ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』感想

■糞の話

20世紀最大の心理学者ジャン・ピアジェは、人間の知能発達を、<同化⇔調節>のプロセスとして定式化した。

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市川功『ピアジェ思想入門 ―発生知の開拓―』P48
人間が各々持つ認知の枠組みを「シェマ」と呼ぶ。
人間は、生きながら新たな知見を得ると、このシェマに投げ入れる。
これを「同化」と呼ぶ。
 
このときシェマによって新たな知見が正しく位置づけられれば、"知識"として登録され、精神の発達が進められていく。しかし往々にして、新たな知見というものは、既存のシェマでは処理しきれないディテールや構造を持つ。
シェマと知見との不整合により、混乱が生じる。
これが「撹乱」である。
 
このとき人間は、知見をシェマに寄せる形で解釈(情報整理)し、同時にシェマの適用範囲に拡張をはかる。
外部と内部それぞれに歩み寄り的な変形を施し、新たな知見を自らの体系の中に組み入れていく。
この着地点を「調節」と呼ぶ。
 
<同化→(撹乱)→調節>の道のりを経て、螺旋状に一周の運動をしたシェマは、かつてよりも大きな輪環を持つに至る。
 
この<同化⇔調節>の繰り返しにより、人間の知能は発達(上昇・拡張)をしていく。幼児は児童へ、児童は大人へ成長し、大人は理性的主体として果てなき高みを目指していく。
 
もっとも、いまの時代から見ればいささかクリシェである。
思想哲学における弁証法であり、ビジネスで言えばPDCAサイクルを回そうという程度の話が書かれている。
 
ピアジェはよく知られるように、早熟な小学生のころ軟体動物の論文を書いたことに知的出発点を持つ。彼にとっての心理学は、生物学のフレームを人間精神へと応用・移入する手続きだった。
すると、ピアジェの<同化⇔調節>シェマ論は、本人の意図どおり精神の話として読むよりも、その潜在意識下にある器官論として――たとえば"食事"の話として読み換えたほうがはるかに分かりやすい。
 
人間が食べ物という外部を取り込む。内臓たちの高度な濾過・吸収のベルトコンベアの末に、かつて自分とは似ても似つかぬ草や肉片だったものたちが、自己の一部へ変換されていく。
ここまでが「調節」である。
しかし、ついぞ内臓たちでも調停できない剰余がある。
外部が外部であり続け、変換を拒み続ける残余を「糞」として排出する。
糞とは日々繰り返される内部組織の敗北であり、恥辱である。
糞の再摂取を試みたとしても、引き続き同化を拒まれ、乏しい栄養価に見合わないほど臓腑にダメージを与えるだけとなる(だから糞は食べないほうがよい)
その糞の発する匂いを、人間は敗北感から「臭い匂い」として認識するに至った。
悪臭を放つから嫌いなのではない。嫌いだから悪臭と感じるようになったのだ。
(逆に、糞を剰余でなく、まだまだ滋養として取り込みうる蝿たちにとって糞は甘美な香りを放つ山嶺と感じられるように)
 
人間は、食べ物という外部を口に放り込み、自己に歓待する。一度は自己認定をする。
(ペニスを口腔に歓迎するファラチオが、性快感の程度はそれほどでもなく、実質的には性承認の儀礼であるように)
 
そして人間は排泄物を嫌う。
糞、尿、汗、唾、鼻水、垢。
かつて自己だったが、自己に取り込み損ねた、外部であり続けようと孤高に身体から飛び出していったもの。あるいはそのための潤滑油。それらを排泄物と呼ぶ。
人は排泄物ないし、「かつて自分だったもの=自分になってくれなかったもの」こそを汚らしく思う。たとえば、極端な白痴者よりも、そう遠くない過去の自分がくぐってきた知的レベルにいまだ属する人間にこそ、同族嫌悪を伴い強烈な軽蔑感情が喚起されるように。
人間にとって、自己こそが嫌悪の源泉であり続ける。
 
