俺は、ももいろクローバーZを愛している。
ももクロは、6thアルバム『イドラ』を、2024年5月にリリースした。イドラとは、idolの語源であり、近世イギリスの哲学者にして経験論の祖フランシス・ベーコンが、主著『ノヴム・オルガヌム』で提唱した哲学概念でもある。ベーコンが用いた原義としては幻像や幻惑を意味し、後代の人間たちがキリスト教的要素を加えた結果としては(よりidolに近い)偶像を意味している。
ももクロが2023年のクリスマスライブで、タイトルとともにこのアルバムの製作発表をしたとき、ももクロは15周年を迎えたいま、あらためて「アイドル」という自己言及テーマに向き合うのだという宣言を、ファン一同は感じ取った。
このアルバム『イドラ』の最後を飾る曲が『idola』であり、『idola』が、アルバムのコンセプトを総決算的に担っている。この曲に感動した思いを(リリース後3ヶ月経ったいまごろ、夏休みの閑暇を使い)書き留めておこうと思う。
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『idola』は、三部構成の叙事詩の形式を成している。一聴すればただちに分かるが、リズムや調子をがらりと変えて、実質3曲を1曲に溶接した作りになっている。
第一章は、アイドル以前の「印なきわたし」が、これから始まる物語の一人称の声として、細く歌声を響かせる。
第二章は、市場(社会)へ出立し、「熱き種族」(ファン)に声を届けるために舞台(ライブ会場)へと向かう。
第三章は、いよいよライブ会場で、「歌い」「踊り」「照らす」ことを成し遂げる。
これらの旅路を三部構成の叙事詩に仕立て上げるために、サウンドのジャンル的には、長大かつ変調に富むいわゆる”プログレ”が採用されている。
ヘビーロック/ヘビーメタルを出自とし、それらをオペラ調に再構築することに長けたNARASAKIと、ももクロのドラマトゥルギーを、そのときどきの曲の歌詞に有形化することを長年任されてきた只野菜摘が合流し、『idola』は作り上げられている。
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第一章の冒頭、「幼子が名前を呼んだ。印なきわたしへ」と歌う。
たとえばホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』のような叙事詩が、詩神(ムーサ)たちの語りから成るように、その役目を務めるももクロの4人が遠い神話の日々を振り返るように歌い始める。
「幼子」とは、「わたし」たるももクロの名前を呼ぶ者たちであるから、当然にファンのこと指すだろう。「幼子」というモチーフは、ベーコンがイドラを提唱した著作『ノヴム・オルガヌム』にある。
『ノヴム・オルガヌム』その題名は、ラテン語で「新しい道具」や「新しい論理学」を意味する。ひいては、「新しい科学」の原理を説き、その世界への水先案内を務めようとする書物である。ベーコンは、マタイの福音書の一節「幼子としてでなければ入ることの許されない天国」を引用し、『ノヴム・オルガヌム』によって新しい科学原理の世界へと導かれる者たちを、「幼子」と表現した。
これ以降、『idola』の中には、当然のようにベーコンのボキャブラリーがふんだんに駆使されるようになる。ならば、ベーコンの説明も一幅必要だろう。
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ベーコンは、批判した。
「神」(第一実体)を始原にし、そこからの延長上として演繹的に科学を営むスコラ哲学を――その理論的素地となったアリストテレスの形而上学を、痛烈に批判した。
ベーコンは帰納法を提唱した。しかるべき実験や試行錯誤で得られた結果――すなわち「経験」の束から、一般法則を抽出する方法を。ベーコンは、神(真理)を得る方法を、理性ではなく、事物(その観察)のほうへ移譲しようとした。
帰納法に根ざす実験科学は、物理学、天文学、医学をはじめとする近世から近代へと移る新しい科学の基礎づけになっていった。コペルニクスとニュートンのちょうど中間の時代に生まれたベーコンは、経験主義を提唱し、近代自然科学の発展を可能ならしめた(もっとも帰納法の提唱が刷新的だっただけであり、ベーコン本人の科学リテラシーは当時から見ても遅れている部分が多かったが)。
