ち震えた。
偉人の格言集からリンクし、背伸びしてゲーテニーチェなどを読んだ。
時間とは、死とは、成熟とは、といったあらゆる哲学的な疑問は、そんなことを考えていること自体どこか恥ずかしく、人にわざわざ話すものではない(どうせ嘲笑される)と思っていたが、俺など歯牙にもかけない深さで取り組んでいる人々がたくさんいることを知った。
ただ直に接する機会がない、あるいは生まれた時代が違うだけで、世界には素晴らしい人たちが"いる"。

カントは純粋理性批判の中で「月の住民」という比喩を書いている。
われわれ(地球上の)人間たちがのっとっている諸法則を、その土台ごと批判的に組み替える可能性を持った外部のことを擬人化した表現である。
思索する者が、通念まかりとおっているさまざまな規定性を批判するなら、究極的に、どこに共同性を見い出すかと問えば、所与を共有しえない遠い世界から見据える異星人――すなわち「月の住民」になる。

実際に異星人の存在を観測できるかどうか(利害のかかわりを持つ存在になるかどうか)が問題なのではない。
その外部の実在を信じていることが、理性そのもの(反省的判断)の駆動要因になる。

俺にとって文物の作者たちも、「月の住民」の縮小版として同じ機能を持っていた。
たとえ直に接する存在でないとしても、彼らが"いる"と思えることが、世界に絶望せず、自律に努める根拠たりうる。
俺は多くのものを軽蔑しているが、それを超える量の尊敬を持っている。

中学時代、友だちがいなかった。
しかし、図書館に通い詰めて以降、さびしさは薄まっていった。
手に取る文物は、ただ非人間的な形をしているだけで、これらが「友だち」なのだという感覚を持てたからだと思う。

たとえば絵を模写することは、作者がどう作品に取り組んだか追体験的に読み取る過程を持つ。
すると随所で「ここはすごい、真似できない」「ここは手を抜いたな」といった感慨を憶える。
その認識も、理解を深めるうち「あ、そうじゃなかったか」とたびたび修正を強いられる。
この理解過程は「会話」に近い。それもかなりダイナミックな。
本を読むにしても、日ごろから抱いている疑問を教師のもとに持ち寄るように読めば、会話に近いプロセスが成立する。

会話が成立するとなれば、自分にとっての友だちとは、一義的に文物である。
たまに実社会の人間と仲良くしうることがあっても、それは相手が文物として強度を持つほどユニークな人だったということに過ぎない。

以上の考えを持てば、必然的に「文物が第一であり、その次に実社会上の人間たちがいる」という序列ができあがる。
だから、たとえば会社の飲み会など交遊全般に対し、つねに「それは文物に勝てるのか」という視点で評価してしまう。
評価してみて文物に勝てなければ、政治的なしがらみがない限り、誘いを断る。
(つまりほとんどの場合、断る)

もし人間も一種の文物と見なした場合、その評価基準は何になるだろう。
友人相手に、コメンテーターや評論家のような情報発信を求めることは通常ないので、やはり「ユーモア」になると思う。

この考えが転じて、誰かと交友する(あるいは異性と交際する)にあたり、最優先かつ最低限これさえあればよいという条件は「ユーモア」になった。

そもそも自分自身、それほどおもしろい人間ではない。
(この自戒は、けつのあなカラーボーイの人たちと接するたび一層思う)

ユーモアセンスがある人としか仲良くできないとは、あまりに偉そうな言い方なので、慌てて修正したい。

つまり俺の背後には、自宅の本棚、図書館、TSUTAYA、全国の美術館や映画館が控えている。
この状況下で、人と一緒にいるときに「帰って本や映画を見たい…」と感じさせないパワーが交友の条件になるというのは、行動経済学を引っぱり出さなくても、瞬時に理解できる帰結だと思う。

申し訳ないが、それを求めている。
それは多くの場合、叶わない。

だから俺の携帯電話には、歯医者や床屋も含め、電話帳が30件しかない。

(続く)