フロイトは『文化への不満』の中で、排泄物と知能発達の問題を語っている。
 清潔さを求める文化的な営みにおいても、衛生的な配慮というのはあとから考えだされた根拠づけにすぎない。こうした配慮は、衛生という観念が生まれる前から存在していたものであり、社会的な要素を含んでいるのは間違いのないところである。清潔さが追求されるようになるのは、排泄物が不快なものとして知覚されるようになり、それを除去しようという強い衝動が発生してからのことである。幼年時代にはこのようなことがなかったのは、誰もが知っていることである。子どもは排泄物をみても嫌悪を感じることはなく、排出された自分の身体の一部とみなして大切にするのである
 
フロイト『幻想の未来/文化への不満』光文社古典新訳文庫 P199 
赤子にとって世界と自己に境界はなく、混沌とした全一的幸福を生きているが、<自己と自己以外>の弁別があることを、<排泄>というモーメントを通じて親に学習させられる。
人間が直立歩行するようになり、それまで大地に鼻をこすりつけて感得していた嗅覚刺激が否定されたのと同じように、児童の原初的な肛門愛は、文化への参入にあたって親から「器官的な抑圧」を受ける、とフロイトは言う。
 
内部と外部が、調節の末に高次的内部へと一元化されていく、とピアジェ的に想定するとき、人間精神の成長に際限はないという楽観性がその根底を流れている。
キルケゴールが『死に至る病』でヘーゲル的絶対精神に異を唱え、むしろ理性の実現"し損ない"こそがモダンな問いになりうると思考したように、人間という有限的存在=身体は、理論値がえがきだす道程から逸脱することがあらかじめプリセットされている。
(計画は、計画を立てたがために、必ず失敗する)
 
であるなら、人間理性の問題を巡っては、はつらつとした知性や運動といった成果物よりも、随伴する負の側面、「糞」から考えるほうが核心的ではないか。
「糞」にこそ、事物が持つ革命の可能性が胚胎されていると考えるべきではないか。
 
以上は、俺が『パラサイト 半地下の家族』を見ながら、ポン・ジュノにそう説得されたように感じた内容だった。
 
●映画の話
『パラサイト』のあらすじを雑に撫でる。
 
両親と一男一女の貧しい4人家族がいる。地上の人々が立ち小便をするとき、窓からちょうど尿の軌跡がよく視認できる半地下の家に住んでいる。そこはつねに、うっすら湿気と下水の臭気(その2つは同根である)が立ち込めている。
彼らは、下層の出自やたがいの血縁を隠しながら、裕福な社長邸宅へ家事/家政のアウトソーサー(家庭教師×2、運転手×1、家政婦×1)として潜り込み、その家を寄生虫のように巣食っていく。
 
ポン・ジュノがさまざまなインタビューで認めているとおり、『パラサイト』の底には、韓国映画史の怪物ことキム・ギヨン『下女』が敷かれているだろう。
 
1997年の釜山映画祭でキム・ギヨン回顧展が行われ、民主化運動以前の歴史に埋もれていたキム・ギヨンが自国内で再発見されたとき、リベラル文化世代のパク・チャヌクポン・ジュノの二人がトラウマ的な洗礼を受け、映画監督として決定的影響を刻み込まれたことはよく知られている。
(そしてその二人がいま、アカデミー賞にハッキングをかける韓国の映画監督になっている)
さまざまな場でキム・ギヨンを振り返るドキュメントが作られるたび、フリークの一人として熱のこもったコメントを寄せてきたポン・ジュノである。
『パラサイト』は、ポン・ジュノがキム・ギヨンとの出会いから20年以上を経て、生前『下女』を何度なくセルフリメイクしてきた巨匠の(そして火災での急逝によって途絶えられた)問題意識を継承して21世紀のいま撮られた作品と見ることができる(というか『下女』を記憶に持つ限り、そのようにしか見ることができない)。
事実、ポン・ジュノは「監督(キム・ギヨン)が生きていらしたら、『パラサイト』をお見せしたかった」と語っている。積み木に没頭した児童が、その成果を親に見せたがるような情欲を感得する。
 