アリストテレス(あるいはベーコンの次世代で合理主義を整理したデカルト)からすれば、人間の感覚に由来する「経験」こそ、不正確で、主観的で、蒙昧な知見に違いない。それを回避するために、形而上学(言語=理性の学)を駆使するのだ。しかし、ベーコンは、先だってこう答える。
経験こそ、他のものよりもずっとすぐれた論証である。ただし、それがどこまでも実験であるかぎりである。というのは、経験は、それに似ていると考えられる他の事例にまでもあてはめられるとき、それが正しく順序を追うて行なわれないなら、欺くからである。
(服部英次郎 訳『ノヴム・オルガヌム』)
ベーコンが言う「経験」とは、あらかじめ条件付けられた環境を敷いたうえで行う実験の結果、すなわち科学における観測結果を指す。あるいは、たとえば農夫が水や肥料のやり方を変えて行う試行錯誤も、「経験=実験」と言いうるだろう。実践の結果を、その後の汎用的な法則にフィードバックする営み全般を指して「経験」と言う。対して、経験のもう一つの種類は「偶然」であり、「偶然」の経験は、知識形成には無力であるとベーコンは断罪した。
ベーコンは言う。人間は、神の代理人として「自然の管理者」になるために科学を営む。潮流や方角を知って、未踏の地へと航海する。熱や電気を知って、その動力を得る。事物の材質を知って、建築を成す。科学とはこういう「福利」を得るための知的営為であると。そのための科学的「経験」から、蒙昧な「偶然」を排除するためのチェックリストに、ベーコンは4つのイドラ(幻像・幻影)を掲げた。
イドラというこの言葉は、プラトンの『国家』にある”洞窟の比喩”に大きく影響を受けている(というか、その部分調整的な概念である)。人間は洞窟の中にいる。背後に事物が存在するのに、人間は生まれてからずっと体の向きを変えることができず、洞窟の壁に投影された事物の影だけを見ている。人間は、その影を(それしか見たことがないから)事物そのものだと認識している。この比喩で述べられた古代ギリシャ語のEidolon(影、幻影)が、複数形になり、かつラテン語訳されたものが、idolaである。idolaは、事物を本来そのものとして感受できない、その原因を指す言葉に使われた。今風に言えばバイアスである。
ベーコンは、以下4つのイドラを挙げる。
人間が持つ感覚器官の特性に由来するバイアス。
個人の持つ知識や経験の偏りに由来するバイアス。
社会に出たとき、人類相互の接触や交際に由来するバイアス。
ベーコンはこれを(人間が運用する)言語の問題へと、イコールで接続する。ベーコンは言葉を、人の間を流通する貨幣のように見た。だから、市場という言葉を用いた。
諸学問は互いに異なる体系性を持ち、それぞれのシーンを形成している。
分立したシーン(アカデミー)はある種数多の劇場であり、そこで上演されている芝居=世界の数々である。いわば「その時代の各学問ジャンル」が持つ誤謬や偏りがあり、にもかかわらず、アカデミーの権威性に由来して盲信されるバイアス。
これらは個体と共同体という2本の軸から、以下のようにまとめることができるだろう。
大項目 | → | 細項目 | |
人間 | 種族のイドラ (人間一般) |
→ | 洞窟のイドラ (個人) |
共同体 | 市場のイドラ (社会) |
→ | 劇場のイドラ (学問) |
ベーコンは、イドラを徹底的に排除すべきネガティブなものとして説明した。
イドラの一つ一つの種類とその装備については、すでにうえに述べたとおりであって、それらはすべて確固不動の厳粛な決意をもって拒否され放棄され、知性はそれらのものからまったく解放され浄化されなければならない。
(同書)
しかし、ベーコンは、どうすればイドラを排除できるのかは著作のなかで一度たりとも提示しなかった。これがベーコンのイドラ論の欠陥である。人間はイドラを完全に排除できない、という明白な事実に触れることをベーコンは嫌がった(『ノヴム・オルガヌム』は純粋な学術論文ではなく、政治家・官僚としての自身のキャリアを後方支援するパッチファイルのようなものとして書かれたため、理論の不完全さを自ら強調するようなことをしなかった)。この問題との格闘は、1世紀半後にカントが引き受けた(よく知られるとおり、カントは『純粋理性批判』第二版の始まりにベーコン『大革新』の序文を抜粋引用している)。
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いい加減、ももクロの『idola』の話に戻る。