『下女』と『パラサイト』の大きな共通点は、以下が挙げられるだろう。
 
  • 裕福な家庭に家政婦(ないし本来その家の者たちが行うべきことのアウトソーサー)が入り込み、家庭内の権力秩序を撹乱すること
  • 邸宅の階層ごとに、経済的な上部構造/下部構造の機能分化がされ、その間をつなぐ階段が象徴的に使われること
 
『下女』から眺める。
この映画が撮られた1960年当時の韓国は、街を鳥瞰すればのっぺりと映る平屋住宅の文化だった。
しかし韓国が資本主義国に参加し、フォーディズムが流れ込んでいた時代でもあり、このころ「階段つきの二階建て」に住むことには、韓国近代化のフロンティアに立つ者としての社会的地位を同時に顕示した。
『下女』では、そのような邸宅に住む音楽教師の男とその妻、幼い一男一女の4人家族が幸せに生きている。そこに(ある種『シェーン』のように半ば得体の知れない他者である)下女(家政婦の蔑称)が転がり込んでくる。
 
『下女』の作中で1階は、台所と妻・子どもの部屋といった戦前から続く「家庭」機能を持つ場があつらわれ、ここで縫製器具を使った内職、炊事洗濯などが行われる。
いっぽう2階にはグランドピアノが置かれ、芸術をつかさどる男(父)のための「象牙の塔」が築かれている。
 
『下女』の中で、階段を上がることは階級的な上昇を意味し、いっぽう階段から落ちることは階級闘争からの脱落(=死)を意味している。
だから、主人の婚外子を孕んだ下女が流産するとき、あるいは主人の長男が殺されるとき、そして下女自身が死ぬとき、すべてにおいて「階段から落ちる」ことで死が果たされている。
 
こう語るとおり『下女』はマルクス的な階級闘争の映画であり、そして同時にフロイトの局所論の映画でもある。
下女は家事を委託されるために、上部構造と下部構造を(他のどの家族よりも自由に)行き来しうるマージナルマンとなり、権力秩序の撹乱者の座を得る。
1階・2階を自由に行き来する下女は、無意識(性的欲望)を意識下へと顕現させるリビドーにあたる。よって、ギヨンはそのリビドーの象徴的操作として、下女が階段を駆け上がるたび、ハマーフィルムのような仰々しい落雷のカットを挟み込む。
 
四方田犬彦は、キム・ギヨン作品分析の中で、この作家を「自然主義者」の系譜に位置づけた。
映画史のなかには、けっして数こそ多くないが、一連の自然主義者たちが存在している。
エリック・フォン・シュトロハイムルイス・ブニュエルジョセフ・ロージー、それにマルコ・フェレーリといった監督たちである。日本では初期の勅使河原宏を加えてもいいかもしれない。
ジル・ドゥルーズによれば、こうした監督の特徴とは、隔離された場所に小世界を創造し、そのなかで悪夢幻に苛まれていく人間関係をリアリストとして観察することにある。強い閉鎖性を帯びた空間のなかで、善と悪、富める者と貧しい者、主人と奴隷の対決が、いかなる監督よりも残酷で暴力的なかたちで描かれる。
『ケリー女王』の沼地、『皆殺しの天使』や『召使』のお屋敷、『最後の晩餐』の田舎の邸宅を、思い出していただきたい。本来の世界は終末にむかって傾斜を見せ、それに逆らうことはできない。あらゆる救済の可能性は絶たれており、人間は堕落していくばかりだ。こうした自然主義者の映像にあってもっとも重要なのは「衝撃の映像」であると、ドゥルーズはいう。衝撃の対象としてのフェティシズムと倒錯。人間はもやは人間としてではなく、あらゆる希望を絶たれた昆虫のように描かれることになる。
 