結論から言えば、ももクロの歌う『idola』では、ベーコン用語であるイドラを用いながら「アイドル」の外郭を描き出そうとするが、そういう語源学的なトリビア趣味にこの曲の真価はない。むしろ、ベーコンよりもカント的な態度であることに、『idola』のユニークさがある。
ベーコンは、『ノヴム・オルガヌム』(新しい論理学、新しい道具)を使い、アリストテレスの形而上学が主対象とした「形相 forma,eidos」の捉え直しをはかろうとした。
『idola』も第一章で、「土にまみれた塵だらけのカタチだけど」と歌う。「印なきわたし」たちは、まだ確たる「カタチ」を持たない不完全体である。だから、(特にキャリア初期の)ももクロを見る人たちに「怯えないでねってごめんねって」と、まだ評価を留保するよう求めながら、彼女らは「光射す螺旋」へと向かい始める。
この「螺旋」は当然、『灰とダイヤモンド』が提示したももクロの成長のあり方――「成長していくときの軌道、螺旋のよう」を示すだろう。彼女らは同じことを一定周期(たとえば春夏冬の年次ライブ)で繰り返しているようで、そのたびごと成長し、階位は上がっていく。
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こうして第一章が終わり、けたたましいドラムとギターが響き始め、第二章が始まる。
原・ももクロが「螺旋」状の成長過程へ送り出されたあと、業風とともに砂に撒かれるここからの第二章は、アイドル活動の始まりを意味する。イドラの幕開けである。
「宙に 洞窟導かれ」と、一つ目のイドラ(洞窟)が歌われる。人間は洞窟の中で、限られた視座しか与えられない。つまり、たまたま授けられた感覚器官のスペックのために、本来ある事物の不完全な「影」しか認識できずにいる。その「洞窟」から抜け出して、影のモノクロを脱却したとき、ももクロは「色のあふれる市場へ」と感覚野を開かせる(市場のイドラ)。むろん、色はももクロの4色であり、そしてその色を纏い、ペンライトで輝かせるファンたちがいる世界のことも指すだろう。
第二章は途中、オスカー・ワイルドの『しあわせの王子』の挿話が差し込まれつつ、ももクロは「熱き種族」(種族のイドラ)と「劇場」(劇場のイドラ)で出会うことになる。このブロックは、続けて「舞台 伝い」と言い、「遠征」という単語を最後に添えるとおり、ファンと空間をともにするライブ会場があり、それが土地を変えて転々と繰り返される全国ツアーを容易に想起させる(勘ぐりを差し込めば、駆け出しのころのヤマダ電機ツアーあたりだろうか)。そうした移動の契機を示しながら、ももクロは「いつでもあなたを照らす」と宣誓し、第二章が終わる。
イドラは幻像であり幻影であるから、アイドルも、おのずと不完全なイメージになるだろう。偶像と呼ばれ、嘲られるだろう。しかし、人間は不完全な認識、すなわちイドラの束を材料に、「幻惑から経験」へと、「偏見から法則」へと、高次的な認識へと移行していく。そのように不完全な認識(感覚与件)が与えられなければ、人間は人間になることができない。『idola』の歌詞は、その段階構造を強調する。
ももクロがイドラという言葉を用いるとき、あくまでも語源的な後代にあたる「アイドル」の定義に触れることに主旨を持つ。自分たちが歩んできたアイドルとファンたちの営みを肯定的に歌おうとするのだから、必然的にイドラとは(ベーコンが言ったような)廃絶すべき対象ではなく、人間はそれを介さないと世界を認識できない感覚与件としてポジティブに捉えられる。捉え直される。
これはむしろベーコンよりも、カント的な視座である。カントは、人間理性の先験的能力を認めるとともに、認識には、感覚・経験からしか材料を与えられないと考えた。感覚と理性の突合から、人間はいかなる認識が可能かを彫琢する機能――すなわち批判critiqueを、哲学に実装した。
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第二章の終わり「いつでもあなたを照らす」という一節は、第三章(そのテーマ)へのブリッジを務めている。
第三章から、ベーコンの哲学的語彙は一切現れなくなる。一般的なボキャブラリーのみになる。いわば、”素朴なももクロの楽曲”が、旅路の末にここに成立する。