ユリイカ 2001年1月号「<韓国映画>の新時代」所収
『下女』と『パラサイト』のどちらも、ある閉鎖的な邸宅の中に、富める愚者と、貧しくも狡猾な者たちを放り込んだら、どのような虫の巣が形成され、どのような捕食関係が繰り広げられるかを観察する映画になっている。
 
『パラサイト』のメイン舞台となる邸宅が、蟻の飼育箱のごとく四方ガラス張りであることも(ポン・ジュノ曰く、考証役の建築家にこんな作りの家は人間工学的にありえないと言われたらしい)、そこが"大いなる他者"に観察される場であることを想定しているからだろう。
『下女』でも親切に、裕福な家庭に生きる子どもたちが冒頭、ケージ内のローラーで走るハムスターを嘲るシーンが挟み込まれている。のちのち惨状にさらされる自分たちの滑稽さを先験的に示す形態反復である。
 
※少し話が反れるが、こうした「自然主義者が得意とする形態反復の描写」は上に挙がった勅使河原宏の『砂の女』こそ分かりやすい。砂の女』は、ある砂漠を擁したムラにおいて、一つの大きな穴の中に村人たちが一対の男女を閉じ込め、その様を観察する。穴の中の主人公は、ある日、湿気を集める仕掛けをこらした小さな穴を作り、毎日たまる水を見て一喜一憂するようになる。すなわち気が触れる。物語に通底する「なぜ村人たちが穴に男女を閉じ込め、日毎の変化を観察して無邪気に喜ぶのか」という謎が、小さな穴の中の湿度に喜ぶ主人公によって、間接的に解説される。つまり、この世界は果てなき形式反復であり、その起源も終点も、実行者たる人間自身には計り知ることができない。
 
『パラサイト』の邸宅も、『下女』のフォーマットを踏襲している。
下部構造である一階にはリビング(社交)とキッチン(食事)があり、さらに地下一階には"社交と食事"それ自体を可能たらしめる食糧庫がある(なんと論理階層の形式を、舞台装置にも反復するよう徹底していることか)。
そして、上部構造である二階には、家人それぞれのプライベート空間があり、そこで長女と長男の情操教育(英語=言葉、美術=イメージ)が行われる。
 
『下女』で一瞥したとおり、下部構造を握るとは、その家庭内の抑圧された欲望を掌握することを意味する。ひいては、1階(下部構造)から2階(上部構造)への移行は、性快感の昇華を意味する。
だから、長男(チェ・ウシク)は、家庭教師としての面接を受けるとき、まず思春期の少女が待つ2階に上がる。そして少女の手首を(脈拍からあなたの感情を読み取るためだとうそぶきながら)唐突に握り、性的関心を射止めるところを、その後の詐欺の出発点とした。
 
続いて美術の家庭教師として潜入する長女(パク・ソダム)についても、発達障害児であろう男児の部屋に上がると、「必要なこと」だと言い母を締め出し、二人きりの密室空間を作る。
日が落ちて1階に降りてくると、かつてアンコントローラブルだった男児は、いまやパク・ソダムに飼いならされた従僕と化して現れる。
児童がかかわるレーティング的配慮のためか、あえて説明が省かれているが、ここにも容易に性的な支配関係が想像させられる。
 
やがて、運転手として父(ソン・ガンホ)を、家政婦として母(チャン・ヘジン)を潜り込ませることに成功し、家の乗っ取りが果たされたとき、『下女』のそれを反復するように祝砲の雷鳴(リビドー)が挟み込まれていた。
 