実際、第三章に入る前の間奏は、240bpmの駆け抜けるリズムで「うりゃ・おい」のコールをあきらかに誘っているし、「ただ 尊い 愛しい 楽しい 嬉しいよ」のあとの「ヘイ!」という掛け声も、ファンたちの同調を期待しているようにしか見えない。第三章は、底抜けに盛り上がってほしいという作り手の願いを感じる。
ももクロは、ライブというトポスを通じて、
おこりたいときはおこって
泣きたいときは泣いていい
忘れたい笑いたいときには ここに来て
と、全感情を引き受ける。
その末に、ファンたちは「好きなものに触れて魂は光るだろう」と歌う。そして最後のブロックで、イドラとは、すなわち「アイドル」とはいかなる営みなのかの定義が詠唱され、この曲は締めくくられる。
まず、『idola』の
歌う(笑顔で) 踊る(世界を) 照らす
という一節を聴いたとき、ももクロのファンが10人いれば10人とも気づくとおり、『行くぜっ!怪盗少女』 のモチーフ「笑顔と歌声で 世界を照らし出せ」が、いま『idola』の中にリファインされている。
かつて2010年にヒャダインがももクロメジャーデビュー曲のコンペ用に、ももクロの活動テーマをそのまま大して加工せず曲の中に組み込んだこの一節が、いまも、ももクロの活動のコアをもっとも直截的に示すマニフェストになっている。
だとすれば、「好きなものに触れて魂は光るだろう」という歌詞も、『怪盗少女』の「無限に広がる 星空よりも キラキラ輝く みんなの瞳」の言い換えであると、容易に理解できる。ファンは、ももクロを目にし耳にし、その瞳は輝かせる。その比喩として、自らの目に映る愛する「推し」の色を、ペンライトに委任し、光らせる。そういうもともと『怪盗少女』が打ち出し、そして現実に15年間繰り返されてきた営みを、『idola』はいま叙事詩の体裁で歌い直している。
では、『idola』は、ももクロ15周年をもって焼き直された『怪盗少女』の別様態だろうか、と問えば、むろん答えは否である。『怪盗少女』に回収されない『idola』の特異点、大事なテーマがある。それが最後の一節、「大きく名前を呼んで」である。
歌え(どこかで) 踊れ(聴こえた) 言葉
大きく名前を呼んで
ももクロが歌い踊っているさなか、イヤモニを突き抜けて、「どこかで聴こえた」「言葉」があると言う。
それは、幼子(ファン)たちが呼んだ彼女らの「名前」である。ももクロが「歌い踊る」その代わりに、ファンたちに「名前を呼ぶ」よう求めるこの応酬性が、ももクロにとっての、イドラ(そしてアイドル)と呼ばれる営みである。第一章の冒頭でも「幼子が名前を呼んだ。印なきわたしへ」と歌っていたとおり、『idola』は三つの楽章を経て最初に回帰する(やはりここでも)「螺旋」状の曲である。
ももクロが歌い踊り、ファンたちが「かなこ」「しおり」「あーりん」「れにちゃん」という名前を呼ぶ。「コール」をする。この営みがイドラであり、アイドルであると言っている。
リーダー(百田夏菜子さん)も、「名前を呼ばれる」ことがアイドルの存立条件であり、意義であること、その執拗な反復を求めることがアイドルと呼ばれる営みなのだということを、楽曲解説インタビューで語っている。
百田:過去イチで難しい曲でしたね。このアルバムのタイトル曲なだけあって、想像しきれないほど壮大な世界観で、使われてる言葉もすごく難しいんです。だけど、この曲じゃないと締めくくれないと思うくらい、アルバムにおける存在感も感じました。この曲でアルバムを締めるというのも新たな挑戦だなと思いましたね。好きなパートは最後の〈大きく名前を呼んで〉というところです。アイドル活動をしてきたなかで、たくさんの方に名前を呼んでいただくんですけど、それって本当に幸せなことだなって感じるんです。日常では名前を呼ばれる場面がそう多くはないから非現実的でもあるし、あんなに名前を呼んでもらえるのはアイドルの特権だなって思ったりもします。これからもたくさん名前を呼んでもらえたらうれしいなとあらためて感じました。「idola」というタイトル通り、アイドルらしさが最後の最後にフレーズで込められていると思います。
ももいろクローバーZ、16年目の4人が向き合う“アイドル”とは? アルバム『イドラ』と現在地を語る - Real Sound|リアルサウンド
この「名前」をめぐる問題を思考したとき、ファンなら誰しも想起する曲は、アルバム『AMARANTHUS』収録の『勝手に君に』の、この一節だろう。
世界一短い呪文は名前だ(君の)
世界一せつない祈りは名前だ(君の)
クリプキが『名指しと必然性』で言うとおり、固有名詞(たとえば、それは百田夏菜子、玉井詩織、佐々木彩夏、高城れにといったような、特定の”あの人”を指す名前)は、「A(存在)は、B(条件)を満たす場合に、Aである」といった条件定義を持たない。
いわば、固有名詞は、それをAと名指す”意図”だけがあり、”意味”のないナンセンスな言葉である。だから、「君の名前」とは、対象の実在性をナンセンスに支える短い「呪文」であり、同時に対象の実在を願う「祈り」なのである(『AMARANTHUS/白金の夜明け』がリリースされたときから確信しているが、リリシズムに限って言えば、『勝手に君に』がもっとも卓越している)。
『idola』は、この「名前を呼ぶ」ことを、アイドルの存在意義の階位まで高める。かつて『ニッポン笑顔百景』で林家木久扇に「ファンがいなきゃただのねえちゃん」と言わせて自嘲したように。
この問題を連想的に次々語ることが許されるなら、「名前」へのこだわりを、ももクロの中で初めにはっきりと言明したのは、2015年のこのれにちゃんだろう。
――なるほど。もうひとつ、お聞きしたかったのは、先日放送された『極上空間』(BS朝日)の中で、ももクロの未来の話になったときに、高城さんが「歳をとっても、日本のどこかで『居酒屋ももクロ』を開いて、そこで踊っていたい」みたいなことを話していて、ものすごいこだわりだな、と。
れに 私は名前がいちばん大事だと思ってるから。(…)その名前がなくなるのは嫌だなって。
(…)その名前でいろんな人が思い出を作ってくれたり、思い入れを持ってくれたりしたわけだから、それだけは忘れてほしくないなって。
(…)どんな形であっても名前を守ることだったら、おばあちゃんになってもできるでしょ?歴史とおなじだよ。歴史って、もう過ぎちゃったことだけど、関わった人の名前だったり、建物だったり、残っているものを大事にするでしょ?
(Quick Japan Vol.123)
繰り返すと、固有名詞には意味がない。固有名詞とは「AはAである」という同語反復だからだ。
もし逆に、たとえば「歌が上手い」ことがAの条件だとすれば、それは固有名詞ではなく、歌が上手い何者かの一般名詞である。いっぽう、固有名詞Aは、たとえ声帯を失ったとしてもAであり続ける。
ないし、この世に現れたときAと命名され、いまに至るまでAとして連続してきた現個体がAである。だから固有名詞は"連続を保証される"ことを必要とする。それはA自身には行えない。固有名詞は他者を要請する。私を見て「あなたはAである」と、その"連続を保証する"他者を必要とする。それが「名指し」という行為である。
ファンは、おおむね物質的・経済的にアイドルを支援する。
しかし、それ以前に、よりミニマムに、アイドルとファンの紐帯を担保するものは、アイドルを固有名詞として捉え、その連続を保証する「名前を呼ぶ」行為にあると信じる(そう考えないと、たとえば貧しい者はももクロを愛せないことになるからだ)。
リーダーもれにちゃんも(あるいは他メンバーも)同じように考えるからこそ、名前を残すこと、名前を呼ばれること、そしてそのための空間(ライブ)を持ち続けることを、自分たちの活動のコアに据えているのだろう。
昨年2023年5月に代々木体育館で行われた15周年ライブでの、コロナ禍の小康による声出し解禁を想起する。ももクロはファンたちにさらなる16年目以降の持続を誓いながら、ファンたちに名前を呼ばれることの悦びを享受した場所である。
『idola』は、あのライブが達した風景を、楽曲ないしある種の石碑として書き残し、「名前を呼ばれる」ことのテーゼを明文化した叙事詩に思える。
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『idola』は、この感想を書き留めている2024年8月時点、まだライブで披露されたことがない。
理由は、単純にアルバムリリース以後、ももクロ単独ライブが(レクリエーション性を主としたファンクラブ会員限定イベントを除いて)開催されていないこと。また、あまりの長尺(8分11秒)と楽曲の複雑さから、ポータビリティに欠け、ももクロがいちゲストとして出演するフェス等の類では披露がためらわれることもあるだろう。
つまり、いまだ披露の予定が分からない。おそらくこのままなら、冬のクリスマスライブになるだろうか。
ただ、だからこそ、そのときを楽しみにしている。
彼女らが歌う『idola』を前に、ももクロの「名前」を呼ぶときを。