むろん、キム・ギヨンからの借金を返さんとしているポン・ジュノである。
『下女』が表現した階層性は、『パラサイト』でさらに精緻化がはかられている。
 
貧しい家族たちが住む家は半地下にあり、いっぽう富めるものたちの邸宅は坂道の先にある丘に建てられていることが、第一の階層性である。
物語の後半、未曾有の台風が襲ったとき、高い位置に住む富める夫婦にとってそれは性興奮を招く自然の演出でしかない(テーブルに潜む貧しいものたちにセックスの喘ぎ声を響かせる)。
貧しいものたちはそこからひそかに抜け出したが(このとき丘の上の高級住宅地から貧民街へ下りるときの階層移動は、誰もが認める作中もっとも美しいシークエンスだと思う)、彼らにとって台風とは、溢れかえった下水(希釈された糞尿)が半地下の自宅内に流れ込んでくる一種のカタストロフである。
下水が溢れれば、玉突きのように、低層の地域から押し出された貧しい人々が避難先の体育館に溢れかえることになる(こうした形態反復をひたすら守ることこそ、キム・ギヨンからの教えに違いない)。
自然災害は、インフラの異なる地域・住民に不均衡なダメージを与え、ふだん透明に映っている上部構造・下部構造のギャップを人々に可視化させる。
 
ただし、こうした経済格差の話すら『パラサイト』の中では、まだ生ぬるい。
※一言触れておくと、この映画を現代格差社会の批評のように受け取る人が相当数いるけど、ポン・ジュノが「映画史においても、これまで貧富の格差は頻繁に取り上げられてきたテーマです」と諌めるとおり、格差問題については、ジャンル映画作家であるポン・ジュノが伝統的題材を選んだという以上の意味は見い出し難いと思う。
 
地下1階の食糧庫のさらに下には、かつてこの邸宅を作った建築家がひそかにこしらえた、陰鬱とした地下2階が存在している。
この階層の存在を知っているのは、先代から現住の家族たちへとパスされた家政婦だけである(彼女はパラサイトである4人の画策によって追い出された)。
 
1階~地下1階が有する"社交・食事"という下部構造を、実権的に保守・監督するのは家政婦である。すると地下2階は、家政婦それ自体を可能にする三層目の下部構造をになうことになる。
 
家政婦には、借金苦を負う夫がいる。
暴力的な取り立てから匿うため、邸宅の主たちには秘密裡に夫を地下2階に住まわせ、わざと多めに作った自分用の食事を日々横流しして(拾った小動物をひっそり飼うように)生かしてきた。
 
邸宅の主たちから見れば、家政婦は自身の欲望を持たず、粛々と家政に従事するプレーンな範型modelとして信頼されている。
その儒教的倫理を体現する家政婦の背面にはネガがあり、それこそ地下2階にひそむ不潔で愚鈍な夫であった。
そんな汚らしい男でも、家政婦はこの夫との愛によって生きている。家政婦が(範型でなく一人格として)ユニークに備える不合理な欲望が、この夫である。それはあの家屋における隠蔽された「糞」である。だから臭い。
 
ラストのホームパーティで、邸宅の主が、地下から刃物を持って這い出てきた夫と対峙するとき、彼は「あまりの臭さに鼻を覆う」ことをした。
いま殺傷される危険を差し置いて、であるから、邸宅の主の臭がりかたは戯画的な不合理性を有している。
 
邸宅の主やその妻は、これまでも、たびたび運転手であるソン・ガンホを臭がってきた。
運転手として優秀であることを認めながら、それでも彼の体臭は耐え難いと夫婦で語り合う。
あの臭さは何の匂いだろう、と語り合う夫婦は、もう何年も乗っていない地下鉄のすえた匂いを例に挙げる。一貫して愚かなはずの彼らだが、ソン・ガンホが半地下(下水に近いところ)からやってきた他者であることを、嗅覚でのみ明察している。
そうした夫婦の会話を、隠れたテーブルの下で聞くソン・ガンホは、元来うわっ面を得意とした詐欺師であるにもかかわらず、体臭への批判にのみ顔をこわばらせ、無音の怒りに打ち震える。
 
本来、地下2階から這い出てきた家政婦の夫も、ソン・ガンホも、邸宅の主に対して忠誠を誓うプレーンな従僕だった。
(家政婦の夫は、地下2階で自動照明のセンサー役を担い、主たちが居間に入ってくるのを監視カメラで観測するたび、忠誠の言葉を叫びながら点灯ボタンを押していた)
 
しかし、彼らがどうしても避けがたく持ってしまう体臭は、ないし下水の臭いは、元来、社会の上流に位置する邸宅の主にこそ起源を持つ「糞」の臭いである。
邸宅の主は、彼らの体臭に、不潔な、強烈な外部性を感得するが、それは"誤謬"である。
かつて自己であったもの。しかしついぞ調停できず排外されたものの臭いを、家政のアウトソーサーたちがフロイトの言葉で言うところの「抑圧されたものの回帰」として顕現させたに過ぎない。
主は、自らに起源を持つ「糞」の自己否定のために、いままさに殺されるかもしれない緊張感すらも押しのけて、悪臭への強い拒否反応を示した。
 
糞こそが自律的な事物である。糞には糞の知性がある。
だから家政婦の夫と、ソン・ガンホは、眼前で鼻を覆う主の"誤謬"が許せない。
主が愛する「清潔」は、台風が来ればたちまち街に下水が溢れかえることで容易く否定される仮構物に過ぎない(ただそれを丘の上では気づけないだけである)。
 
異形の者として地上に回帰した家政婦の夫は、妻(自らのポジ)が地下2階で死に至らしめられた怨嗟から、パラサイトの長女を刺し殺すが、真の目的である主に向かうところで返り討ちに遭い、命を失う。
そのときまで主を庇う側であったはずのソン・ガンホは、死にゆく元家政婦の夫から「糞」の共同性を感受する。そして彼の怒りを引き継ぎ、包丁を手にとって邸宅の主を刺殺する。
 
この、なんと卓越した転移描写だろう…という感動が、冒頭で長々と書いた「糞」の話につながっている。
 

■結び

従僕の分際で主を刺し殺したソン・ガンホは、事件現場から逃げるとき、とっさの機転で邸宅に戻り、あの地下2階に潜伏した。この邸宅の地下生活者という務めまで、家政婦の夫から継承した。
 
彼は、社会の無意識になることを選んだ。
地下にあるリビングの照明ボタンを使い、いつかこの邸宅を外から観察するであろう(この虫かごの外部に立つであろう)息子に向け、モールス信号を毎晩発信する。
彼は暗号でのみ存在するようになる。
 
詐欺罪などの司法処分を経て、社会に戻ってきた息子は、かつて寄生した邸宅を双眼鏡で眺めながら父の暗号を受信した。
息子は、いつか自分が富を成し、この家の正当な所有者になることを誓う。
それが叶ったとき、私と母のもとへ、無言で階段を上がってきてほしい、と父への手紙を結ぶ(それを父に手渡す術はなく、ほとんど自己宣誓の形式を取っている)。
 
彼は、自分は糞であり、そして精神でもあり、その対立の調停者になることを父に誓う。
それが実現するとき、再び家族は出会える。
 
邸宅を外から望遠鏡で覗く、すなわち、自然主義者たちが設ける「箱」の外側をカメラに映すこと。
言い換えれば、ゲームの外側に出ることのみが真のゲーム攻略であるという答えは、かつて資本主義の数少ない有効な批判たりえたピーター・ウィアートゥルーマン・ショー』を想起する。
この現代性こそ、ポン・ジュノからキム・ギヨンへと清算された賭け金のように映った。
おもしろかった。
 
☆☆☆☆☆
ということで星5つとさせていただきます。
==
2020年1月17日に日本でレビュー済み
TOHOシネマズ日比谷で鑑賞